狭山事件51年目の「新証拠」-165本の手ぬぐい

(2014年01月19日)

  回収されていた手ぬぐい
1963年5月4日、被害者の中田よしえさんは農道に埋められて死体で発見されました。遺体には強姦された形跡があり、タオルで目隠しされ、両手を後ろ手に木綿製手ぬぐいで縛られ、首や足には木綿細引き紐などが巻かれていました。
タオル、手ぬぐい、紐などが犯人の残した遺留物だったので。
今回の新証拠は、この手ぬぐいに関連するもの 被害者を後ろ手にしばるのに使われた手拭。 です。遺留手ぬぐいは、狭山市内の米穀店が1963年の年賀用に制作して得意先に配布したもので、165本配布されたうちの1本とみられました。
    この米穀店が前年正月に配ったものと区別でき、それ以前のものとは染め抜かれた電話番号や模様が違っていました。この世に165本しか存在しない、犯人に迫る証拠になる手ぬぐいです。
    この手ぬぐいは石川一雄さんの家にも1本配布されました。これは5月11日に捜査員によって回収されています。本来、石川さん宅は捜査対象から外されるはずだったのです。
    手ぬぐい捜査では165本のうち、7本が「子供が布巾に使ってどこへ行ったかわからない、燃やした、誰が受け取ったのかわからない、1本しかもらっていない、今年はもらっていない」など、未回収でした。
「はじめから有罪」の寺尾裁判長
    捜査本部は石川さんの住む部落に捜査を集中して、筆跡が似ているとする中間報告や血液型の一致などから、石川さんを事件の犯人にでっち上げようと、この事件の容疑者として絞ったところでした。 真犯人の残した物的証拠である手ぬぐいに関しては、一審浦和地裁では証拠調べが全く行われず、証拠の標目にすらあげていません。二審東京高裁では、手ぬぐい捜査にあたった滝沢検事が法廷証言しただけだったのです。     滝沢検事の法廷での証言は、「石川が本当に家にあったものを持って行ったとすれば、石川の家には無いわけですから、あとでどこかから都合したんじゃないかという疑問。もうひとつは、石川の家に誰かが遊びに行ったときに置いて、何かの都合で2本になっていたのではないかと…結局これは疑問がそのまま解決出来ない」と、 このような内容でした。配布先リストが法廷に出ていない上、米穀店経営者らの供述調書を取り調べることもなく、検事の推測だけで、しかも「疑問は解決されないまま」であるのに、寺尾正二裁判長は、「…警察官が万年筆をあらかじめ勝手口の鴨居の上に置いておき、そこから万年筆が発見されるような工作をしたと主張していることなどを考え合わせると…手ぬぐいについても家人が工作した疑いが濃い…手ぬぐい1枚も5月1日被告方にあったと認めて差し支えなく、従ってこれも自白を離れた状況証拠のひとつとして挙げるのが相当である」と、検事推測をさらに推測して、手ぬぐい関係から全く離れた理由を並べて、遺留手ぬぐいは、仙吉さん宅や近所のAさん宅(仮名)などからどうにかして工作し、一雄さん宅にあったものと強引に認定しています。
書き換えられた配布先一覧表
   
石川一雄さんと弁護団は再三、手ぬぐい捜査の過程がわかるような検察官手持ち証拠の開示を求めてきました。
    2009年から狭山再審では初めて三者協議の場が設けられ、裁判所は検察側に部分的な開示を促すようになりました。
    2013年3月、注目すべき捜査書類が開示されました。
  ①  遺体発見直後の5月5日付、警察官作成の手ぬぐい捜査報告書。
  ②  一雄さん宅、一雄さんの姉の嫁ぎ先である仙吉さん宅を捜査員が5月6日に訪れた様子を報告した6月 偽造された捜査報告書 20日付、捜査報告書などです。
    ①と②には驚くべき内容が記されてありました。①の報告書には、米穀店から捜査員が聞き取り作成したとみられる、配布先一覧表が添え付けられていて、それには仙吉さん宅への配布数が「2」と書かれていました。しかし、肉眼で見てもその「2」は「1」と書かれ、その上下に曲線を書き足しているように見えました。
    弁護団は、吉備国際大学の山下教授(ゴッホの「ドービニーの庭」で「黒猫」が加筆され、その後消された事を発見した)に鑑定を依頼しました。
    その結果、「『2』には異なる2種類の書記用色材が使われていて、『1』に違う種類のインクのもので、『2』と読み取れる文字にされている」との鑑定意見書が作成されました。
    つまり、捜査員か誰かが、元々『1』であったものを『2』と工作していたのです。(左の写真)
   
②の捜査報告書は5月6日の捜査員の動きをリアルに伝えるものでした。
    5月6日午前10時ころ捜査員2人が仙吉さん宅を訪れ、仙吉さんの子供に「母ちゃん(一雄さんの姉)は富造さん(一雄さんの父)のところへ行っている」と聞く。捜査員はすぐに富造さん宅(一雄さん宅)へ向かい、姉のよねさんに会い、よねさんと共に仙吉さん宅へ戻って、仙吉さん宅に配られた使いさしの手ぬぐい『1本』捜査員は確認している。
    同日、午後0時20分頃、捜査員は再び一雄さん宅に現れ、富造さん、六造さん、一雄さんらと会っている。捜査員は、一雄さん宅に配られた1962年の1本と、1963年の1本を確認した。報告書には、居間に座っている一雄さんらの座席表まで作成し、添付されていました。
    石川一雄さんや、兄の六造さんは、遺体発見の2日後というそんな早い段階で捜査員が来ていた事も、事件に全く関係がないので覚えていないくらいでした。
    仮に、手ぬぐいが事件に関係がある事を知って、検察や裁判官の言うように、石川さんが工作するとしても、手ぬぐい報道が一番早かったのがTBSテレビで、当日午後0時3分過ぎから50秒程報道された番組で知り、捜査員が再び来た午後0時20分頃までの17分間での工作は常識的に見ても無理です。Aさん宅は昼時は皆仕事で留守。仙吉さん宅に関しては、『2本』になっていたのは誰かが捏造していて、本当は『1本』しか配られていなかった事が証明されていて、工作不可能です。
今年こそ再審開始かちとろう
   
今回出てきた新証拠である手ぬぐいは、まさに石川一雄さん無罪を証明する、物的証拠となりうるものです。このような重要な証拠を50年以上も隠し続けていたのです。本当に許せません。
    検察は石川一雄さん無罪を証明する証拠はまだまだ山ほど隠し持っています。ルミノール検査報告書や、雑木林を撮影した8ミリフィルムもまだ未開示のままです。
    私たち全国連は、波状的・連続的な要請行動を柱として闘ってきました。
    今年こそは、石川さんの無罪を勝ち取るため、引き続きの要請行と、各地域、各地区ムラぐるみで狭山を闘えるよう、創意工夫を凝らした日常活動の取り組みとしての狭山をしっかり位置づけ、全証拠開示に向けた大きな流れをつくらなければなりません。そういった闘いを実現できる年にしていきましょう。
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