2017年07月の記事

復興支援ボランティア

(2017年07月23日)

全国連現地災害対策部の呼びかけで、7月16日と17日の2日間、朝倉市杷木町の林田地区で復興支援ボランティア活動が実施されました。
 新聞、テレビでは、多くのボランティアが被災地に駆けつけていると報道されていますが、今回の甚大な被害の復興には、まだまだ圧倒的に人手が足りていません。また、そもそもボランティア支援の受け入れには、事前の登録が必要ですが、その手続きさえ知らない、知っていてもその余裕がない被災者が多く、特に部落にはほとんど支援のボランティアは入っていないのが現状です。
 今回の全国連現地災害対策部の呼びかけに、「困ったときは部落民同士。組織をのり超え、こうした被災の時こそ助け合おう」と二日間で述べ20名の県下の部落の兄弟や労働者がボランティア活動に駆けつけてくれました。また、参加者は、身の回りで集めた義援金や支援物資も届けてくれました。
 今回の活動場所は、地区の中心部から少し離れたKさん宅。幸いにも地区の中心部は、同和対策事業で地盤がかさ上げ工事されていたため大きな被害を免れましたが、それがなかったなら地区は全滅状態になっていたでしょう。実際に、かさ上げ工事がされなかった古い2階建ての同和住宅は、1階部分に土砂や流木が押しよせ、住民は隣保館で避難生活を強いられています。Kさん宅も氾濫した赤谷川のすぐ側で、地盤が低かったために、大量の土砂と流木に襲われました。
 作業内容は、家や小屋の周り一面に60センチぐらい積もった土砂の撤去作業です。土砂を撤去しながら、埋まった家具、自転車、車、農機具の掘り出しも並行して行います。重機が利用できれば楽でしょうが、重機が入らない場所は、スコップや鍬、一輪車を使った手作業しか方法がありません。
被災地は、連日35度を超える猛暑続き。しかも、ボランティア参加者は、全員が決して若くはない人ばかり。大量の水を吸った土砂は、スコップ一杯でもかなりの重さ。30分に一回は休憩と水分補給をしなければ熱中症で倒れてしまいます。最初は、慣れない作業に、一日やり通せるだろうかと不安に思った人も多かったそうです。
また、二日目には大雨警報が発令され、一時避難指示も出されましたが、雨に警戒しながら被災者の家族と一緒になって作業を続行。作業にも慣れ、二日間でかなりの量の土砂を撤去することができました。
   作業終了後の反省会では、「みなさんと一緒に作業を貫徹できたことがうれしかった」「災害被害が出たときに、それを仲間で支えることは大事で素晴らしいこと」などの感想が出されていました。
 二日目の作業中には、地元テレビ局の取材が入り、夕方のニュースで放映されていました。また作業現場が国道386号線沿いのため、通りがかった車の方から「家の片付けの足しにしてください」と大量の手作り雑巾の差し入れもあり、参加者それぞれが元気をもらいました。
 次回の復興支援ボランティア活動は、7月22日(土)と23日(日)の8時~16時に行います。集合場所は、杷木町林田入り口の国道386号沿い、全国連のゼッケンが掲げられた軽トラックが目印です。多くの方のご支援をお願いします。
 参加される方は、事前に村上久義までご一報下さい。

2017年7月21日   全国連現地災害対策部

朝倉・杷木地区 災害緊急対策会議の報告 2017年7月14日

(2017年07月22日)

7月14日、緊急対策会議が開かれ、被災状況と現状、これまでの取り組みが報告されました。さらに長期化すると思われる復興支援に主体的に取り組むために災害対策部の設置を決定しました。
義援金口座の設置も決定。今、最も優先するものとして浄水場破壊のために飲料水・生活用水の確保と配布であることが確認されました。行政への働きかけもやるようにしました。

被災状況
林田地区 9戸  杉馬場地区 6戸   両地区とも人的被害はない。
断水 全戸断水(全体約1700戸)
避難 林田地区  人権啓発センターに約10~15人
   杉馬場地区 把握できていない

これまでの取り組み
  救援物資の配布  林田地区、杉馬場地区、個人
  水の配布  林田地区 生活用水500リットル、飲料水300リットル
        介護施設 生活用水200リットル、飲料水200リットル
        杉馬場地区ほか

災害対策部の設置----決定された。

義援金口座の設置----決定された。

復興支援ボランティア活動
  7月16日、17日林田地区に入ることが決定された。
長期化にどう対応するかも検討する。

救援体制の経費  義援金・カンパでまかなう。

全国からの支援物資(7月13日現在)
       飲料水 ペットボトル2リットル6本入りの箱が----78箱分
       200リットルポリタンク1個
       そのほか、紙皿、紙コップ、カップ麺、野菜ジュース、
濡れティシュー、などを支援受けました。
       送り元は 本部、福岡、茨城、奈良、大阪、山口など本当にあ りがとうございます。それぞれの地区に配布しました。
水の配布は7月8日から毎日しています。
この給水体制が厳しく、今は村上が担っていますが負担が大きく対策部で可能な人が参加する。また、行政への働きかけを追求することが決定されました。

 とりあえずお礼と報告です。


本部追記
1、 義援金は、組織的扱いのため、現地で口座を開設します。
今しばらくお待ちください。

2、 支援物資の送り先は
  〒838-1514
    福岡県朝倉市杷木久喜宮78-1
        村上 久義

   飲料水がまだまだ必要です。
インスタント・味噌汁なども希望されています。

なお、一時的に二次災害のおそれから、同地区への宅配を拒否するケースがクロネコヤマトなどであったようです。今は大丈夫でしょうが、もし拒否された場合も、災害救援だと押し込んで、請け負わせてください。
その場合、多少の時間がかかっても、届きますので。

また、クレジットカード決済でアマゾンを利用する場合は、送料は無料になるようです。参考に。

            

8・6ヒロシマのつどいの御案内

(2017年07月22日)

私たち実行委員会は毎年原爆の日の「8・6ヒロシマのつどい」を通じて,過去の戦争を反省し,その結果としての沖縄の地上戦そして原爆投下である歴史と向き合い,戦争や差別,原発事故をくり返さないための企画として取り組んでまいりました。ことしで10回目の開催を迎えます。
今年は被爆から72年を迎えます。しかし,いま世界中で戦争情勢に突入しています。そのなか安倍政権は共謀罪の強行採決,自衛隊の憲法明記=改憲,辺野古新基地建設,核の使用も辞さないとささやかれ,戦争情勢に追い打ちをかけてきています。
だからこそ,あらためて被爆者の核を許さない切実な思いや,放射能被害の恐ろしさ,そして過去の戦争加害に対する責任をあらためて学び,継承し,発信することが,いま切実に求められているのではないでしょうか。
私たちは福島地区の一住民の立場として,新たなつながり,団結のもと,解放運動を再構築しなければなりません。これからもこのムラで子孫が人間らしく生きるために,差別とたたかう新たな潮流を築き,新たな発信を開始するとともに,地元の被爆者や,差別に苦しんできた住民の世代を超えた和をつくり,新たな一歩を踏み出したい。またそこに全国からの皆様とも交流し賑わいをつくりたい。

その目的から,広島原爆の日の8月6日,福島地区にて三回目の「きずなインふくしま」を開催します。
「福島地区のつどい」では,地元福島地区の被爆者の話や,実行委員会からのアピールを中心とした集会をおこないます。そして西区役所前でのステージ,露店をはじめ,被爆についての座談会も予定しています。
この度も,本会のご参加ならびにご協賛をよろしくお願い申し上げます。

(当日の主なスケジュール予定)
被爆72周年 8・6ヒロシマ 福島地区のつどい 【広島市西区いきいきプラザ4階講堂】
8/6(日) 11:00~12:30  被爆者の訴え,実行委員会からのアピールなど
きずな イン ふくしま ステージ,飲食,展示ブースなど【西区役所前緑地帯】
8/6(日) 11:00~17:00  (ステージは13:00~)




〇実行委員会からの8・6の呼びかけ
 さん(元毒ガス工場工員,毒ガス島歴史研究所顧問)
私は1926年広島県竹原市の被差別部落で生まれ,大日本帝国憲法,軍国主義のもと,教育勅語を教育させられた。その中で,中国人を「人間外の人間」「家畜以下」とみなし,殺して当たり前の加害意識をもって,大久野島で毒ガスを製造した。
だが,部落解放運動を通じて,加害の根性をたたき直すことを強烈に自覚し,30年から40年をかけて,自己変革,自己批判をしてきた。人間が生まれながらにして持っている基本的人権に抵触し,なぜそれが発したのか,現象の本質に迫ってきた。
そうして謝罪のため中国を訪ねた。当時芋穴から8mくらい掘り下げ, 8kmもある手掘りの避難所に,毒ガスを使った。住民1,072人のうち助かったのは34人。虐殺した。慰霊碑に参拝したが,言葉で謝罪は済まされない。賠償しなければならない。しかし財力はない。国家に賠償させることを約束して帰り,そのための法律制定をいまも要求し続けている。重慶大爆撃被害者補償の裁判傍聴や,東京高裁での街宣も行っている。
日本軍は1941年12月8日,真珠湾攻撃を仕掛けた。それをしてなければ,原爆はなかった。
年代が変わるほど,加害の事実が忘れ去られていく。
しかし,大久野島はこれからも命をとっていくのだ。
安倍政権は今,明治憲法に戻そうとしている。教育勅語や共謀罪がまかり通り,まさに合法的暴力団と化している。今こそ第三次世界大戦を阻止するため,根性をつけて対抗する勢力をつくりあげていく。私にはそういう責任がある。
8・6ヒロシマは,人の命にかかわるという本質にとことんこだわり,原爆も,毒ガスも,戦争も,差別も,そして原発も,すべてにおいて,加害と被害,二つを合わせて,そこから平和を追求していくこと。
そしてそれをアピールする人間を増やしていくことが肝心である。

九州北部水害の現況  7月12現在・投稿O

(2017年07月22日)

福岡県、大分県で多大な被害を出した豪雨・山崩れの現場に行ってきた。  朝倉市に住む、村上久義副委員長が忙しい中、現地を案内してくれた。朝倉市杷木町の林田地区、赤谷川沿いの村上さんの田んぼある東林田地区、同川上流の松末小学校。そして久喜宮地区、志波地区、杉馬場地区の6か所を5時間かけてまわった。  亡くなった方が27名、行方不明者が現時点で21名の大災害だ。現場はどこも自衛隊による行方不明者の捜索活動が行われている。捜索と捜索のための道路補修は行われているが、復旧作業などはまだまだ先の話だ。杉馬場では、行方不明者の遺体が見つけられたのだろう。ブルーシートがかぶせられ、警察官が走り回る現場に出くわした。村のすぐ横だ。遺体と対面する家族のことを思うとやりきれない。 赤谷川流域の3人が流された現場では家は崩壊し泥に埋まっている。固まった泥と大量の流木をみると行方不明者の発見にどれだけの時間がかかるのかは素人の私にも想像がつく。一刻も早く救出を願うだけだ。  土台を濁流に流され、鉄骨柱一本で今にも川に崩れ落ちそうな味噌屋さん。潰れた家や1階の屋根付近まで完全に泥に埋もれた家が連なる。表からは何の被害を受けてないように見えても、裏山が崩れ、埋まっている家など。どの家も人の気配はない。あっという間もなく押し寄せる泥水に命からがら避難されたのだろう。静かだ。鶯が鳴いた。車は流され横転したり、泥に埋まっている。松末小学校の近くは大きな電柱が何本も上から数メートルのところで折れ、2階建ての屋根にのしかかっている。大きく立派な家や、高級車なども、この水害の前には、命を救うことも避難の手段にもならなかった。  赤谷川は山から出たところから肥沃な田畑を育ててきた。しかし今では、山崩れによる真砂土の固まった土が、田んぼや畑、果樹を埋め尽くし巨大な平地を作り出している。見渡す限り真砂土だ。マスコミなら福岡ドーム何十個分の広さというのだろう。赤谷川沿いの村上さんが精魂込めて育ててたんぼは無事だった。と安どする間もなく、用水路がつぶされたから枯れるしかないね、と村上さん。ほかの場所でも聞いた。泥をかぶらなかった田んぼも用水路が潰れ、今年は一粒も収穫はなかろうという。  林田の村のすぐ近くの浄水場が壊滅的打撃を受けた。真砂土と流木で埋まった。電気はかろうじてつながり、プロパンガスも細々と補給されたが生活での最大の問題は水だ。避難所になっている林田隣保館には給水タンクが備え付けられ、村上さんらが井戸水などを運んでいる。飲料水は何とか確保できるが生活用水は大変だ。大災害の避難所で繰り返される避難者の苦労はここでも繰り返される。  今回の被害の特徴は、大量の流木と泥だ。震災とはまた違った、信じられないような光景だ。普段は10mに足りない小川が、数時間の記録的豪雨で最大幅数百mにもなって氾濫した。とにかく流木は凄まじい。直径1メートル弱、長さ10メートルを超えるような大木が信じられないような場所にゴロゴロしている。みんな木の皮はきれいにはぎ取られ、美しい木肌をさらしている。その木肌の美しさが異様だ。根もついている。大きすぎてユンボでも簡単に移動できないのだろう。まず細かく粉砕して、トラックで積み出している。この流木が橋げたにひっかかり、泥水をせき止め、濁流となって平地に流れ込んだ。土は真砂土だ。乾くと固くなり、雨が降ると流れる。厄介な土だ。道路や家を埋め尽くした泥は人の力ではどうにもなるい。道路や田んぼの泥をユンボで取り除く、そして家の中の泥を取り除く・・・考えるだけでも気の遠くなる作業だ。 朝倉市でも、被害は村上副委員長の住む杷木町にとくに集中している。山肌は、この一帯だけ、あちこち爪でひっかいたように崩落している。ちょっと距離があるとはいえ、村上宅の裏山の崩落のスケールは一番大きい。一時は、道一つ挟んで隣近所まで避難指示がでて、自衛隊と警察が封鎖した。 そうしたなか、被差別部落の村の被害は大きい。差別の結果、かって川沿いの湿地帯に追いやられた部落は水害の悲惨をおしつけられてきた。今回も、林田地区はすぐ横の赤谷川が流木でせき止められ濁流が流れ込み、旧同和住宅2棟の1階部分は完全に泥で埋め尽くされ、周りは流木の山となった。昔、よく泊めてもらった住宅だ。幸い、けが人はでてないようだ。5年前の水害の教訓で、川が氾濫する前に住宅の人たちは隣保館に避難したそうだ。 隣保館がある本村は同和事業でかさ上げした。もしこの事業をやっていなかったたら林田地区は全滅したかもしれない。村上さんの話では、かさ上げ事業は同和事業の対象にならないと行政が首を縦にふらないなか、村の人たちのねばり強い闘いで実現したそうだ。杉馬場地区は川のすぐ横の6軒が、流木と泥に埋まった。住民が村上さんにお礼を言われていた。全国連からの支援のペットボトルの飲料水へのお礼だった。

5月13日~反戦・平和沖縄行動2017報告 村上久義・副委員長

(2017年07月22日)

梅雨入りした沖縄では、平和行進が中部・基地コース、南部・戦跡コースの二手にわけ始まっていた。 5月13日、全国連の行動団は、大阪から一緒の5人、福岡から1人、奈良から1人、計7人(青年3人)、悪天候のなか予定を遅れて那覇空港で合流した。 さっそく辺野古へ。悪天候で工事はストップ、テント村もすわりこみは引き揚げていたが、辺野古の海岸を踏みしめ、明日を決意。 名護の海岸で県民大会 14日、朝8時、県庁前集合、県内外の大勢の人たちと一緒に、シャトルバスで大会の会場へ。今年の県民大会は名護・瀬高海岸。海岸にステージが準備され、「復帰45年5・15平和とくらしを守る県民大会」の大きな横幕が張られ、外国人もふくめ、人、人、人の波であふれた。  実行委員長・山城博治さんが「宮古、石垣への自衛隊配備にふれ、沖縄全県基地化を許さない」と、力強いあいさつ。稲峰名護市長、県選出国会議員からは「共謀罪も廃案に」と訴え。ヘリ基地反対協共同代表・安次富さんと、高江住民の会からの報告。韓国・済州島カンジョン村で米軍基地建設とたたかう40人の代表団は「9年たたかって、昨年つくられた。しかし、あきらめない。東アジアの平和は民衆の連帯で」と訴え、大きな拍手が湧き起った。  デモは名護の海岸沿いで「新基地やめろ」「県民は負けない」と、一帯にコールが轟いた。  夕方から、「島ぐるみ会議」有志の皆さんとの交流会。初めて実現した交流会だ。お互いの自己紹介、運動の報告や思いを語り合った。オリオンビール、古酒泡盛を酌み交わし、おおいに話がはずんだ。有志の方々は、退職世代、長年復帰運動―反基地運動を担ってきた。「嘉手納の一坪反戦地主で今もたたかい、借地料は供託している」方。「70年コザ暴動は沖縄を虫けら扱いする米軍への反撃だった」と語る方。  「島ぐるみ」有志の方から「被差別部落言うても沖縄の集落のこととどう違うのか」と質問があり、水平文庫26号「部落差別の始まりと身分制度」を全員に贈呈した。2時間半、有意義な交流だった。 戦争・基地は誰のために  15日、朝9時にホテルを出て、嘉手納、普天間の基地視察のあと、佐喜眞美術館、糸満で「ひめゆり」平和祈念資料館、那覇の沖縄国際平和総合研究所を見学。嘉手納ではF16戦闘機が12機に増え、すさまじい爆音をまき散らしながら着陸した。資料館での展示物は、私の目をくぎ付けにするものがあった。 丸木俊、位里さん「沖縄戦の図」。米艦船に体当たりした特攻兵の肉片を袋に拾う米兵。集団自決の惨状。幼い少女らの表情・・・。  沖縄戦とは何だったのか。「国を守る」ということが、いったい誰の何のためのもので、どれほどの民衆の犠牲を強いるのか。なぜ、沖縄にはこれがやられたのか。・・・その沖縄は、70年たった今も基地の島にされている。  有志の方々には、心から感謝もうしあげます。これからも、共にたたかい、共に学び、かけがえのない友になっていきましょう。共に、朝鮮侵略戦争をやめさせましょう。基地を無くしましょう。  

26回大会基調報告・要旨

(2017年07月22日)

   部落解放同盟全国連合会 中央本部中田潔書記長 部落解放運動は大きな転換点にあります。安倍政権は、いよいよ憲法の改悪にのりだし、「共謀罪」などで、部落解放運動も含めて、ものも言えない世の中にしようとしています。このままだと、どんどんそうなって、差別糾弾闘争もできない、そんな風にされてしまいます。 憲法改悪に反対し、戦争阻止を柱に  戦争のできる国、そういう国にしたてあげるには、様々な改悪や、弾圧をへて進められます。そのなかで、われわれはどういう運動をしていくのか、そこをはっきりさせてたたかわねばなりません。部落解放運動の柱に、絶対に戦争をさせない、そのことを打ち立てて闘いましょう。  全国連は、三大闘争のあらゆるとりくみにあって、差別糾弾闘争を軸にしてきました。そこをしっかりさせることで、部落解放運動を再生・復権しようとしてきました。  今、若い層になかなか部落解放運動に魅力を感じてもらえない、そんな時代です。 担い手の高齢化問題も確かにあります。  しかし、では、もう部落解放運動はいらないのかと言えば、決してそうではない。 昨年の大会でも触れましたが、就労状況をみても、非正規労働者がどんどん増やされ、犠牲の集中する部落の就労をはじめ生活は非常に悪くされています。しかも、その肝心なところを支える運動は、どんどん弱められています。全国連は、そういうところとしっかり向き合い、こんにちの部落差別の有様としっかり向き合った運動を求められます。   この5年で狭山必勝へ  狭山闘争でも、そういうところをしっかりやっていく。差別糾弾闘争を軸にしてたたかっていく。そこがなければなりません。これまでの10年をふりかえって、われわれの弱点も見えてきて、その総括のなかで「新たな挑戦」をうちだしました。また、新たな挑戦のなかで、様々な人と繋がり、一緒にとりくんでいくことで、今までより広範な新たな人々との出会いがありました。  そういう努力の積み上げのなかで、狭山の決定的な新証拠をつかみとりました。石川一雄さんが、殺人犯にされてしまった、決定的な証拠とされた、万年筆が、実は、警察のでっち上げであるとはっきりわかる、下山鑑定がだされました。  我々自身は10年たたかうこともやぶさかではないけれども、石川さんの年齢を考えると、5年が勝負です。事実調べを必ず実現させることが必要です。下山鑑定を武器に、事実調べを実現し、この第3次で再審を実現しましょう。  その過程を通して、部落解放運動を元気にしていく、そういうことが求められます。勝つためには何をしてでも勝つ。目の色を変えて、やりましょう。  同和対策事業うちきりで何がおこったか  本部派は、同和対策事業のうちきりに、屈服したのだということを忘れてはなりません。  「一般対策を軸にして、それを活用していく」と言いながら、大衆的な要求闘争はどんどん闘われなくなっていった。そんななか、実際に、部落のなかでは、どういうことがおこってきたのか。  例えば、介護保険制度の改悪で、これまで利用できていた人がサービスを利用できなくなっていく。この制度が始まる時点で、我々が心配していた通り、「保険あって介護なし」にされていく。  住宅問題ではどうでしょうか。公営住宅法の改悪、応能応益制の導入、本部派はそれを認めてしまった。それから20年たって、部落の住宅にかかわる権利は、どんどん削られています。「住む権利を保障しろ」と正面から掲げ、家賃にとどまらず、いろんな点から、要求闘争がたたかわれなくてはならない。それが低下しているが、むしろ逆に、これからこそしっかりやっていかなければなりません。  同対事業うちきり以降のこうした流れ、関係性のなかで、「部落差別解消法」も見なければなりません。    お上まかせでなく、大衆運動の発展が必要  昨年の12月に、部落差別解消法が成立しました。「今さら、なんで?」我々は国に頼らない団体だし、何より同対法うちきりで何がおこってきたのか知っていますから、今度の法律はうさんくさいなと感じています。  ここ東大阪では、同対法打ち切り以降、部落やしょうがい者、在日など、それぞれが持っている特殊性やしんどさを無視して、行政は、とりあえず「人権」でくくって、いわば何もしない、されていない状態が続いてきました。あげくには、もう法律で部落が無いのだから、対応しません、そういう行政の態度です。  そこへ、今度の法律では、部落差別はあるし、国はそれを解消する責任があると書いています。これで、「これまで、部落は無いのだから対応しませんという行政に対しては、文句を言っていける」と思うのは当然かも知れません。  しかし、よく見ると、本来的に、部落差別を残しているのは、国や行政など権力なのに、遅れた意識の人が勝手にひどいことしていると捻じ曲げています。  この法に期待するとえらい目に合う。本部派は、事業の要求はしないと、言い切っています。自由同和会は「部落差別をした者には、罰があるとつけてくれれば、もう解放運動は無くてもいい」と言っています。  労働運動や様々な大衆運動が法の改悪で縛られ、小さく小さくされていくなかで、わが解放運動がこの法律のもとで、どんどんお上頼みの運動にされていく。それは、われわれが、融和運動と言っていたことです。  部落解放運動は、国・行政、お上まかせの運動ではなく、あくまで自主解放を基本にした大衆運動であらねばなりません。  そのための方針として、3つの軸<改憲反対><狭山必勝><要求闘争>をしっかり確認して闘っていきましょう。
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