2017年09月の記事

10・29狭山中央闘争で 再審実現をきりひらこう

(2017年09月06日)

全国の兄弟姉妹、たたかう仲間の皆さん。私たち、部落解放同盟全国連合会は、10月29日、東京・日比谷において、狭山事件の再審を求める集会と、霞ヶ関~銀座でデモを行います。また、中央役員、地域代表者は、9月23~24日、大阪で拡大中央委員会を行います。皆さんの参加を心から訴えます。


いいかげん差別裁判やめろ!公正に事実調べを行え!

1963年5月狭山事件発生から54年。「殺人犯」にされた、石川一雄さんは今年で77歳の喜寿をむかえました。

石川さんは無実です。しかし、当時相次いだ身代金誘拐事件で、犯人取り逃がしの大失態を繰り返した警察は、国家の威信をかけて「生きた犯人を捕らえるのだ」を至上命令にしました。そこから、狭山市内の被差別部落への集中した見込み捜査が行われ、マスコミをフル動員して「部落ならやりかねない」と露骨に部落差別を使って宣伝し、その国家ぐるみの謀略のなかで、犠牲にされたのが石川さんです。

石川さんは、孤立無援のなか1ヶ月も、超人的に否認してがんばりました。しかし、ついには「お前が認めなければお前の兄を逮捕してやる」「認めれば10年で出してやる」という、取り調べの刑事の悪魔のささやきの前に、ついにウソの自供をしてしまいました。この自供の評価・分析はともかく、以上のような状況のなかで、百人いれば百人とも、否認を続けることは不可能でしょう。

狭山事件の場合、かくもひどいでっち上げが、部落差別を使うことで、はじめて可能になったのです。

一審の浦和地裁では、異例のわずか半年のスピードで死刑判決。二審・東京高裁では、「民主派」の皮を被った寺尾裁判長の登場で、ペテンにかけ、事実審理を早々にうちきり無期懲役。この寺尾判決が、いまなお石川さんを「殺人犯」にしている確定判決です。無実でありながら、一度も公正な審理も行わず、部落差別でしくんだ国家犯罪を隠蔽し、ただただ擁護し続けているのです。

それを50年、半世紀をこえて維持し続けているのです。「部落差別解消推進法」ができても、狭山事件が解決しないかぎり、生きた部落差別は無くなりません。1974年の寺尾・確定判決からも、はや43年。裁判所は、どこまで差別の片棒を担ぎ続けるのか。いいかげん差別裁判やめろ!石川さんに、一度でも公正な態度を示せ!

現在、3回目の再審が東京高裁にはかられています。この第3次再審になって、裁判官、検察、弁護士の三者による協議が始まり、すでに33回を経過しました。そのなかで、新証拠として、「被害者のもの」とする万年筆のインキがだされました。下山博士が鑑定した結果、インキの違いは明白、万年筆は被害者のものではなく、警察のねつ造であるという結果がでました。

下山鑑定がでて1年。ようやく事態は動きだしました。検察はまともに科学的鑑定で反論できず、「民間人の意見書」を出してきました。今後、弁護団の再反論、さらには下山博士を呼んだ事実調べの要求へと、この攻防が焦点化します。今度こそ、公正な事実調べを。その実現以外にありません。

下山鑑定の大々的キャンペーンと事実調べを求める国民的な運動へ。私たちは、この大きな声をあげ、寺尾判決の終焉を宣言しましょう。


戦争と差別に反対する東京行動

トランプ大統領のアメリカと、金正恩委員長の朝鮮民主主義人民共和国との緊張は刻一刻と極限に達しようとしています。スレスレの言葉と行動の応酬は、それじたいが戦争状態と言っても過言ではありません。いつ何時、一線をこえて爆発しても、何ら不思議ではありません。

しかも、双方共に、核戦争を辞さないと言っています。また、朝鮮半島―東アジアをこえて、ロシア、中国、ひいては地球規模の世界戦争の導火線ともなりうるものです。人類存亡の問題です。

私たちは、絶対に認めることはできません。今すでに、行動をおこさなくてはなりません。

とりわけ私たちは、トランプが「戦争になれば、戦場は北朝鮮であり、アメリカ本土ではない」「北朝鮮の全滅・・・」と、かってのヒットラー同様の、民族抹殺の大量虐殺を口走っていることを見過ごすことはできません。排外主義、差別主義をむき出しにして、核をも使った軍事行使を正当化しようと言うのです。トランプの白人至上主義は、「白人さえ生き残れば、アジア人など死に絶えてもかまわない」と言うまでにいきつくのです。

安倍政権は、このトランプを全面支持し、一緒にやりますと誓っています。麻生(副総理・財務大臣)の二度にわたるヒットラー賛美発言は、こうした日米支配層のこんにちの風潮、背景があって、そこからこぼれ落ちたものです。

私たちの10・29は、戦争と差別に反対する東京行動です。100年前、第一次大戦のさなかに、ロシアでは、「パンよこせ」の国際婦人デーのデモから、たちまち国中の反戦デモに広がり、戦争を止め、世の中まで変えてしまいました。差別裁判反対のデモが同時に反戦デモであっても、何らおかしくありません。

皆さん。家族、友人、知人、みんな揃って、10・29東京で会いましょう。


狭山中央集会

 10月29日 12:30開場 日比谷図書文化館・ホール

「被爆72周年 8・6ヒロシマ 福島地区のつどい」をふりかえって

(2017年09月06日)

                          実行委員会・山根


 福島地区では3度目のつどいを,地元や全国から協賛金のご協力,ご参加のもと開催できましたことを,ここに深くお礼申しあげます。

 スーパー猛暑のつづくなか,強大な風雨を伴う台風5号の接近により,急きょ午前午後とも旧りんぽ館「いきいきプラザ

にて行うこととなりました。

 「福島地区のつどい」は2年ぶりに復帰された森島代表の司会あいさつで始まりました。

被爆から72年を経て,一番の柱である被爆者からの訴えについては,実行委員会の場においても,「被爆の実態を直接学びたい」との強い要望があり,これまでの発言者を中心に依頼しました。

ことし3月三浦さんが亡くなられ,ほかの被爆者も,「もう振り返りたくない

「体力的にきびしい」という返答が重なるなか、平野さんに参加していただき,ご自身の被爆後の苦悩などお話しいただきました。

 それを補う形で,実行委員会の李さんから3歳での入市被爆と,在日としてその後の差別や後遺症とのたたかい,そしていまの戦争政治への警鐘について。松井さんから,疎開先から広島に帰還された際みられた現状の詳しいお話をされました。

 とくに李さんが8・6において,在日の立場から堂々と主張されることは大変意義深いことと思います。日本による朝鮮侵略が,原爆投下後にようやく解放された歴史的経緯があります。侵略の拠点だった広島が被爆の被害だけを強く主張する8・6ではなく,加害の歴史も照らし合わせて,はじめて反戦反核そして反差別を掲げて真正面から平和を訴えるアピールに意味が出てくのではないでしょうか。

2011年に亡くなられた被爆者の沼田鈴子さんも,加害の歴史と向き合うその内容に大きく賛同された方です。

 また,大久野島で毒ガス製造した藤本安馬さんも,実行委員会アピールでも書かせていただいたとおり,戦争加害とたたかってこられてきた方です。部落解放運動を通じて,部落民のご自身が,中国人を「人間外の人間,殺して当たり前」と差別してきたことを自己批判され,いまも中国への謝罪や被害者の賠償請求裁判を求める運動をつづけていらっしゃいます。

 そして中田書記長のまとめからは,革共同による差別事件から独自の8・6をつくってきた経緯を振り返っていただき,あらためて「福島地区のつどい」の意義深さと継続することの必要性を感じました。

 今回,発言された皆さん一人ひとりの訴えの力強さを今まで以上に感じられました。

 被爆や侵略戦争,そして6年前の福島第一原発事故…それらは過去のことかもしれません。

 しかし,その出来事はいまもつながっています。安倍政治は,かつての戦争や被爆,そして原発事故の歴史はなかったことにしようとしています。

けれど,その責任はいまの人たちに相続されていて,何も解決はしていないこと。そして過ちを繰り返させてはならないことを,私たちに突き付けているのだと強く感じます。


平和公園の式典では,市長がありきたりの言葉を口走り,安倍総理に至ってはこの日にしか発言しない公約を並べていましたが,そんな国家や行政をつき動かすために,「福島地区のつどい」の内容を広げていかなければならないと,あらためて心に刻みました。

そして,午後の「きずなインふくしま」においても,毎年司会進行や原爆詩の朗読や歌唱,またフェイスペイント,三線演奏などと,いままでの絆のもと集まっていただき,表現いただいたことに感謝の気持ちでいっぱいです。

また,福岡の水害に遭われた方々からも大変ななかかけつけていただきありがとうございます。会場に募金箱を設置し,7108円集まりました。集会カンパも43648円集まりました。

集会カンパの一部を,福岡への義援金にあてさせていただきます。ご協力ありがとうございました。

 また全国連本部より狭山再審を求める署名や下山鑑定の図表を掲示していただきました。

会場内の掲示となり,参加者に大きくアピールできる形式にすることが課題として浮き彫りになりました。

 そして会場内に,炊き込みご飯や飲み物,せんじがらの販売もあり,売れ行きも好調でした。準備いただいた皆様にも感謝申し上げます。

 今後さらにきびしい差別攻撃に対峙できるように,町内外の団結や連帯を深め,運動や内容を強化できる8・6ヒロシマに育てて,関係者との信頼を築き,継続したとりくみとなるよう邁進したいと思います。これからも団結してたたかいましょう!

九州北部水害の現地から 被災した水田へのポンプアップ作業レポート

(2017年09月06日)

1)豪雨災害から1週間目、田面にひび割れが入り出した表面は白く乾燥し始めた。赤谷川には、上井手(約6.5町歩)と下井手(約5町歩)の水田が広がっている。

35年前、私が解同甘木・朝倉地協の常任(書記次長)当時、二つの水路工事を同和対策事業で改修しようと話が持ち上がった。解同林田支部役員と東林田、西林田、その他関係世話人との協議で、同和対策事業としての着工の強い要望が出された。それは、ず~っと昔から干ばつになれば水の取り合いが起こり、いざこざが絶えなかった歴史を持っていたからである。

 当時、私は同和対策事業全般を担当していたが、一般地区での工事に難色を示していた行政とねばり強く交渉を行って実現させた事業のひとつだった。

 予算の関係で、5期くらいに分け工事は進められた。それまでの玉石の壁や土端だけで築かれた水路は、毎年5月の水利清掃では、総掛かりの作業を要する1日がかりの仕事だったのである。

 この水路改修事業によって、コンクリートの三面側溝と砂留の溜めマス、随所に開閉の水門と水落口がつけられたことを覚えている。それ以来、用水路はこの地の人々と水利関係者にとって大切な役割を果たしてきた。

 今度の災害で、上井手の用水路は幸いにして大きな被害はなく、取水口は壊れたが、それ以外はポンプアップで水は送れる。

一方、約5町歩の水田を擁する下井手は、約4㎞の水路を通って水を供給しているが、今回の災害で取水口のコンクリート擁壁が全て破壊され、水田や果樹園(ぶどう、梨、柿)、畑のほとんどに真砂土と流木が押しよせ、一面まっさらになってしまった。下井手の曲がりくねった水路は、あちこちで土砂に埋もれ、側溝は寸断。下流へ水が全く流れてこない状況になっている。


2)これを憂えて7月22日の夜、水利関係者の総会が開かれ、50数名が出席した。

  議案は、①被害状況と場所、および規模の大小の説明、②ポンプアップと工事場所、その経費の負担、③ポンプ管理人と水当番(各組合3名)、砂が詰まった時のポンプ引き上げと重機(ユンボ)代、④穂が出て収穫まで100日間の可動などで、それぞれについて出席者の意見を求めた。

  約2時間の議論では、各自から思い思いの意見が出されたが、経費の組合員負担や二次災害等の問題で、組合としてのポンプアップを断念せざるを得なく、来年度に向けて、水路の完全復旧をめざすことが了承された。

  我が家の水田は、下井手水路の一番下流に位置している。周辺約1町歩を10名の耕作者が耕している。この中で生き残ったのは、村上とTさんの3反歩だけだ。6月に田植えした水田は、全て土砂がかぶって、一面真砂土に埋まり、水田の境はまったく分からない。そこに巨大な流木やゴミ、がれきが溜まり、見るも無惨な水田となってしまった。(今も流木やがれきの撤去は続いている)

  我が家の水田のすぐ下にあった隣の田んぼとは3mの段差があったが、玉石で積み上げられた壁を一夜にして、ほぼ同じ高さまで真砂土で埋め尽くされてしまった。


3)水利総会で自力での給水が決定されてから、どうすべきかを考えた。①あと何日位、水の供給なしで稲は大丈夫か。②水中ポンプ(2インチ+50mホース1台)の給水で2枚の水田にどれだけ時間がかかるか。③費用をJAで見積もりしてもらうと、2インチポンプ1台3万円、ホース50m1万円。しかし注文しても取り寄せまでかなり時間がかかる。④この間、友人や知人にポンプ借用を頼む。

  7月28日夜、第2回全国連福岡災害対策会議が開かれた。13名のメンバーが、これまでの取り組みの経過、支援状況、今後の課題について検討し、最後に水田のポンプアップ問題を議論した。

  天神町支部長の玉城さんからポンプ(2インチ)を1台貸してくれる提案があった。更に新品のポンプ購入も了承され、発電機もAさんが中古を修理して提供してくれることになり、発電機も2台となった。


4)我が家の水田は2枚に分かれ、上が481㎡、下が643㎡と比較的小さい。

  29日の朝、早速ポンプアップ作業の準備に入った。幸いにも水田から15mくらいの所が川となって水が流れている。そこをスコップで真砂土を掘り、目の小さなプラスティック籠とポンプを沈めた。

  上の水田まで50m、下の水田までは20mの距離だ。ホース2本を準備し、乾燥が激しい下の水田から給水を始めることにする。発電機のエンジンをかけ、水中ポンプの電源を入れると、20mのホースから水が勢いよく流れ出したが、白く乾燥してひび割れた大きな割れ目に水がどんどん吸い込まれ、表面まで水はなかなか溜まらない。

  約4時間でようやく水面が見え始めた。しかし、やっかいなことに水中ポンプに小さな真砂土が吸い寄せられ、これを1時間ごとに除去しないとホースの中に砂が溜まっていく。昼近くになり、昼食で一旦家に帰るために、軽トラックから発電機を降ろし、ポンプアップはそのまま続ける。

  1時間後に戻ってくると、下の水田に6割ほど水が溜まっていた。給水を一時中断し、ポンプ周りの砂を除去。今度は上の水田に水を給水するため、ホースをつなぎ替える。そして再びポンプアップ開始。上の水田には平手が15㎝くらい入るひび割れがあった。

  夕方まで約4時間給水するが、ひび割れの間に水がしみ込んで表面まで水はほ

とんど溜まらない。18時すぎにこの日の作業を終え、ポンプやホースを片付け始めたら厄介なことに気づいた。40キロの発電機を軽トラック荷台に載せようと辺りを見渡すが人影はどこにもない。まる一日の作業で身体は疲弊していたが、覚悟を決め気合を入れて40キロの発電機を抱え上げた。(10年前ならこんなことはなかったと苦笑する)

  

5)30日(日曜日)朝、福岡からの応援の人と二人で水田に向かう。

  田んぼの周りの情景が一変していることにビックリする応援の人。

  さっそくポンプアップの準備。川の中の真砂土をスコップで掘り、籠を沈めて水中ポンプをセットする。車から発電機を降ろしエンジン始動。リセットした水中ポンプは、勢いよく上の水田に水を送り込み始めた。

  少しの合間をみて応援の人を上流の被災現場へ案内。25日経った今も土砂や流木の大半が残っている。大勢のボランティアの人たちが、一生懸命土砂の撤去作業を続けていた。

  田んぼに戻ってみると、上の水田は水が満杯になっている。稲葉が生き生きしてきたのを確認し、ポンプアップを一時中断し、下の水田にホースをつなぎ替える。

  つなぎ替を終えると再びエンジン全開。乾燥した田んぼの中は、至る所に水草が10~15cm程生えており,雑草をとりながらふと耳を澄ますと,石垣から這い出てきたのか水が入った上の水田から,ゲロ,ゲロ,ゲロとカエルが歌いだした。じっと聞いていると,いつのまにか10匹くらいが一声に歌いだし,久しぶりに賑やかなカエルの声を聴いた。カエルが稲の代わりにお礼の鳴き声を発しているのだなと応援の人と顔を合わせ,嬉しくなった一日だった。

  午後4時半頃には,下の水田も満杯となり,隅々まで水が行き渡ったのを見届けて,この日の作業を終了した。

  夕方帰宅すると,シルバーの友人のIさんが水中ポンプを届けてくれていた。彼は被害の大きかった松末地区に住んでいた。裏山が崩れ,住宅が土砂でつぶされた中から,倉庫内の水中ポンプを見つけ出し貸してくれたのだ。本当に感謝に耐えない。(彼は今,妻の実家のある大刀洗町に引っ越している)

  これに新しいポンプが届けば,水中ポンプ3台と発電機2台での水の供給体制が整い,稲刈りまでの100日間頑張って稲を育てることができるようになった。

  全国のみなさんのご支援に心から感謝します。


            2017年8月2日

               村上久義(朝倉市杷木町在住、全国連副委員長)


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