2001年02月の記事

部落解放同盟全国連合会とは?

(2001年02月17日)

 部落差別とたたかう部落民のあらたな全国組織

 部落解放同盟全国連合会(以下、全国連)は、1992年3月1日、大阪・中之島公会堂で創立大会をかちとり、部落解放同盟(以下、解同本部派とする)にかわる部落差別とたたかう部落民のあらたな大衆的全国組織として生まれました。この創立大会には、東大阪市荒本地区をはじめ寝屋川、野崎など大阪の各地域、県連ぐるみで解同本部派から組織移行を決断した茨城県連、そして福岡、山口、広島、奈良、長野、東京など全国24都府県から2650人が参加しました。

なぜ、全国連という新たな組織をつくったのか

 全国連創立の過程は、まさに部落解放運動が、生きるか死ぬのかという歴史の別れ道にたっていました。
 この時すでに「バブル経済」は崩壊し、大不況がはじまっていました。また、自衛隊・掃海艇の中東派兵につづき、カンボジア派兵をねらったPKO(国連平和維持活動)法案など、政府はふたたび侵略戦争の道にのめりこんでいました。そのなかで政府は「部落解放運動の一掃、同和対策事業の全廃」の方針をうちだしました。
 なによりも、法務省は「確認・糾弾についての見解」(1989年)で、「糾弾は差別者の人権をそこなうおそれがある」「確認・糾弾に出席する法的義務はない」「法務省は、糾弾会に出席しないよう指導する」と、あからまさに差別糾弾闘争への敵視、禁圧を公言してきたのです。これによって、悪質な差別事件の続発、差別者によるひらきなおりが続発しています。
 また、「地対財特法」の期限切れをむかえ、1991年12月には、地域改善対策協議会の「意見具申」と、地域改善対策事業にかんする「政府の大綱」が発表されました。そこで政府は、①個人給付的事業はすべてうちきる、同和事業は早期に終結する、②差別にたいする糾弾は絶対にやらせない、③部落民の自主的な運動は認めない、政府や行政機関が主導する「啓発センター」が運動と組織をとりしきる、と宣言したのです。
 「差別してはいけない」とされた時代がおわりをつげ、部落差別が大手をふってまかりとおる時代、部落のきょうだいがふたたび差別と貧乏のなかで「虫ケラ」のようにあつかわれる時代がはじまったのです。
 このときに、部落解放運動は、政府の部落解放運動つぶしにたいして差別徹底糾弾の嵐をもってまっこうから反撃すること、糾弾闘争を軸にして部落民の生活と権利を守りぬくことが求められていました。
 ところが、このときに解同本部派は、差別糾弾闘争を、すなわち部落民の自己解放の魂をなげすて、ますます悪質化する部落差別にたいして見てみぬふりをきめこんだのです。狭山闘争も部落大衆の「差別裁判糾弾」「国家権力にたいする実力糾弾」のたたかいをおさえつけ、「仮釈放」お願いのもとでまくひきしようとしはじめたのです。また、同和事業の全廃攻撃にたいしても、解同本部派は「残事業の利権」のために、差別の元凶である政府・自民党と手をむすび、個人給付的事業のうちきりには自らすすんで協力する始末だったのです。解同本部派は、部落のきょうだいたちの生活や差別への怒りとは、まったくかけはなれたものになってしまったのです。
 部落のきょうだいにとって、古い組織=解同本部派にかわる新しい運動と組織が本当に求められていました。そこから、解同本部派と袂を分かって、部落差別を徹底糾弾する新しい組織=部落解放同盟全国連合会の結成を決断しました。

全国連はどんな運動をするのか

  部落解放同盟全国連合会は、部落解放運動の本来の姿をよみがえらせてたたかいます。
 先輩たちが望み、私たちがいまなお望むものは、差別とたたかう運動です。どんなにきびしくても、また相手が誰であろうと、差別があればただちに指摘し、糾すことのできる運動です。全国連は部落差別にたいして糾弾闘争の嵐をまきおこします。差別徹底糾弾をつらぬき、住宅、介護・医療・福祉、教育・保育、仕事などあらゆる部落の要求の実現のためにたたかいます。また、たたかう労働者階級人民とともに帝国主義の侵略戦争に反対する解放運動をつらぬきます。このいっさいのたたかいの主人公は、ひとりひとりの部落大衆です。
 部落解放同盟全国連合会は、「エタであることを誇りうるときがきた」「人の世に熱あれ、人間に光りあれ」(全国水平社創立宣言より)、この水平社いらいの部落民自主解放の思想、誇り高い部落解放と人間解放の精神をよみがえらせるためにたたかいます。

中央本部の所在地  大阪府東大阪市荒本862ー2

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