5月18日、村上(副委員長)、楠木(事務局長)の二人で、益城町など、熊本大震災の現地を訪問した。現地に近い知人の案内で、アドバイスを受けつつ、被害の大きかった益城町、嘉島町、御船町をまわり、最大の避難所、益城町総合運動公園を訪問した。
益城町には2つ、嘉島町には1つの被差別部落がある。御船町には、被差別部落はないが、かって激しい差別的な設置反対運動がおこった馬肉、ハムの大規模な工場がある。
益城町は熊本県の中央部、熊本市の東隣に位置するベットタウンで熊本空港がある。これら一帯は、阿蘇の火山灰が土壌。あちこちから、きれいな地下水が湧き、その「地の利」で、工業誘致にも成功し、農業もさかんで、10年前までは村だったが県内1,2位の財政豊かな町に変貌した。それが、一転して、今回の地震では、大きな被害をもたらした。
被災地の状況
益城町を走る国道は地盤ごと崩れ、アスファルトは波うち、仮復旧作業が行われ、各地から災害派遣の車が行き交うようになっていたが、ゴトゴトと揺れる。
まず、家屋被害の激しさを目の当たりにした。沿道の家には、ほとんどが屋根
にブルーシートがかけられている。特に、二階建ての家は、一階が完全につぶ
れ、無残だった。コンクリートのパチンコ屋がつぶれているのにはびっくりし
た。
電柱は折れ、電線でもちこたえている状況だ。お寺の石塔もガレキの山と化
している。
活断層の上に建っていた家はすべて全・半壊の一方、2~3mの小川をはさんで活断層からはずれた家は半壊・一部損壊で、対象的だった。
部落の中に入ると、9割の家がブルーシートをかけていた。家屋の全壊が多数あり、地震で最初の犠牲者がでたのも村のきょうだいとのこと。
村のきょうだい達は、町の公の避難所には行かず、隣保館に身をよせていた。公の避難所での生活や人間関係等を気づかっているのだろう。現在も余震が続き夜だけ隣保館に泊まっている人もいる。
総合運動公園の避難者の訴え
約1000人(4月下旬当時)が避難する益城町体育館。その裏側の公園には124張りのテント村が設営されていた。また、車中泊をする人達で駐車場は満車の状態。(テント村は、登山家の野口健さんが寄贈、ツイッターの呼びかけに応じて届けられたもの)
「今日は見て回るだけ。避難者と話すのは無理」という知人のアドバイスだったが、思いがけず、体育館の避難者から声をかけてきた。60歳代の男性。
「行政は2回しか来ない。昨年、ここの運営が役所からYMCAに変わった。しかし、こんなときは違うだろう。テントや車の置場所、食事の順番まで、全部住民勝手。トラブルにも行政は知らんぷり。運営はYMCAだからと。公務員の姿が見えるのは岡山あたりからの派遣だけ。行政はわしらをほったらかしだ」としきりに訴えてきた。テレビに毎日でる、天皇も来た最大の避難所でこの有様!
「当面の救援物資は足りている」らしいが、生活再建の課題はまったくこれから。10年がかりの課題。「お互いに現地、とくに部落にとって本当に必要なこと、一緒にできることは何か、今後も相談しあっていきましょう」と誓って知人と別れた。