瀬川博委員長の御逝去を悼む
  長い間ありがとうございました
 昨年末12月23日未明、瀬川博委員長が御逝去されました。83歳の生涯でした。若い頃から持病をかかえ、晩年には多重の病気とたたかい、驚くほど頑張り抜いた末の、ご立派な最期でした。
 瀬川博さんは、最後の瞬間も、私たち全国連の委員長でした。葬儀は、遺体を荊冠旗で被い、最後の見送りは、瀬川さんありがとう!の声に、送られました。
 瀬川委員長!
長い間、本当にありがとうございました。処分闘争いらい40年、全国連創立いらい28年、重責を全うされました。

 瀬川さんの思い出は、語り尽くすことはできません。散髪屋を営みながら、日夜飛び回って、融和主義や日本共産党と対決し、荒本支部を躍進させた青年期。
 狭山、三里塚、反天皇を良くたたかうが故に、支部丸ごと大阪府連に処分され
、親族まで引き裂かれ、暴力団と死闘をくりひろげた処分闘争。そのさ中、1983年には、当時現職で再建支部長だった水口幸一氏との一騎討ちとなった東大阪市議選に立候補し、見事勝利しました。5期20年、部落解放運動と反戦反核を代表し、議員を勤められました。 
 石川一雄さんより、二歳年上、同じように、満足に学校にも行けなかった。議会壇上にたつことは、即ち血のにじむ学習が必要でした。今はなき辻岡先生と、識字をし、文字を奪い返していかれた。手を墨で真っ黒にして、頑張る姿に頭が下がり、今も印象深く残っています。
 1992年、全国連創立大会で委員長に就任。いらい28年間、重責を全うされた。なかでも、広島差別事件が発生し、革共同との決別にまでいたる際に、瀬川さんは実にキッパリ決断され、皆を激励された。
 右も左も受け入れる、めったにない度量の大きな人であったが、部落解放運動の筋は瀬川さん自身の信念として、一本通っておられた。
 最近は狭山意見広告にたいへん喜び、石川一雄さんの事実調べ、再審をわがことのように願っていました。
 生き残った私たちには、先人の願いを引き継ぎ、実現する使命があります。狭山意見広告運動を成功させ、事実調べー再審を切り開きます。三大闘争で部落解放運動を再生します。瀬川委員長、私たちの行く末を見守ってください。

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