2019年07月の記事

28期第1回の全国連中央執行委員会決定!

(2019年06月29日)

後藤裁判長あと1年をむかえ

第二次狭山意見広告を決定

 62日、28期第1回の全国連中央執行委員会が開かれました。真剣な討議のすえ、28回大会の運動方針を具体化する、重要な方針を決定しました。

 第一議題、全国大会の総括。議案書がかってなく好評で、「たたかう全国連」としてかちとりましたが、要求闘争など具体化=政策にまで高める課題が残りました。「医療や介護、どうやればいいのか。ノウハウまで。1日合宿が必要だ」という方向がでました。支部・県連大会の日程は別途掲載。支部大会は組織建設の要です。「3人支部」でも、ぜひやりましょう。

  天皇代替わりと対決し、選挙・狭山・沖縄をたたかう

4月統一地方選挙~きむら選挙の総括は、木邨中執からの御礼と報告、中央本部からの全国連としての総括提起として述べられた。(要旨は4面に掲載)

天皇代替わり・10連休でのとりくみでは、荒本・婦人部、あさくら支部、天神町支部で学習会。長野県連「しょうり」での連載。狭山統一行動では、婦人部から要請行動、各地から福岡・街宣、熊本・すわりこみ参加、広島・学習会、兵庫・すわりこみ、大阪・街宣と市民集会合流が報告されました。5/1921沖縄行動が北浦団長・中執から報告されました。

さらに安倍政権のねらうW選挙―改憲、秋の大嘗祭との対決では、参議院選挙(衆参Wも)は、改憲反対勢力の党・候補に積極的に参戦してたたかう。8・6ヒロシマは、74年前の追悼・被爆の継承とともに、現在の安倍政権の戦争・核武装政策とたたかう。福島町のムラにはいる願っても無い機会を活かす。10/22即位の礼、11/1415大嘗祭に対して、学習会・大衆論議を大事にしたうえで、狭山中央闘争を<狭山・反天皇>東京大行動にします。

 火の出る論議で狭山方針を決定

 狭山一年間決戦のリアルな見通しと下山鑑定人尋問の実現への課題について、真剣かつ火花散る討議をしました。

 狭山中央闘争は、会場確保の関係で、11/3(日比谷図書文化館)としました。

 この6月で後藤裁判長の退官まで丸1年、9月上旬第40回三者協議をもって、いよいよ最終段階に入ることをしっかり認識しました。そのうえで、全国連として重大な決断をしました。

  第二次意見広告をとりくむことを、中執決定しました。毎日新聞全国版・掲載

時期は来春早々。すぐに準備にはいり、次回中執、拡中委には「これでGo」まで煮詰めていく。「前回で米櫃の底まで払った。次は葬式代まで要求するのか」それでもやろうという、全国連の存在をかけた中執全員の決断をした。重苦しい雰囲気のなか、決定の瞬間に、会場に電気が走った。

  講演学習会を、意見広告運動○○実行委として、8月までに企画する。

  8/20〆切狭山新署名、8/29要請行動を決定しました。

差別糾弾闘争では、①維新の参議院候補予定者・長谷川豊の差別発言に対して、維新総体、長谷川当人の謝罪公表、公認撤回まで要求することを決定した。②示現舎に対して、公開質問状―2の要旨を論議しました。

 8/2425全青交を、全国からの結集で成功させましょう。9/7広島全婦にむけ、7月上旬に現地オルグと第2回西日本実行委員会、7/21には全婦幹事会が開催されます。

以上

沖縄行動報告

基地・安保に反対する闘いとのさらなる連帯をかけて
5.19~21全国連『反戦・平和 沖縄現地行動2019』に7名

我々全国連は今年も『反戦・平和 沖縄現地行動』に取り組みました。2011年の県民大会と同時におこなわれた『人間の鎖・普天間基地包囲行動』への青年部の決起以来、9年連続の組織的派遣でした。階級的共同闘争とは何かを問い、学び、実践していくという点で今回も意義深い三日間となりました。以下、おもな行程。

▼一日目=宜野湾へ。全国集会(復帰47年/平和とくらしを守る県民大会)に参加。集会後に普天間へ。普天間基地を佐喜眞美術館と嘉数高台公園から視察。

▼二日目=名護・辺野古へ。ヘリ基地反対協のテント村とキャンプシュワブゲート前の抗議行動の激励、カンパ、聞き取り学習。

▼三日目=糸満へ。ひめゆりの塔、平和祈念資料館、平和祈念公園、平和の礎、摩文仁の丘を見学。 

今後もできるだけたくさんの兄弟姉妹とともに現地に赴き、反基地・反安保闘争との連帯を強めていきたいと思います。

<行動団代表・北浦裕樹久>

沖縄行動に参加して(荒本)

県民大会へ

519日、空港で茨城組と合流し、県民大会<復帰47年・平和とくらしを守る5・15県民大会>に向かった。沖縄は、快晴・真っ青の空。ムシッとした外気にあたると沖縄に来たのだと実感する。2年前と同じく、豪雨対策に余念がなかったが豪雨に変わって、太陽の照りは、半端ではない。会場の熱気も伴ってか、滝のように汗が噴き出る。平和行進の代表がそれぞれ発言(本島2コース、宮古、八重山4コース、全国から1200人余の参加者で平和行進がとりくまれた)。行進から会場入りした参加者がほとんどではなかったか。炎天下の宜野湾海浜公園野外劇場に山城博治実行委員長の音頭でガンバロウ三唱が響き渡った。北浦中執作成の辺野古新基地建設反対の画用紙を7人全員が頭上にかざし、全国連のたたかう意思と連帯をあらわした。「沖縄に返せ」の歌は、やはりしみる。私たちの「解放歌」だ。基地がなくなるまで、差別がなくなるまで、次世代につなげるだろう。

佐喜眞美術館にて

会場を後にして、同じ宜野湾市にある佐喜眞美術館に行く。2年前とは、展示内容が随分変わったと感じた。館内に入ってすぐのフロアーには、辺野古基地反対のたたかいを紹介した拡大写真がこれでもかというぐらい壁いっぱいに貼られていた。大浦湾沖で着工を阻むカヌー隊のたたかいをはじめ、テント村の座り込みのたたかいが展示されたパネルに見入ってしまった。2年前、大浦湾は、とても青く、エメラルドの色がみられた。デモ行進の途中、カヌー隊と手を振り合い、交信した記憶がよみがえった。今回、辺野古行きは、翌日の日程であったがこの「たたかう美術館」に来たことで体が引き締まる思いだった。丸木位里さん、丸木俊さんの作品「沖縄戦の図」は、一番奥の最後のフロアーに常時展示されている。圧巻。茨城から参加した中学生のとも君は、腰かけた椅子から離れず、ずぅーと見入っていた。

後でわかったことだが「沖縄を描いた画家たち2019年展」のイベントの最中だった。そのなかにキャンバス・アクリルで描かれた、<HOME-HENOKO-INVICTUS>という作品のテーマは、辺野古、屈しない、わが故郷と勝手に解釈してみた。口惜しさ、怒り、悲しみ、苦しみあらゆる感情が見える気がした。灰色基調で黒灰の暗雲が砂に見える。辺野古の海に砂が投入され、描かれたと確か説明があったとおもう。もう、エメラルドでない、灰色への魂の叫びに思えて仕方がない。

嘉数高台公園の展望台から見えたもの

前回のおりには、展望台までの階段を登り切ることができなかったが今回なんとかたどり着けた。オスプレイがわがもの顔で数十機ほど居座っている普天間基地。そこから少し離れたところに2004年に米軍のヘリが墜落した沖縄国際大学が見えている。米軍は、上陸した1945年4月1日から20日ごろには北部全域占領し、中・南部では、8日ごろに米軍は、沖縄本土の中部西海から東海岸線にかけて守る日本軍の反攻で一進一退。激戦は、40日も続いた。激戦地となったこの嘉数では、住民の半数が死んだ。普天間基地は、いわば米軍の戦利品なのだとおもってしまう。キャンプハンセンもキャンプシュワブもその名の由来は、将校の名前ではない。もっともよく銃弾をうち、火炎銃を使った兵士の名が使われているという。本土決戦を遅らせるため、大本営は、沖縄を捨て石にした。そして、今日も続いている。

辺野古へ

二日目の20日、辺野古行き。少し緊張した。テント村前の浜辺は、構造物が目前にあった。天気の具合かもしれないが海は、どんよりしている。昨日の美術館でみた絵が頭からはなれなかった。テント村の方から親切で丁寧な説明をうけた。軟弱地盤対策は、不可能だ。今年2月の県民投票、4月衆議院補欠選挙で示された辺野古新基地建設NOの民意。何代も何代もつながり、揺るぐことのない沖縄の意思が貫かれている。

3日目、ひめゆり平和記念資料館へ行く

那覇市内からレンタカーは、昨日までとは逆の南の方向に向かう。ひめゆりの愛称で知られる沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の学徒と教師240名が戦場に(陸軍病院に看護要員として)動員され、激しい砲爆撃のなか南へ南へと向かった彼女たち。地図を頭に描きながら、少しでも彼女たちの実体験に迫ってみた。6月18日、「解散命令」「悠久の大義に生くべし」牛島満司令官は最後の軍命をだして23日に自決。米軍包囲のなかそれぞれ砲弾のなかをにげ惑う。生存者の証言は、言語に絶する。「兵士は、手りゅう弾で自決できたがわたしは、死ぬ道具がなかった、だからいま生きている。」「ガマに砲弾が撃ち込まれ、負傷した親友。放置してガマを出た。自分が許せなかった。」「水を探し求めた、水たまりの水を飲んだ、血と糞尿だった。」記憶はあやういがこうした証言にこれを強制した張本人は、なにか、だれかと迫らずにいられない。解散命令の後、数日間で100余名のひめゆり学徒が死んだ。「悠久の大義」とは、天皇のことであり皇国皇民教育であり、言葉を取り上げ、土地を取り上げ、いのちを奪った。本土決戦を遅らせるために県民を戦争に駆り出し、犠牲を強いた。今、天皇が毎日のようにテレビに出てくる。沖縄戦で天皇は、なにをしたか。いま、勉強しよう。

移動沖縄県内の小学生、中学生が学習に来ていた。子たちの真剣な眼差しをカメラに収めている教師。摩文仁の丘では奈良の中学生とであった。そういえば、伊丹空港でも修学旅行の一団と会ったがここにきて反戦学習をやっているのかな。語り部の高齢化や不在状態を次につなげることがどれほど大事か考えさせられた。

滞在時の食事で気づいたこと

国際通りの牧志市場の2階で夕食。近直移転予定。また、辺野古に行く際、うるマルシェという道の駅に食堂があり、ボリュームたっぷりでおいしい。「どこから来られたの」と他の客から声をかけられる。ふつうにお話しができるのがうれしい。道の駅の活用を。


沖縄行動の感想

                       (茨城)山田幸子・朋生

 今回の沖縄行動で一番心に残ったのは、佐喜眞美術館とひめゆりの塔でした。

 美術館の絵は、沖縄戦で火に焼かれる人々、ガマで自決を強いられた人々など衝撃でした。

 ひめゆりの塔では、語り部さんが話をしてくれました。戦争に動員された若い看護婦さん達が死んでいったという話を聞いて、胸が痛くなりました。

 それから普天間飛行場も見ました。ここにはオスプレイが何機も止まり、すぐ手前には住宅や学校があります。落ちたらどうなるんだろう、毎日どれだけうるさいんだろうと思いました。

 辺野古では、珊瑚礁は海をきれいにするのに、埋められてなくったら、海は汚くなって魚も住めなくなってしまいます。地元の方の話しを聞いて、私たちも頑張らなくちゃと思いました。実際に沖縄に行かないと分からない、すごく感動した行動でした。


沖縄現地行動に参加して

大久保 三宅

 宜野湾海浜公園についたら、県民集会が始まったところだ。拡声器から司会者の声が聞こえてくる。「早よ行かな」と気が焦る。会場へは様々なゼッケンをつけた人たちが次々と吸い込まれてゆく。席はすでにうめつくされ、やっと最上段を確保。熱い、これが沖縄の太陽か。じりじりと照りつける。早速買ったばかりの日傘をさす。効果てきめん、傘の下がこんなに涼しいとは。

 実にたくさんの人々だ。炎天下平和行進を続け、その仕上げとしての集会だ。右翼の妨害をはねのけ行進を貫徹した人たちの確信に満ちた発言に私も拍手に力がこもる。

 ヘリ基地反対協の安次富さんは丸山穂高衆院議員の「戦争による北方領土返還」発言に「こんな議員を辞めさせるのはわれわれだ」と怒りを込め弾劾した。丸山の発言に対し自民党までが正義面して「糾弾決議」をしているが、丸山議員の本音は安倍自民党の本音にほかならない。「沖縄の寄り添う」と言いながら圧倒的県民の声を無視して辺野古に土砂を投入する安倍に丸山の糾弾など、嘘っぱちもいいところだ。安倍や菅こそが「戦争による問題解決」の張本人ではないか。そうでなければなぜ基地がいるのか。

 さまざまな団体が次々と発言するなか、特に心動かされたのが韓国で基地に反対して闘う人達の連帯のあいさつだ。日本帝国主義による36におよぶ植民地支配、軍事性奴隷、徴用工と何一つ解決していないどころか居直りを決め込む安倍政権に対しその怒りははかりしれない。そんな状況の中で沖縄に連帯の挨拶に来られたことに心から敬意を表したいし、ともに闘えることを喜びとしたい。

辺野古で座り込みしている人達と交流し、私たちもその行動に参加するものと思っていたので、テント訪問しかできなかったのが残念であった。しかし、終了時間ギリギリに訪れた私たちを温かく迎えていただき、ていねいに説明されたうえ「時間がなくて申し訳ない」と謝罪までされ恐縮することしきり。

 テントで説明してくださった現闘の鐘ヶ江さんは長く関東部落解放共闘の議長をされていた方で我々の黄色いゼッケンを見て「知ってますよ」とうれしそうであった。意外な人に出会えてうれしく思った。

 ダンプの前にプラカードを掲げて立ち、警察やガードマンの暴力に屈することなく闘い続ける現地の様子を見たかったし、参加したかった。命懸けで防衛局の暴力職員と闘い続けるカヌー隊とも交流したかった。

 次回は戦跡めぐりだけではなく闘いの渦中に全国連ここにありの姿を確認したいものである。

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