第28回全国大会に総結集を!
3月30、31日東大阪・荒本人権文化センターへ!

(2019年3月26日)

2018年度 活動報告(案)

1、2018年度の経過報告

まず、2018年度の私たちの取組みの経過を確認しましょう。すべてを網羅するのは、不可能に近いので、記載漏れのあるところは御承知ください。かつ、日頃から、新聞・ニュースへの投稿(写真も)に努め、カバーしてください。

●4月、第27回全国大会を開催しました。狭山意見広告運動の大詰めの時期でした。それは、前年の大会で決めた、<狭山・糾弾><生活要求><改憲阻止>の三つを柱に、部落解放運動を再生する5ヶ年決戦の、具体的姿での始まりを示すことができるかどうかを賭けた、真剣勝負でした。大会は、ラストスパートをかける場となりました。

518日は、忘れられない日となりました。この日の毎日新聞朝刊を全国一斉に固唾をのんで待ちました。そして朝から、営業所やコンビニに走り「爆買い」しました。仲間やよびかけ・賛同人に、またたく間に配布しました。全国紙での狭山意見広告が、ついに実現しました。内容は、全国の「狭山人」が留飲をさげる見事な出来栄えでした。その感動が衝撃波となって、解放同盟も動かし、九州、近畿・中四でも意見広告がでました。

523統一行動を各地で取組み、福岡、大阪では「獄友」上映と併せ、報告会を開催しました。また、意見広告とセットで、インターネット上のオンライン署名が進み、今年の1131000名を超える署名を東京地裁に提出しました。

 この5月は沖縄行動に取組みました。人も金も意見広告に集中するなかで、3人の代表派遣、県民大会への参加となりました。沖縄との連帯は、決してスケジュール闘争でも、お付き合い共闘でもありません。現代日本の成り立ちに係る、戦争と差別の歴史と現実に目覚め、団結とたたかいへの自覚をつちかう宝物です。青年部の教訓を活かしつつ、もっともっと情報を集め、知恵を絞り、有意義な取組みにしていきましょう。

6月は、各地で支部・県連大会(一部は秋に)を開催しました。長野、野崎、荒本、茨城に続き、全支部で開催しましょう。支部大会は、組織建設の要です。3人以上の会員がいれば可能です。「大勢集まらないとできない」の呪縛から脱して、全支部で定期開催しましょう。

 629日には、部落解放運動の大先輩であり、狭山意見広告運動の筆頭よびかけ人になっていただいた、酔虎智伝こと西岡智さんが亡くなりました。謹んで哀悼の意を申し上げます。西岡さんの「遺言」はただひとつ。「狭山は権力犯罪だ」「それがはっきりしない運動ではダメだよ、君」。意見広告運動のよびかけ文は、西岡さんの最後のアピールとなりました。

7月、西日本豪雨が襲いました。その前には大阪北部地震、9月には北海道地震、大型台風も次々ときました。高槻や広島の仲間も被災し、共闘の人士や動労西日本も大きな打撃を被りました。とりわけ、広島支部の同盟員は生業に壊滅的被害を受けました。各地からの義援金等の集中に対し、御礼申し上げます。しかし、これほどの大災害の集中は、全国連の力量をはるかに超えてしまいます。悔しいかぎりです。しかも、これからも問われ続けます。「義援金、ボランティアを超えた要求闘争をどうやって生み出すのか」。暗中模索でも、諦めたら、私たちは滅びるしかありません。不屈に挑戦し、天災とも人災ともたたかい、生き抜いてやろうではありませんか。

8月には、災害の困難のなか、8・6ヒロシマ、8・9ナガサキに取り組みました。3回目の「きずなINふくしま」を、趣向を変えて行いました。また、安倍政権のもとで再稼働があいつぐなか、反原発に取り組んできました。 青年交流会が、青年部幹事会と大阪実行委の連携で、初参加も含め開催されました。9月には茨城で、全婦が開催され、地元の奮闘で盛会でした。

10月、1028狭山中央闘争、翌日の要請行動をたたかいました。狭山意見広告運動を中間総括しつつ、8月に出された下山第二鑑定を学習し、いよいよ事実調べの実現へ総力決戦の方針を確認しました。福岡に続いて大阪でも、定期街宣・署名活動が開始されました。また、婦人部を先陣に、要請行動を波状的に取組み、「全国連がダントツ第一位」(ストーンリバー)と評価されています。

●選挙闘争では、寝屋川市議候補・きむらさんを先頭に、連日の奮闘です。929に福島瑞穂さんを招いた集会を成功させ、以来、本格的な選挙戦に突入しました。

生活要求闘争では、野崎の青年の労働裁判において、勝利的な和解をかちとりました。住宅問題では、同和住宅の建て替えでの家賃やコミュニティの確保をはじめ、きめ細かい要求をくみ上げつつ、ムラの団結の再構築の視点で取り組んでいます。安倍政権の医療・介護・福祉の切り捨てが露骨に限界をこえるなか、全国連が知恵を絞って、地域にマッチした具体的取組みを開始し、命と生活を守る団結をつくり出すいがいにないところにきています。

●たたかう労働組合・関西生コン支部への、「共謀罪の予行演習」と言われる弾圧が集中しています。これに対し、128集会をはじめ、弾圧粉砕に労働者とともに取り組んできました。

三里塚反対同盟と連帯し、4・1、 10・14と参加してきました。市東さんの土地とりあげ阻止へ、ともにたたかいましょう。山口では、阿武町に設置されようとする、イージス・アショアに対し、花田町長先頭に絶対反対の住民と合流してたたかっています。

●今年に入って、220日、鳥取ループ・示現舎に対して公開質問状を出しました。そこまでに、相当な時間をかけて、糾弾闘争委員会、中央執行委員会、拡大中央委員会と論議してきました。内容も、2カ月間かけて、全国から指摘・意見を集中し、練り上げてきたものです。これに対して、宮部龍彦より、224日発出、25日到着で、文書にて、回答がきました。内容はインチキの極みですが、それ以前に、この形で全国、各界を巻き込んだ第2ラウンドが始まったのです。こんな形は初めてですが、糾弾闘争の一形態としての意義をしっかり自覚し、我こそはと参加しましょう。また、より大衆的な参加方法も検討しましょう。

2、総括の視点

以上の取組みを、視野を広げ、10年単位で振り返ってみましょう。そのことによって、今現在の全国連の立ち位置、今後の課題もはっきりしてきます。

  新たな挑戦(21~22回大会から5年間)がこんにちの土台

 私たちは、21回大会で<新たな挑戦>をうちだしました。それから5年間、<新たな挑戦>のもとにたたかってきました。このことが、こんにちの全国連の土台になっています。

 <新たな挑戦>とは、全国連は確かに少数派ではあるが、少数でも部落解放運動をしょって立ち、部落解放運動の根本的な再生をかけてたたかう、ということでした。特別法の打ち切り以降、解放同盟の著しい衰退と、部落大衆の運動離れが急速に進むなかで、「部落差別は今もあるのか無いのか」「今、どんな解放運動が必要なのか」を問い直していく作業でもありました。

 部落解放運動の消滅の危機を正しく認識し、そこから目をそらさず、決して他人事ではないと受け止めました。全国連においても、組織の高齢化、若い世代の距離感が大きな問題でした。そうした危機感に身を焦がしながら、<新たな挑戦>に格闘することで、今の私たちはここに存在しています。

例えば、もしも、それが無かったならば、決して狭山意見広告運動の方針も、その実現も無かったでしょう。これまで、その領域は解放同盟のものでした。しかし、下山鑑定がでても、解放同盟は一向に動かない。ならば、全国連がひきうける。その気概は、どこから出たのでしょうか。旧来の「左翼少数派」と言われた時代であったら、誰が、まったくのゼロから全国紙への意見広告の実現ができると信じたでしょう。否、その発想じたいがでてこず、「解同批判勢力」の位置に甘んじていたでしょう。

このように、<新たな挑戦>の前と後では、はっきりと分水嶺が横たわっています。

全国連の立ち位置は、まったく変わってしまったのです。そこから見ると、寝屋川支部の組織問題は、避けがたい試練だったと言えるでしょう。

  26回大会で具体化の三大方針

5年を経て、26回大会で全国連は<新たな挑戦>を具体化する、3つの方針をうちだしました。

●狭山第三次再審で必勝し、差別糾弾闘争の復権をかちとる。

 ・より具体的には、狭山意見広告運動の決断をしました。

 ・他方で、示現舎糾弾を糾弾状に続いて、第二弾を準備するということでした。山口全婦では、「宮部に会いに行こう」と確認されていました。

●住宅家賃闘争を超える生活要求闘争をきりひらく。

 ・「まちづくり」・住宅の建て替えをめぐって、行政などの勝手を許さずムラの声を反映させ、またムラの未来を考えた団結づくりを軸に取り組むことでした。

 ・政府の医療・介護・福祉の切り捨てとたたかう。また、労働、教育も、とくに青年層が団結する大事な課題として確認しました。

●米日による朝鮮侵略戦争が切迫するなか、沖縄連帯・改憲阻止を掲げ、安倍政権の「戦争する国づくり」を阻止する。

 ・とくに、青年部がきりひらいてきた沖縄行動を全国連全体の課題として、継続し強化していくことを確認しました。

この三大方針は、<新たな挑戦>を実践するために確立しましたが、それは同時に「部落差別解消推進法」に対して、自己解放闘争としての部落解放運動の立場から対応していく原則を打ち立てました。

 26回大会は、おおよそ以上のものでした。しかも重要なのは、この方針を、向こう5年間の実践基準として、5ヶ年決戦としてたたかうことを誓ったのです。全国連は退路を断ち、「背水の陣」をひいたのです。この3つを、5年間で具体的に一つ一つやり抜くことで、部落解放運動の停滞を打ち破り、流れを変えてしまおう。そうでなければ、部落解放運動じたいが、もちろん全国連も含み、歴史の屑籠に捨てられてしまいます。 

  今年は、その3年目=正念場

 今年は5ヶ年決戦の3年目です。5ヵ年決戦は3年目が正念場です。成るかどうかは、3年目でほぼ決まります。

それは、向こうからも迫られます。安倍政権は辺野古新基地の強行、天皇代替わり、改憲発議と、今年に勝負に出てきます。2月の沖縄県民投票、4月統一地方選、7月参議院選挙、場合によっては改憲をはかる国民投票と、今年は選挙イヤーでもあります。

狭山では事実調べをめぐる大詰めです。示現舎の裁判も結審・判決が目前です。福岡・朝倉では、7月で仮設住宅の期限がきれ、災害復興公営住宅への入居、また一軒家の再建をめぐって、新たな段階に入ります。鉄道の復旧も、地域の存続にとって大きな問題です。

 また、あえて5ヶ年決戦と呼ぶのは、全国連の役員の高齢化・健康問題もありますが、そういうネガな意味ではありません。全国連が、部落解放運動の核心部の課題をひきうけ、全国連=部落解放運動そのものという存在として認知されるかどうか、そのふるいにかけられる5年間です。例えば狭山では、来年6月の後藤裁判長の定年退官を控えて、今年の早い段階での事実調べなしに勝利はありません。下山鑑定・下山第二鑑定は、権力の証拠捏造を科学的に証明し、狭山事件の冤罪性と権力犯罪を串刺しにした、他に比べようのない宝です。弁護団は、220もの新証拠を提出し、そのいずれも貴重ですが、下山鑑定での鑑定人尋問なしに、他の事実調べは開けません。ところが、真剣にそう考えるのは、全国連だけなのです。驚くべきことです。下山鑑定の事実調べは、全国連がつくりだす世論の力に委ねられたのです。

 恐らく、3年先には、狭山に限らず、部落解放運動のすべての領域で、狭山と同じ構図になるでしょう。<全国連=部落解放運動そのもの>5年間決戦の先には、その風景が見えます。

3、 狭山意見広告運動の総括

部落解放運動の大きな視野からの総括は、先にのべました。ここでは、もう少し具体的なことに触れ、教訓化しましょう。

●直接には、私たちのような、少数で「持たざる者」がなぜ狭山意見広告を可能にしたのかという点です。それは、1つは、下山鑑定―これで勝負をかけるという信念です。長年、「狭山全国連」で中央闘争、ハンスト、座り込み、要請行動、街宣、署名、映画、劇、紙芝居と「背丈を超えても」取り組んできた集大成の賜物です。それは、解放同盟がどんなに所帯が大きくても、やはりできない、着目できないものなのです。そして、目的は下山鑑定の事実調べを焦点化させることです。「証拠捏造」「万年筆」「下山鑑定」の大文字、東京高裁を見上げる石川一雄さんの写真は、モニタリング調査の結果を見ても、世論を揺さぶりました。そして「なぜ事実調べしないのか」という声が、全国に反響しました。

もう1つは、私たちの人生かけた本気さです。狭山意見広告運動は、全国連は表に出ませんでしたが、仕掛人が誰かは周知の事実でした。また、よびかけ文の内容は、権力犯罪を真っ向から告発したものでした(西岡さんに感謝)。だから、それを承知で、「それでもかまわない」という、組織をこえた「狭山人」の結集が可能なのか、壮大なるテストでした。その点でも、全国連は回答を得ました。「千早城の伝説」のように、数百人でも地の利、時の利、人の利を得れば、数万の勢力を凌駕することもできるのです。 

●他方で、組織的な丁寧な総括も必要です。実行委と全国連との関係です。狭山意見広告運動にかぎっては、全国連が影に回っても思い切って実行委を広げる、そういう決断をしました。そして、解放同盟や労組にももちこみ、既存の市民の会や住民の会も、改めて狭山意見広告運動のよびかけ人、賛同人として、参加を得ました。その結果、全国連始まって以来の、大勢の方々からの御協力をいただきました。

ただし、実際に県単位、地域単位の実行委を作るには、でっち上げではできません。街宣や映画会や学習会などを継続的に積み上げ、それを一緒にやるための実行委をつくるほかありません。福岡は典型的に先頭を走っていますが、その母体は狭山映画上映実行委です。この実行委は、もっともっと門戸を広げ、拡大すべきです。

他方、全国連としての組織活動の独自性は、堅持すべきです。狭山にかぎらず、全国連は、日常、生活要求や、組織建設に取り組んでいます。会議、新聞、会費は同盟員の義務です。支部大会の定期開催も重視されなければなりません。それは、実行委に解消できません。ただし、狭山実行委運動においては、時には「官僚的」にまわりくどいことをしていては、間に合わないことも多々あります。「それもまたよし」とする太っ腹でないと、実行委は委縮します。そういうことも含んで、実行委―狭山意見広告運動は出発したのですから。

4、示現舎糾弾は「もう一つの狭山」

示現舎糾弾は、個別の差別事件糾弾闘争ではありません。狭山と表裏一体、ネットを駆使した差別し放題、差別糾弾闘争の撲滅とのたたかいです。公開質問状で第二弾を開始して、その意義、スケールを実感しました。また、解放同盟では歯の立たない、全国連が相手をするほかないことも実感しました。

宮部は確信犯一般でもありません。<ネット型確信犯>です。これに対し、糾弾闘争も、旧来の方法にとらわれず、創造的大衆的な方法を編み出して、社会的に包囲・追放する道筋をつけなければなりません。「差別を絶対に許さない」不屈の信念があれば、必ず道は開けます。

5、巨大災害とのたたかい

昨年も西日本豪雨をはじめ、熱波、台風、大地震と、すさまじい災害の連続でした。

多くの被害が部落、共闘の仲間も襲いました。「同和事業がなかったら、もっと酷いことになってムラは壊滅していただろう」という声も聞かれます。

被災者は、復興までの遠い道のりのなか、日々戦いとして生活再建に苦闘しています。そのことを片時も忘れてはなりません。

全国連としては、緊急の義援金にはとりくみましたが、あいつぐ大災害の集中には力不足を痛感させられました。「災害には、義援金やボランティアをこえて、生活要求闘争を組織して生活再建にとりくむ。現地を要求の主体として組織し、それと連帯して全国の団結で支援する」という方向は、朝倉の教訓からうちだしました。しかし、まだ第一歩を踏み出すこともできていません。悔しい限りです。

たいへん巨大な課題ですが、決して過ぎさったことにすることはできません。被災地の生活再建はこれからです。また、次は全国、どこで巨大災害が起こっても不思議ではありません。これに対し、阪神大震災のときのような現闘方式での組織化(「要求・権利・団結・組織・行動」)ではなく、あくまで被災者・地元を主人公に、それを全県・全国から支援する要求闘争が必要に迫られています。政府・行政まかせでは、酷い棄民化・廃村化政策に流されてしまいます。所によっては、同和事業以前にたちもどり、もう一度同和事業をやり直す位の再出発が必要ではないでしょうか。

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