天皇代替わりと橿原神宮(大会報告をまとめたもの)

(2019年6月8日)

(1)洞(ほら)部落強制移転100年

 大久保はその昔「洞」と呼ばれ、畝傍山の中腹にありましたが、「部落民が神武天皇陵を見下ろすのは恐れ多い」として現在の地に引きずり下ろされました(1917~1920年)。神武天皇なんてそもそもいません。なぜいもしない天皇の墓があり「橿原神宮」などというご大層な神社にまつられているのでしょうか。

 徳川幕府から明治政府にかわる頃、天皇と言っても庶民にはなじみがありません。そこで天皇の権威付けのために初代天皇とされる「神武」の墓探しが始まります。そして8世紀につくられた「古事記」「日本書紀」をもとに天皇陵が特定されていきます。関西各地に「○○天皇陵」と言われるものがありますが、そのほとんどが当てずっぽうです。

 いま神武天皇陵とされているところは、墳墓や石室があったわけではなく、その昔「糞田」とまで呼ばれたところです。おそらく百姓が肥料に糞尿をまいていたのでしょう。そのより所とした「古事記」「日本書紀」の記述にさえ合いません。つまり「神武天皇陵」は完全にでっち上げなのです。

 208戸、1054人の人たちが洞部落から強制移転させられました。今のようにトラックがあるわけではありません。大八車で解体した家を運び自分たちの手で建て直したのです。その過程で生後1年以内の乳幼児8人を含む13人が亡くなっています。移転先は「大久保」の地名から分かるように、ちょっと雨が降るとすぐ水に浸かる「大きな窪地」=湿地帯でした。それまで誰も住まなかったところです。面積も洞部落4万坪から新大字1万坪へと、4分の1になっています。

(2)橿原神宮

 日本は1894年の日清戦争に勝ちます。その戦勝記念神社として明治天皇の命により神武天皇を祭神とする橿原神宮がつくられます。1904年日露戦争、1911年大正天皇の即位、1915年同天皇の神武陵行幸(洞部落強制移転の契機となる)、1940年「紀元2600年」として全国から勤労動員し、多くの人家や農地を取り上げ現在の広大な橿原神宮とその付属施設がつくられます。そして太平洋戦争へと。まさに天皇と戦争の神社です。

(3)「洞部落強制移転」をめぐる論調の変遷

 洞部落強制移転は1968年、鈴木良氏が雑誌「部落」ではじめて明らかにしました。しかしこれを否定し、洞住民が自ら土地家屋を献納し「部落改善事業の典型的実例」であったとする「自主献納論」。また、一般地区の移転もあり、被差別部落の問題のみに特化できない「神苑論」も主張されています。

 しかし、洞部落強制移転は強烈な部落差別以外のなにものでもありません。この点を曖昧にし、いかなるご託を並べようとも、それは天皇制を容認し屈服した姿に他なりません。洞部落強制移転が朝鮮3・1独立運動、中国5・4運動と、日本帝国主義の侵略戦争にアジア人民が蜂起したそのさなかに行われたことを記して報告とします。 

(写真について)1918年の初夏に撮られたもの。
洞部落の前の水田で田植えをしている人の背景に、村の家並みが見える。
1919年に主に移転が行われたものと思い、移転100年とした、とのことです。

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