たたかう沖縄に連帯 5・17~19青年部沖縄合宿の報告

(2014年06月21日)

      5月17日~19日の三日間にかけて、青年部沖縄合宿を開催しました。今年で三度目となる青年部独自の合宿ですが、昨年に引き続き沖縄のたたかいに連帯し 沖縄合宿に参加した全国連青年部(2014・5・18沖縄県民大会) 、現地での学習を積んできました。三日間の報告をします。
沖縄戦に学び、平和を守ることを誓う!
    一日目は、それぞれ最寄りの空港から昼過ぎに那覇空港へ集合し、全員が揃ったところで青年部長のあいさつ。事務局から三日間の行程の確認があり、全体で意思統一しました。
    まずレンタカーを借りて、最初にひめゆり平和祈念資料館へ行きました。ここは、去年も訪れた場所です。入口で花を購入して、全員で慰霊塔に手向けて合掌し、館内へと足を運びました。入場するとすぐに、沖縄戦当時の年表や戦争に至った経緯が鮮明に文章として貼り出されていて、ひめゆり学徒として様々な学校の生徒たちが、戦争に駆り出されて行った事実経過、手紙や作文のなどが展示されています。「ひめゆり」の名称の由来は、花からきているのではありません。沖縄県立第一高等学校と沖縄県女子師範学校があって、それぞれ校友会誌があり、一高は「乙姫」、女師は「白百合」と名づけられていて、両校が併置されることによって、「姫百合」となったということでした。ちなみに、ひらがなで「ひめゆり」と使うようになったのは戦後にな 平和の礎(いしじ)で花を供える青年部(2014年5月19日) ってからです。何よりも胸を撃つのは、戦死していった生徒たちの写真です。両面壁一面に貼り出された生徒たちの一人一人の写真があって、その下にはどのように亡くなったのか、あるいは行方不明になったのか記載されています。戦争の悲惨さを学ぶということは、もちろんですが、戦争に至るまでの経緯や当時の教育がどういうものであったのかを知ることができました。
    つづいて、2キロほど離れた摩文仁の丘に向かいました。「平和の礎(いしじ)」がある海の見える大きな公園があり、そこには沖縄戦で亡くなった人々が祀られており、一人一人の名前が石に彫られています。あたり一面に碑が建てられていて、こんなにも多くの人々が戦争によって命を落としたのかと思うと、やりきれない気持ちでいっぱいでした。ここの場においても花を添えて、お祈りをしてきました。 豪雨に負けない固い団結!目の前に沖縄差別の実態
    二日目は、県下を網羅した平和行進の集約の場である「沖縄県民大会」に参加しました。場所は、宜野湾市海浜公園で、四年前に初めて沖縄合宿をした際に訪れた場所です。集会は、14時からの開始予定なのですが、渋滞や駐車スペース確保のため、早朝からホテルを出発して10時前には、会場にてスタンバイしました。しかし、豪雨の影響で予定が急遽変更になり、時間を大幅に短縮、さらに場所も移ることになりました。いざ集会へ参加したのですが、10分程度で集会が終了するという如何ともし難い結果となり、最後の「団結ガンバロー」のみといった内容になってしまいました。四時間以上の待機の末にとても残念でしたが、この行動の実行委員会・委員長である山城さんと会うことができました。4月の全国連大会での講演のお礼をし、固い握手を交わしました。我々のことを覚えていてくれて、ここへの参加をとても喜んでくれました。「ともに頑張ろう!」と連帯を誓いました(翌日、現地の新聞『沖縄タイムス』では、一面トップに黄色いゼッケンをつけた青年団が、ばっちり掲載されていて、その存在をしっかりとアピールできたことは、歴史的で画期的でした。)。
    この日は、予想外の時短によって、夕刻に普天間基地が一望できる「嘉数の丘高台公園」という場所に行きました。そこからの景色は、街の中に普天間基地がスッポリ入っていて、奥行きがどれくらいあるかわからないほど大きなものでした。また、オスプレイが20機ほど眠っているかのように停まっ 知花昌一さんの案内でガマを訪れる(2014年5月19日) ていて、沖縄に基地やオスプレイを強要している実態が目の前に広がっていました。これだけの大きな基地に、なおかつ辺野古の海や高江の森に新基地の建設計画を政府がしているのかと思うとフツフツと強烈な怒りが沸いてきます。それは、政治のあり方や安保条約という形式的なものではなくて、沖縄に対する差別の現状が具現化されて立ちはだかっているようで、これに対して沖縄の人たちと一緒になって、意識を変革させ、ともにたたかうべきであると心に決意しました。この丘に偶然、散歩に来ておられた地元住民の方と話をすることができて、「オスプレイが家の上空を通るたびに、騒音や激震がひどく、テレビドラマなど見ていてもいいシーンで映らなくなってしまうことがたくさんある」「電話の声も聞こえない」「毎日毎日ストレスがたまる」という生々しい声を聞くことができました。朝も夜も構わず飛行していて、恐怖でもあると言っておられました。こういった、リアルな話を直接聞けることも現地での合宿ならではのことで、大変貴重な学習となりました。
胸を突き刺すガマの歴史、戦争教育を打ち砕こう!
    三日目は、読谷村にあるガマの見学に行きました。「ガマ」とは天然の洞窟で、沖縄戦では隠れ場所として使われ、また強制集団死の場所となりました。現地に住む知花昌一さんに案内をお願いしました。 一つ目は、通称「ゾウのオリ」と呼ばれていたアメリカ軍の通信施設のあった場所のすぐ隣に、「シムクガマ」という全長2600メートルもあるという洞窟でした。中はまったくの闇で何も見えず、懐中電灯で照らしながら入りました。かなり広大な洞窟で、沖縄戦当時一千人の人たちが避難していたと聞きました。ここでは、一人として亡くなった人は出ませんでした。それは、避難していた人たちのリーダーの方が英語を話すことができて、アメリカ軍との対話が出来たことが大きく左右しました。元々、アメリカ軍は降参して出てきてくれれば、何もしないと訴えていたのです。しかし、当時のアメリカに対する思想・教育は「鬼畜米英」で、捕まれば「男は鼻を削がれ、槍で突かれる。女はレイプされ、性道具として扱われる。」との教えから、捕まって地獄を見るくらいなら、自決することがあたり前とされていました。なので、誰もそのリーダーの話は信じませんでした。やがて食糧も尽き、「どうせ死ぬなら光を浴びて死のう」と言って出ていったところ、殺されることなく、保護された話をしていただきました。 二つ目は、そこから一キロほど離れた所にある、「チビチリガマ」です。ここでは、83名(実際は84名)の人たちが亡くなった洞窟です。ここでも、シムクガマ同様にアメリカ軍による「殺さない」という交渉がされ、文章による通達も出されたのですが、誰も英語はわからず、中にいた二人が槍を持って反撃に出ましたが、銃で撃たれて亡くなりました。それを皮切りにして、自決が始まりました。18歳の少女が「捕まって性道具にされるくらいなら、キレイに死にたい」と母親に頼み、母親は娘の首に包丁を突き立てたそうです。少女の首から血が吹き上がり、痛みに絶叫し、転げ回って亡くなっていったそうです。また、看護婦による毒の注射や火を放つなどして、「天皇バンザイ!」と叫びながら死んでいったといいます。実際に洞窟内に入ると、亡くなった人たちの骨や歯、サビ焦げた包丁や鎌、女性用の櫛などがありました。一升瓶が無数に転がっていて、中に油が入っていて、それをかけて火を放ったと聞きました。
    これらの場に立ち、目で見て、そこで話を聞き、どうしていいのか言葉になりませんでした。知花さんは、「これを今は集団自決とは言わない。日本軍による強制集団死と呼んでいる。当時の戦争教育がこの結果を生んだのです」と淡々と話してくれました。いま、日本はどこに向かおうとしているかをしっかりと見定め、戦争反対の意義を本当の意味で理解、認識することが私たちに出来ることではないかと思います。それは、部落差別とたたかうことと同時に、沖縄の地での反戦・反基地のたたかいは沖縄に対する差別とのたたかいでもあると捉え、ともに起ち上がっていくことで答えが出てくるものだと感じました。
青年部としての自信を次のステップへ
    三日間を終え、全国連青年部として『沖縄合宿』を準備し、定期開催化を実現し、堂々と闘争の場に立てたこと、そして色々な学習をしたことに誇りを感じています。そして、なによりも自分たちの力で貫徹し、全てやり切れたことが、今回の大きな成果であったと思います。「まず現場に立つ」。これをモットーに、青年自らが闘争や実践の場に飛び込んで、たたかうことの素晴らしさを学び、繋がることの重要性をさらに拡大し、たくさんの青年と共有していきたいです。
    5月沖縄合宿の教訓を活かして、8月ヒロシマの集い、第六回全青大会を成功させていきましょう。
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