2022年7月の記事

水平社創立100周年・

 全国連創立30周年にあたって


 今年は、水平社創立100周年・全国連創立30周年にあたります。その機会にあって、部落解放運動の役割と全国連の意義とは、何でしょうか。言い換えると「私たちは今、どこにいるのか」、水平社運動の総括に照らして考えてみましょう。

全国水平社の創立

 今から百年前、1922年3月3日、京都岡崎公会堂に全国から部落の兄弟姉妹が参集し、全国水平社の創立大会が行われました。その意義は、有名な「水平社宣言」に凝縮されています。
 ① 同情融和を拒絶し、部落民じしんの手による自主解放を宣言したこと。
 ② 「おれは人間だ」という叫び。「人間は尊敬すべきもの」とうたったこと。
 これまで「人間外の人間」とされ、蔑まれてきた存在が、逆転的に「人間」としての存在に目覚め、世の中に向かって主張し、部落民的自覚と団結を発現したこと。
 ③ 唯一のたたかい方としての差別徹底糾弾をうちだしたこと。
 しかし水平社は「瓢箪から駒」のように突然生まれたのではありません。1916年には、福岡で博多毎日糾弾闘争がありました。博多毎日新聞(当時)が、「火葬場の隠亡」という露骨な差別記事を記載したことにたいして、豊富・金平部落の部落大衆が村民大会を重ね、ついには堪忍袋の緒が切れて、新聞社を襲撃・実力糾弾しました。
 警察はこれに対して「騒擾罪」を適用し、部落の男性を片っ端から逮捕し、うち300名を拘留するという大事件でした。
 1918年には有名な米騒動がおこり、婦人を先頭に、部落大衆が全国各地で活躍しました。これに対し、天皇制権力は大掛かりな弾圧を行い、そのなかで「こんな騒動を起こすのは部落民のせいだ」として、民衆を分断し、部落民を見せしめにしました。
 こうした民衆決起の背景には、1914年からの第1次世界大戦があり、その大戦争のさなかに、1917年ロシア革命が起こり、「俺たちを虫けら扱いするな」「労働者こそがこの世の主人公だ」と世界中に知らしめた歴史的出来事がありました。
 またもうひとつ重要な側面として、米騒動と部落大衆の怒りの大きさに直面した政府は、それ以降、融和政策にうんと力を入れ、村ボスの育成と、融和教育や改善運動を進めていました。部落差別の解消のためには、部落民の側が差別されないように襟を正し、品行方正に言動を改め、環境衛生に努めるべきだという融和運動が、役所や警察の肝いりで進められました。水平社創立は、この融和主義とのたたかい、キッパリとした拒絶によって、初めてなしえたと言っても過言ではありません。その宣言の内容も、融和主義に対する激しい戦闘宣言にほかなりません。

水平社はいかにたたかったのか

 ① 水平社といえば何をおいても、差別徹底糾弾闘争です。しかも、その方法に注目すべきです。
 差別事件が起きたら、まずもって村民大会を開いて方針をきめ、住民総決起をよびかけています。文字通りの村民大会です。一部の活動家だけで論議して決めるのではありません。寺や共同浴場などを使った、家族総出の論議を徹底してやります。水平社の結成が即糾弾闘争の開始、また糾弾闘争をやるために、水平社を結成している例も珍しくありません。
 獲得目標は、差別者に反省文を書かせる、また新聞などに謝罪広告を出させることが一般的でした。パンフを買わせたり、講演会を開かせることもやっています。
 さらに見るべきは、権力機構(軍隊、警察、裁判所、刑務所、役所、学校など)やその手先(右翼など)が相手の場合、あるいは糾弾闘争への弾圧や襲撃の場合、近隣地方一帯の水平社の総決起で実力対峙し、武装してたたかいました。1923年の奈良水国闘争は有名です。また、糾弾闘争と結合して、同盟休校、税金不払い、在郷軍人会脱会の戦術も駆使しています。「部落民を人間扱いしないならば、税金、教育、軍隊などの義務も果たす必要は無い」ということです。さらに労働者、農民と合流し、対決しています。
 ② 水平社は糾弾闘争ばかりでなく、部落の生活要求闘争にも果敢にとりくみました。それは、何より糾弾闘争に対する弾圧と懐柔をはねかえすために必要でした。権力は、過酷な弾圧とともに、必ず、村ボスを手先にした融和政策による部落大衆の懐柔を常套手段にしてきました。 これへの対抗策として、反失業、住宅、電灯料値下げ、借金棒引き・返済猶予猶、小作料引き下げなどを水平社の運動の一環として取り組んでいます。
 ③ 労働運動、農民運動との結合にも熱心でした。「労農水三角同盟」と言われますが、むしろ労農水渾然一体とも言うべきあり方でした。
 当時の活動家は昼は職場で労働組合、夜は村で水平社が当たり前のように活躍していました。一方、水平社の左派活動家の人々のなかには、「部落内階級闘争激化」論という、専ら部落産業を相手に労働争議を熱心に取り組む誤りもありました。
 ④ 水平社運動=絶えざる弾圧・懐柔とのたたかいでした。
 天皇制権力は、時として、白色テロルをむき出しに部落を襲いました。1917年洞部落強制移転、1922年(水平社創立の年)別府的が浜焼き討ち事件と、水平社創立を前後して、残虐な差別襲撃が起こりました。他方、南梅吉水平社初代委員長ら幹部の買収・スパイ化工作に手を染めました。
 天皇制権力の暴圧の最たる攻撃が、1928年の3・15弾圧での当時日本共産党千数百名の一斉検挙でした。水平社の左派活動家も根こそぎ弾圧されました。これに対して、水平社の「本部派」は、救援や弾圧粉砕を一切放棄したばかりか、代表者会議を開いて「彼らこそ迷惑千万」とばかりにレッテルを貼り、弾圧への総屈服を誓ったのでした。

1930年代―戦争の時代への突入と戦争協力への転落

 1927年に世界的な大恐慌がおき、1930年代に入って、15年戦争と呼ばれる日本帝国主義の中国侵略戦争が本格的になっていきます。
 戦時下にあって、共産党や労働運動がへたっても、部落大衆は果敢にたたかっていました。有名な1933年の高松差別裁判糾弾闘争では、全国100万人と言われた部落大衆・民衆の決起で、差別した裁判官、検事、警察署長などの処分、被告とされたきょうだいの奪還・釈放をかちとりました。戦時下でも、水平社が差別糾弾闘争を堅持したことによって、挙国一致を根底から揺るがすたたかいが実現したのです。
 がしかしまさにそこから、指導部の治安弾圧からの逃亡が決定的になってきます。天皇制権力が、差別糾弾闘争を治安維持法が弾圧の対象とする「犯罪」として扱ってきたことに対し、糾弾闘争を否定・清算する指導路線―1931年水平社解消意見、1934年部落委員会活動が水平社を覆っていきます。そこにおいて、革命党(当時共産党)が「糾弾闘争はやめよう」と率先して言いだす始末でした。
 ここの変質が、その後の道のりに決定的悪影響を果たします。糾弾否定と利用主義(水平社を経済主義の先兵に駆り立てる)が、戦時下、戦後を問わず、部落解放運動の底流となってしまったのです。
 差別糾弾闘争を自らの指導方針から下ろしてしまった水平社は、1936年「人民融和への道」、1937年「非常時における運動方針」と、帝国主義戦争への協力と転向の急坂を転がり落ちていきます。
 「非常時における運動方針」では「国家が重大なる危機に直面して要求するところの『挙国一致』には、もとより国内相克の原因となるがごとき身分的賤視的差別が存続してはならぬ筈である。かかる故に、われわれは差別を徹底して取り除いて、真の『挙国一致』を可能ならしめ」と、「挙国一致で差別解消」をうたい、戦争協力の走狗に成り下がったのです。また、同じく「非常時経済の苦難を切り抜けるために、貧困なる部落経済の向上に最大の努力を傾注する」というこの方針は、水平社の幹部が満蒙開拓団の組織化や軍需産業の労働力供給の先頭に立つことに道をつけるものでした。そして1940年には、水平社を解散し、侵略翼賛運動に解消されていきます。

何を学び、どう乗り越えるか

 ① 全国連は、水平社と同じように、法無き時代にあり、戦争の時代にあります。でも正しい指導路線のもとであれば、たたかえることを水平社は示しています。全国連は、変質した革共同とはキッパリ絶縁し、自前の自主解放闘争を突き進んでいます。全国連「小なりとも、自前の大衆運動」の誇りが、私たちの運動の源泉です。
 ② 私たち全国連の指導路線とは、2回大会テーゼと差別糾弾闘争基軸の三大闘争路線です。その正しさは、以上の水平社の総括に照らしても圧倒的です。そのなかで、狭山闘争には、決定的な歴史的意義があります。ここは、別途詳しく触れます。
 ③ 大弾圧には躊躇なくムラ・全国の総決起と共同闘争でたたかう。1980年代の荒本弾圧になぜ負けなかったのか、その教訓はこの点に尽きます。水平社の負の教訓をしっかりと見据え、その敗北の歴史を痛苦に反省し、二度と誤りを繰り返さない誓いを実践します。

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示現舎・宮部龍彦への公開質問状 5
                 
             部落解放同盟全国連合会

 婦人部Yさんが公開質問状に参加寄稿されたので、これを全国連の公開質問状-5として、発出します。

 1、「示現舎・宮部龍彦」という人物像が、あなたの回答書を重ねるごとに、よりはっきりと見えるようになってきました。
 そもそもは、部落をさらし、金儲けの道具にして糧を得て、ご飯を食べ、日常を送るとは、おぞましい限りです。こんなろくでもないやつを相手にする必要はないと思いつつも、自分自身を部落民だとして嘘をつきとうそうとしている示現舎の宮部龍彦さん、あなたを放置するわけにはいきませんし、絶対許さない。
 差別が現存する世の中で、ほんらい自分が部落民なら、部落民と名乗ることじたいに緊張するのが当然なのに、宮部龍彦にあっては自分が部落民でもないのに「自分は部落民」と平気で言いふらすのも金儲けのため。「部落民」を詐称して、ネットを見る人々から閲覧され「支持」されている限りお金になるわけです。
 一度、正直に「自分は、部落民ではない」とはっきり言ってみてはどうか。本当の自身をさらして、「部落民ではない宮部龍彦」が「研究」や「部落解消」と称してみてみなさい。
 そもそも、宮部龍彦の出身、鳥取市下味野415番地の1は被差別部落ではないのだから。繰り返し指摘しているが、下味野全体が被差別部落ではない。被差別部落は下味野のなかのA地区だけである。415番地の1はA地区ではない。この歴然たる現実を認めなさい。
 さらに、両親、祖父母は、どこの出身なのか、逃げずに答えなさい。宮部の祖先は、いつ、どこから、どうやって現在の場所に来たのか。現在が被差別部落とははっきり違うのに、「両親とも被差別部落出身者」と宮部じしんが言い切っているわけだから、それならその証明をしてみたらどうなのか。部落民は身元を隠していても、興信所や宮部ごときに、無理やり出身を暴かれて差別される。宮部龍彦のやっていることはそういうことなので、自分の祖先が暴かれることに悲鳴を上げる資格はありません。

2、部落差別がどれほど人の心をズタズタにし、傷つけるか、その経験もないし、そもそも部落民でないから傷つけられる理由もない。だからこそ、そこで暮らしている部落民の息遣いを無視することだってできるのだ。一方的にさらし続けられている側に宮部さん、あなたはいない。
 宮部は「H部落探訪」の中で、「親戚(母方?)先で線路向こうは、柄が悪いで』といわれていたが・・(どちらもいっしょ)」と語っている場面がある。その「線路向こう」こそは部落をさし、そしてまたその「親戚」は部落ではないと認めていることになるのではないか。
 わたしのことだが、小学校のときの体験がある。隣村の同級生と遊んでいて、ムラとの境で待たされたこと境がある。実は同級生の親から「家に連れてくるな」と言われていたことを、中学生ごろになって初めて知った。
 このように、差別の壁は冷厳と存在している。前回の質問状で、宮部の父母、祖父母、その方々の兄弟姉妹の出身について尋ねたことに対して、宮部は「父母の兄弟姉妹までいちいち調べるほど、暇ではない」などと、質問から逃げている。父母の出身についてすら回答を拒否している。はぐらかさないで前回の質問状にしっかり回答しなさい。回答できないとは言わせません。

3、さらに「結婚差別」について無責任極まりない知ったかぶりはやめなさい。 部落差別のせいで子供がつまずかない様、しっかり人生をおくってくれるよう、大きくなっても部落の親の心配はつきものです。心配ごとは深く、その深さゆえ、むらの結びつきも強いのです。
 子の恋愛や結婚については、親として最も緊張します。相手や、その家族に対して、自分は部落であることを告げるよう、子に諭す場面は今も忘れたことはない。それは、ただ単に親が子に諭すというようなものではなくひとりの人と人として、差別を許さない思いを込めているのです。
 わたしは、一度は、差別されるのが嫌でムラを飛び出しました。しかし、どこにいっても逃げることはできないと観念し、解放運動との出会いで、差別は部落のせいではないと気づき、自己解放の道にすすむことができた。
 結婚差別についての、宮部の言動を、すべて撤回することを要求します。

4、同和対策事業のなかで、ムラの周辺に住んでいた人も事業に参加し、ムラの課題をいっしょにとりくんだ住民の方もたくさんいます。
 また、外からムラにきて部落の一員として生活するか、またはムラに世話になっても部落民とはちがう、どこそこの外の出身だという人もいるでしょう。しかし、ムラの結びつきのなかで、そうであるがゆえの厳しさと同時に懐のおおきさは、どこのムラにもあります。宮部さん。あなたは、その懐の広さを感じたことはありますか。最後にお尋ねします。 
                 全国連婦人部 Y

以上、7月2日までに回答することを要求する。

2022年6月20日 部落解放同盟全国連合会