2022年3月の記事
プーチン政権による

     
ウクライナ侵略弾劾!

  人民による反戦闘争に連帯を!

狭山意見広告運動の成功~再審実現へ


    
“悔いのない一年”を!

■3・6第30期拡大中央委員会で論議、意志一致
 3月6日、全国連は大阪で拡大中央委員会(拡中委)を開催し、昨年の第30回全国大会からのとりくみについての中間総括と春から夏~秋にむけての方向性を論議しました。

■ウクライナ侵略戦争を許すな

 拡中委はまずロシア・プーチン政権によるウクライナ侵略戦争を弾劾して開会しました。そして、ウクライナ人民の抵抗闘争とロシア国内においても果敢にたたかわれている反プーチン闘争に対して断固支持する全国連としての立場をあきらかにしました。
 今回のこの事態は、世界戦争・核戦争に火をつけるものであり、絶対に許すことはできません。連日にわたって人々の生活が破壊され多くの命が奪われています。「正義」「中立」を装うアメリカ・EU・日本政府も〝共犯者〟です。私たちは全世界で巻き起こる反戦・反核闘争・反政府闘争と連帯します。
 今後、世界の情勢が激変していくことは避けられません。そして岸田政権はこれに乗じて憲法改悪、軍備増強、核武装を急速に推し進めようとするのは間違いありません。私たちはあらためて階級的共同闘争を柱に国内の反戦・反核・改憲阻止のたたかいと連帯を強めていきます。このことを冒頭に確認しました。

■第30期の奮闘と課題が鮮明に

 つづいて、昨年7月に開催した節目の第30回全国大会と、それ以降の半年余りの奮闘をふりかえりました(※基本的な内容は昨年12月の記事を参照ください)。
 一方で、衆議院選挙をめぐって国政選挙・全国政治へのかかわりと具体的なたたかい方について、各地とも課題があきらかになりました。改憲阻止闘争をたたかう主体として選挙戦は最も重要視すべきであり、本年7月に予定されている参議院選挙にどうかかわるのかということを議論しました。
 また、支部活動の「建て直し」という点でも課題があきらかになりました。具体的には支部大会を開催できていない支部、地元の大衆や支部員さんたちと、接する活動や新聞の配達、会費の集金活動等が停滞している支部の問題があります。各地の定期的活動の活性化と、全国各地で支部大会の復活をかちとるための方策については、中央執行部の役割の重要性も浮き彫りになりました。

■2022年は狭山最終決戦の年

 結論から言うと「悔いのない一年にしよう」ということです。本当に「次は無い」ということです。石川一雄さんと命運を共にし、「狭山に勝つために作った」という全国連創立時の精神を思い起こし、つらぬき、これまでのそのすべてを賭けるということです。その覚悟がないと今回の意見広告運動も第三次再審闘争も全部ふっとんでしまうということです。
 狭山事件から59年、石川さんは今年1月に83歳になりました。高齢です。私たちが知っている「あの頃の石川さん」でなくなりつつあります。これまで苦汁をなめさせられた第一次や第二次の再審闘争の歴史をふりかえってみても、棄却が下されてから次の再審請求までは約5年を要します。石川さんの寿命はどうなるのか、そもそも狭山闘争をたたかう我々はどうなっているのか。そういうことです。
 創立時の委員長、副委員長、書記長、そして中央役員ばかりか各地の兄弟姉妹、なかまを我々はどれだけ喪ったか。「狭山事件から60年、65年、70年」といつまでも語り続けるのか。「人生をかけた最終決戦」そのことを肝に銘じ、私たち一人ひとりの腹の底からの決起が必要です。そうした論議をおこないました。
 では具体的に「勝つために何が必要か」。まずは5月に二面ぶち抜きの意見広告掲載を実現する。その衝撃力はすごいものにしなくてはならない。東京高等検察庁・東京高等裁判所を揺るがし、かつ、全国の部落の兄弟姉妹も旧活動家をも鼓舞し、狭山を知らない世代にも振り向かせなくてはならない。そのためにはどんな紙面がいいのか。ケンケンガクガクの議論と意見交換をしました。
 そして意見広告掲載後のたたかいとして、5月22日に東京(日比谷)での中央報告集会の開催、連続的な東京高検・東京高裁への要請行動、その司法権力に集中させる全国ハガキ大運動の展開、「1000人運動」「1000人委員会」といった市民大運動の立ち上げ、夏から秋にかけて各地の報告集会…。そうした提案があり、全国世論を沸騰させるために本気になってその核をつくっていこうという基本的方向性を確認し合いました。また運動財政(軍資金)を作り出すための活動も論議しました。

■春から夏にむかって

 7月の参議院選挙について。全国それぞれの地域で事情は異なりますが、とりわけ自民党や維新の会と真っ向から勝負する候補者を推薦し、最大限のとりくみをしようということになりました。
 具体的な要求闘争について。4月3日に『住宅問題交流会』を開催します。これは「同住連」によって展開された家賃の値上げ反対運動の延長ではありません。供託の分納、老朽化、修繕、建て替えや入居、まちづくり、災害復興、またそれに伴う家賃の問題、管理の問題、住民生活に関する案件を率直に出し合い、一緒に討論する情報交換や意見交換の場として「全国連住宅闘争委員会」を開催します。
 そのほか青年対策部、婦人部からの報告、会計報告がありました。また、第31回全国大会は7月17日に開催することを決定しました。大会にむけた中央執行委員会および大会議案書起草委員会を4月24日に開催することもあわせて決定しました。


示現舎・宮部龍彦への公開質問状 3の3
                 
             部落解放同盟全国連合会

 鳥取市出身の役員から、以下の文書が寄せられたので、全国連の公開質問状3の3として扱い、示現舎・宮部龍彦に発出する。公開質問ゆえ、このような参加は大歓迎である。
 今後も、大いに期待するものである。なお、名前を伏せることは、晒しマニアの宮部ごとき人物から、筆者を無用な攻撃から防衛するために必要であり、宮部がそのことで不平不満を述べることは、自ら天に唾するものであると心得よ。


 私たちの公開質問状3の2に対して宮部龍彦から回答が寄せられた。その中でとりわけ回答書の下味野・鳥取市に関わることに絞って改めて質問する。今回質問状を書いている私自身が鳥取市高草中学校区域の被差別部落の出身であり、下味野はすぐ近くである。 しかも、「示現舎・宮部龍彦は被差別部落民ではない」と被差別部落・下味野A地区の知人、部落解放運動の仲間、部落外にあっても部落差別撤廃のために学習会を組織していた地域の人たちなど多くの人たちから聞いていたからである。
 宮部は「貴団体は、何故被差別部落出身にこだわるだろうか」と問題にするが、実は、宮部は己は被差別部落民ではないと強烈に自覚している。しかしながら宮部は、下味野の被差別部落出身者だと嘘をつき、部落解放運動をあざ笑い、全国の被差別部落や個人を晒し差別を扇動しているから下味野の被差別部落出身かどうかにこだわるのだ。もちろん、私たちが繰り返し明らかにしているように下味野415番地の1は被差別部落ではない。

【Ⅰ】
 何よりも、宮部自身のブログで、「鳥取市と鳥取地裁(平成25年10月9日)によって私の実家は同和地区でないことが証明されました。」と被差別部落民ではないと白状している。
 「私の実家でも鳥取市では同和と思われているらしいですよ。境界の引き方がいい加減だから、うちでも申請すれば同和減免が受け入れられると親父が言っていましたので実際同和減免の申請をし、鳥取市と鳥取地裁によって私の実家は同和地区でないことが証明された。」「鳥取地裁は同和減免の対象区域を地域外の人間に開示しなくて良いと言い、さらに事実として、鳥取市は私の実家に対して開示しなかったから」と、宮部自身が言っている。
 宮部に問う。
(1)「私の実家でも鳥取市では同和と思われているらしい」とは「同和ではない」ということが前提になっているのではないのか。答えよ。
(2)父親は「境界の引き方がいいかげんだから、うちでも申請すれば同和減免が受け入れられる」といっているが、ここから明らかになることは父親は被差別部落ではないと自覚しているということだ。宮部龍彦自身は被差別部落出身だと聞いたことがあるかどうか。あれば何歳頃、誰に聞いたのか。答えよ。
(3)父親は被差別部落出身者なのか。
(4)母親は被差別部落出身者なのか。

【Ⅱ】
 宮部は同和減免を受けたいと思い、被差別部落に隣接していることを奇貨として同和減免を申請している。そもそも「同和問題」は同和減免・同和事業の問題だけではない。私は団塊世代の一人で、学校で同和事業に基づく教育は一度も受けたことがない。解放奨学金も受けたこともなく、小学生時代に教師から差別され放題で差別に悩み部落という文字も怖いぐらいであった。高校生になって被差別部落出身の公務員の方から本を借りて必死に読んだ。東上高志の本であったと覚えている。私にとって部落差別とは小学校の教師によって自覚させられ、貧困、学校生活や友人との関係で悩み苦しみ抜いた人生の始まりだった。高校時代は被差別部落から逃げることばかりを考え、大学も被差別部落出身と誰もわからないように関東地方を選んだものだ。もちろん生活が苦しかったから送金は一度もなく、育英会の奨学金とアルバイトでしのいだものである。この学生時代に学生運動に触れ、部落解放運動を闘いたいと決意し、初めて自分が被差別部落出身者であることを宣言し、学生運動と共に狭山闘争や生活要求闘争に入っていったのである。

 宮部に問う。
(1)宮部は自分が同和減免を申請して通らなかったことを逆恨みし、ゆがんだ差別感情 を増幅させ、部落を晒す行為を続けているのではないか。
(2)部落差別は同和事業を受けるかどうかの問題だけではなく、身分的差別全体の問題 であり、誰もが悩み苦しんだ経験を持っている。宮部は被差別部落民だと言うが、どんな苦しみ・悩みをもって生きてきたのか。
(3)差別によって命さえ失った被差別部落民も数多い。本当に残念でならないが、私の 中学校時代の友人であるH君は職場でH君の被差別部落の出身地を隣接する地域の人から晒され、悩み苦しみながら、その職場である大阪中央郵便局で自死しました。それほどの苦しみの中で生き、其処まで追い詰められる被差別部落出身者がいることを考えたことがあるか。
(4)宮部が、今やっていることは、インターネット上に被差別部落を晒すことであり、差別によって命を絶つ人もいるかもしれない深刻な問題だ。絶対に許せない。宮部は、どう 思うか。

【Ⅲ】
 鳥取市下味野A地区の人たちは誇り高く部落解放運動を担ってきた。
 珍しいことであるが下味野神社は2つある。東側にある下味野神社は地図上に神社マークがついていないが、460年前のえのきが立ち、「アマテラス」、「スサノオ」に加えて、赤池助左衛門ノ命がまつられている。鳥取の被差別部落・下味野は豊臣秀吉の鳥取城の兵糧攻めの囲みを破り、毛利方に連絡しようとした郷士・赤池助左衛門が治めた地域であり、一向宗門徒(浄土真宗)が強い地域であった。豊臣秀吉の軍勢に鳥取城主・吉川経家が破れ、赤池助左衛門の治める地域の民衆は、その後、身分貶下(へんげ)されたものと考えられる。まさに、当時の下味野A地区の民衆は赤池助左衛門を中心に豊臣秀吉の軍勢と闘った誇り高き民衆だったのである。鳥取の被差別部落は、この下味野A地区を中心に形成されたと言われている。
 戦後の解放運動は、この下味野A地区が鳥取の部落解放運動の中心だった。高校生の時、被差別部落の同級生で友人が「相談できる人が大切だから市議会議員の前田さんを応援せないけん」と初めて前田さんという名前を聞いたことを覚えている。前田さんは、私が学生になり、狭山闘争で日比谷小公園に参加したとき、初めて解放同盟中央本部執行委員であることを知ったその人だった。
 前田さんは戦後、1947年に国鉄をやめ、郷里(下味野)に帰り、いち早く農民運動に身を投じ部落の完全解放を願い精力的に活動した。解放同盟鳥取県連書記長、中央本部執行委員として解放運動を指導し、1962年、37歳で鳥取市議会に当選して連続26年間勤め、地域住民の生活、教育、文化の向上と地域の発展の貢献した(ブログより)。
 まさに、「戦後の鳥取における部落解放運動の中心は下味野A地区だった」と言っても過言ではない。

 宮部に問う。
(1)下味野の東側(千代川沿い)にある下味野神社を知っているか。被差別部落・下味野の起源について見聞きしたことがあるか。
 あるならば、宮部はどう思ったか。
(2)前田さんは1989年に亡くなり、親族が意志を継ぎ、市議会議員を務めているが知っているか。その人と話したことはあるか。あるならばどんな話をしたのか。
 以上、真実を答えよ。

【Ⅳ】
 私が部落出身者であることに、より一層誇りを持つようになった本が「一向一揆と部落
 被差別部落の起源」である。
 この本は鳥取市出身の石尾芳久さんの書であり、その他、多数の研究を通して被差別部落の起源論に新たな視点で迫り、被差別部落民を励ます内容である。

 宮部に問う。
(1)石尾芳久さんを知っているか。書物を読んだことがあるか。読んでいるなら、その 感想を述べよ。
(2)あらためて問う。示現舎・宮部は何を目的にしてインターネット上に被差別部落や 名前を全国に晒し続けるか。
(3)鳥取の下味野A地区の人たちや部落解放運動のきょうだい、共に闘う仲間に「被差別部落民ではない宮部が何故部落出身者だ」と嘘をつくのか?問いかけると「ようわからんけど結局金目当てだろう」と答えていた。このように、「金目当てだろう」という地域の意見にどう思うか。真正面から答えよ。

 最後に、示現舎・宮部龍彦よ!
 下味野A地区や鳥取市の被差別部落民の怒り、全国の被差別部落民、共に闘うすべての仲間たちの怒りを真正面から受けとめ、心底謝罪せよ!

 以上。3月15日までに回答を要求する。

2022年2月28日 部落解放同盟全国連合会