示現舎からの回答書

(2019年3月26日)

回答書

部落解放同盟全国連合会 御中

2019224

宮部龍彦

 

2019220日付、貴団体の公開質問状にたいし、次の通り回答する。

 

示現舎への質問-1 <以下の事実関係について釈明せよ>

1)宮部龍彦は部落民なのか???

宮部龍彦は間違いなく部落民である。

横浜地裁相模原支部は2017711日決定において、「全国部落調査 データに記載されている地区の一つの出身であること」を被差別部落出身者と判断することの基準としている。宮部龍彦の最初の住民登録地は鳥取県鳥取市下味野であり、これは正に全国部落調査に掲載されている地名である。つまり、裁判所が宮部龍彦は部落民であると認めているのである。

現在、東京地裁に係属されている「解同」との裁判でも、「解同」側の当事 者の出身地が全国部落調査に掲載されている地名であることを、公証役場が証明する手続きが進められている。このようなことは、公証役場が出身地の地名が全国部落調査に掲載されているかどうかで部落民を判断するのでなければあり得ないことである。

それだけではない。宮部龍彦の父親が所有する「上味野」にある田んぼは、 鳥取市の「同和」予算で改良されたものである。なぜ明らかに部落でない上味 野の田んぼが同和」予算により改良されたのか。それは、所有者が部落民で あると鳥取市が認めたからである。

宮部龍彦の実家のすぐ近くの自治会館の脇を流れる「どうの川」が暗渠にされたのも「同和」予算によるものである。そこが部落でなければ鳥取市が「同和」予算を支出するわけがなかろう。

また、こんなこともあった。大阪府松原市の更池部落出身を公言する作家の 上原善広に初めて会ったとき「宮部さんは部落出身なんですよね?」と開口一 番に言われた。なぜそう思うのか聞くと、鳥取市の職員がそう言いふらしていたということである。

そもそも部落民とは権力により作られたものではないのか。それならば、前述のように権力により部落民と認められた宮部龍彦が部落民以外の何であると 言うのだ。

一方で、裁判で被差別部落や被差別部落民の存在を否定するような、一見したところ矛盾した主張をしているのは、権力に対抗するためである。そもそも 部落解放運動の本質は反権力闘争である。権力による部落民認定には徹底的に対抗するのが正道なのである。

 

2)「同和地区 Wiki」について

宮部龍彦は間違いなく同和地区 Wiki の創設者であり、全国部落調査の再発見者である。しかし、ある時からそれは大衆運動化し、真の部落解放を願う無名の闘士が各々の意思で行うようになり、完全に宮部龍彦の管理を離れてい る。全国部落調査は宮部龍彦の意思であるのみならず、真の部落解放を願う大衆の意思である。インターネットには無数の情報が飛び交っており、誰にも気にかけられずに埋もれていく情報もまた無数にある。その中で、全国部落調査 が拡散することは、全国部落調査が価値ある情報であることを証明している。

 

3)「ネットの電話帳」について

 「ネットの電話帳」は示現舎として運営しているものではなく、宮部龍彦個人 のサイトである。

その存在意義は、権力側が始めた個人情報保護という言論弾圧策動に乗っかり、自由を抑圧し、災害時の救助や弱者救済まで困難にし、人の命までをも危険に晒す「個人情報クレーマー」という醜悪な存在を無力化し、徹底的に粉砕するためである。個人情報保護を理由に企業が労働組合に従業員名簿を渡すことを拒むようになり、大学が自治会に学生名簿を渡すことを拒むようになっている。これが、権力が仕掛けた巧妙な罠であることは貴団体の諸君であれば気付くはずである。「解同」等が推し進めた身元調査の禁止運動はマンマと権力に利用されたのである。

小地域の苗字一覧を掲載しているのは、第一に宮本洋一先生という、私が尊敬する苗字研究者の研究を手助けするためである。また、昨今は「日本人のおなまえっ」という NHKTV 番組が好評であり、多くの人々が苗字に関心を 持っていることが分かったことから、大衆の学問の自由に寄与するために掲載 している。

 

4)「部落探訪」について

 「部落探訪」は部落についての正しい知識を広め、「正しい寝た子の起こし方」を実践したシリーズであり、興信所との指摘にはあたらない。

現に「差別をなくそう」「部落差別解消推進」と呼びかけている。「差別をなくそう」「部落差別解消推進」と掲げる興信所がいったいどこの世界にあろうか。

 

5)部落解放同盟全国連合会関係人物一覧(解放同盟も同様)

これらについては関知しないし、興味もないというのが示現舎の見解である。

しかし、「解同」から訴えられたので、裁判の過程でやむなくあの人物一覧が作成された経緯を調べているのだが、おそらくは解放新聞等の機関紙から抜き出して、主に電話帳で住所を調べたと考えられる。実際、「解同」については人物名をインターネットで検索すると高い確率で解放新聞電子版の記事が出てくるし、電話帳に住所が掲載されている人が多い。

貴団体については未調査であるが、おそらく同様の方法で作成されたと考え られる。

 

質問-2  <部落地名総鑑をどうみるのか>

この点は研究を進めている途中であるが「全国部落調査」の「部落」は「被差別部落」とイコールではないと考える。特に大阪府の欄には、いわゆる「都市スラム」であり、あきらかに近世の穢多村と無関係な地名が多数掲載されている。他にも広島県呉市山手、鳥取県倉吉市の天神川沿いの多くの部落も、近世の穢多村ではない。それらは差別よりも貧困という観点で選ばれたものと考える。

また、「全国部落調査」は戦後の同和対策事業の対象地域を決める際の基礎 資料の1つになったと考えられる。明らかに近世の穢多村とは無関係な地域であっても、「全国部落調査」に載っているだけで隣保館が設置されている例があるからだ。おそらく「解同」が部落を訪問して「オルグ」する際にも使われたであろう。皮肉なことではあるが、部落地名総鑑のもととなった「全国部落調査」は「差別に利用する以外」の使い方が既に多くされてきたものと考える。

 

質問-3  <なぜ、こんなことをするのか>

1)果たして「部落民宣言」への反発だけなのか?

宮部龍彦の父親が「解同」から糾弾されたという事実はない。そもそも宮部 龍彦の父親は不動産業者兼屠殺業者であり、教師であったことはない。インタ ーネット上でグーグルを用いて「いなばのジビエ 久松商事」で検索すれば、それを証明するものが見られるであろう。

「部落民なのか???」の件といい、部落解放運動団体を標榜する者が「身元 調査」をし、しかもその結果が間違っているということは、恥ずべきことではなかろうか。

2)差別糾弾闘争の撲滅が真の目的?

部落の地名を広く知らせる意味については、「解同」の中でも稀有な理論家である、住吉支部の住田一郎先生が簡潔で明快な理論を示しておられる。それは「隠すからこそ暴露することが意味を持つ。隠さなければ暴露することに意 味はなくなる」という命題である。私はそのことに全面的に賛同するものである。

「部落地名総鑑事件」以来の、「隠蔽と暴露」の不毛な対立と闘争は、徹底的な暴露により無意味化され終止符が打たれることが必然なのである。

そのことは、差別糾弾闘争の撲滅とは全く次元が異なる。貴団体が部落の場 所を拡散されることが極悪だと断じるのであれば、不動産業者にとって部落の 場所の目印であることが明らかな「隣保館(解放会館)」「教育集会所(青少年 会館)」の撲滅のために、それらを設置した行政を徹底糾弾しなければならなくなろう。

しかし、今必要なのは住田先生の理論の徹底した具現化である。部落を特定することを「人権侵犯事件」などとのたまい、部落の完全解放への試みを妨害する法務省人権擁護局の悪辣な策動。そして、そのような国家権力と一体化して堕落した「解同」に対抗することが求められているのである。今からでも遅 くはない。貴団体も「住田理論」支持へと舵を切るべきだ。

 

質問-4  <部落問題入門を入門しなおしたらどうか>

1)部落差別はあるという認識なのか?ないと言う認識なのか?

部落差別があるのかないのかという質問は愚問である。5600箇所を超える数ある部落の1つ1つが別個のものであって、それらをまとめて一般論で語ることは雑な議論という他ない。

それでもあえて答えるのであれば、一部の部落が蛇蝎のごとく嫌われ、差別 されていることは紛れもない事実である。それも、おそらく貴団体を含むいわゆる部落解放運動団体の認識よりももっと強烈であり、しかも多種多様である。例えば私が聞いた差別発言として次のようなものがある。

「部落民は近親結婚で血が濃いので特徴的な赤ら顔が多い」(北九州市) 「部落ではヤクザ組織での親の上下関係が学校内での子供の上下関係になっている」 (草津市) 「交通違反をしても部落に逃げ込めば警察も怖がって追ってこない」(大阪市) 「部落民に逆らうと鎌や竹槍を持って集団で襲ってくる」(鳥取市)

これらはごく一部であり、そのような発言が出てくる原因について説明するときりがないので割愛するが、私は部落差別についてはむしろ深刻にとらえている。

2)結婚差別への差別的見識を謝罪・撤回せよ

「結婚差別への差別的見識」とは何のことか分からないので謝罪・撤回のしようがない。

ところで、「婚約の前には、必ず、堂々と出身を告げ、それで態度を変えるような相手とはこちらからお断りしなさい」とは、非常に立派な考えであり、徹底的に貫徹すべきであろう。

しかし、相手が「確信犯には実力糾弾も辞さない。「やってもいいんだ!」。胸のつかえを取っ払い、思いを解き放つ。そのような大衆行動こそが今求められる」と豪語する団体の構成員でも態度を変えない人格者は限られてくるのではなかろうか。無論、私はそのような集団と部落民は別のものであると分かっているが、「解同」にしても部落名を支部名に冠して、あたかもその部落を代表する組織のように振る舞うことから、混同されてしまうのが現状である。そうであるからこそ、部落についての詳細で正しい知識の拡散が求められるのである。

以上

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