10・27狭山中央闘争の成功のためにー住宅追い出し攻撃とたたかう奈良、西宮のきょうだいを守ろう!

(2013年10月08日)

  裁判官は証拠開示命令を出せ!
三者協議の争点と再審実現の課題 狭山闘争本部事務局長 小森勝重
    7月26日の第14回三者協議の内容を、かいつまんで、重要な点 拡大中央委員会で報告する小森狭山闘争本部事務局長 をとりあげることを中心にします。
    御存知のように、三者協議は2009年の9月から開始されました。三者協議は、裁判所に大きな幻想を生み出すものです。弁護団、検察官がいて、まんなかで裁判官が見ている。両者のやりとりがあって、裁判官が判断する。裁判官の心証を良くするためにと、暴言を吐かない、お願い運動になっていく。三者協議の毒は、こうした裁判所への幻想を生み出す点にあります。
    全国連は、このまやかしを徹底糾弾しつつ、三者協議を武器としながらも、再審をたたかいとっていかねばなりません。三者協議に少しでも幻想を持つ人がいるとすれば、今まで石川さんを犯人にしてきたのは、警察、検察もそうだが、裁判所でもある。そこを糾弾して、差別裁判糾弾闘争でたたかってきました。三者協議も含めて、差別裁判糾弾でたたかう、とりわけ、裁判官は証拠開示の勧告を出せ、命令を出せ、それをやらないことが差別裁判だと強く迫っていかねばなりません。
3つの争点
    14回にわたる三者協議の間に、開示された証拠は計130点を越えています。そのなかで、3つの争点がでてきました。 ①  ひとつは、証拠物の番号が抜けているものがある。そこには何があるのか? 明らかにせよ。そのために、全部の証拠リストを出せ、という点です。しかし、検察は「できない」と言いはっています。
    ② ふたつめは、中田善枝の両手を後ろに縛っていた手ぬぐいについてです。これは、市内の米屋が1963年(事件の年)の正月に得意先に配った165本のうちの1本でした。石川さんの家からも1本提出されています。それでも警察は、石川さんはほかにも入手できたというストーリーをでっち上げ、有罪証拠としました。 弁護団は、手ぬぐいの捜査にかかわる証拠開示を求め、初期の捜査書類などは、若 検察を糾弾する狭山要請団(7月23日) 干開示されました。しかし、かんじんの証拠については、「見当たらない」と応じません。
    ③ みっつめに「秘密の暴露」(これは犯人にしかわからない。だからそれを知っている石川さんは犯人)とされている問題です。
    警察が石川さんに強いた「自白」によると―事件当夜、中田家に脅迫状を届けに行った。そのさい、隣の家に小型貨物のトラックが止まっているのを見た。それは、夜7時半から20~30分の間とされていた。しかし、実はそれは4時半から20~30分の間ということがわかってきた。そこが証明されれば、石川さんはウソの自白を強制されたことが明らかになり、警察のストーリーは大きく崩れます。しかし、検察はその点の証拠すべてを「見当たらない」と応じようとしません。
    さらに、被害者のものとされた腕時計は、バンドのよく使う穴が被害者の腕のサイズからして全然ちがう、時計は偽物だという点も争われています。まだまだ、検察が隠して出さない証拠には、「殺害現場」の関連でお寺や雑木林のルミノール反応報告書など、決定的なものがいくつもあります。私たちは、「これでも差別裁判を続ける気か!」と、裁判所に証拠開示の勧告、命令を迫るたたかいをしていきましょう。
住宅明け渡し強制執行とたたかう
奈良・西之阪支部 大橋利香
    2012年10月、古市町で1件の住宅明け渡し強制執行が行われました。私の父の家です。大きなパッカ―車が、私たち家族の思い出の家具などをバリバリと大きな音を立てて、飲み込んで行きました。この時私は、何もできずただ悔し涙を流しながら見ているだけでした。
    もう二度と同じ思いをする人を出してはいけないと思いました。2013年3月、奈良市営住宅全戸に対して、奈良市からこれまで6親等まで名義の継承ができたが、4月から3親等に変更するとの通知が郵送されてきました。 さらに5月初旬、名義人と入居者が違うので「 婦人部大会で発言する大橋利香さん 不法入居」状態になっているとして、5月末までに退去しろとの通知が住民に送られてきました。去年に不法入居として裁判にかけられ、敗訴した人たちへの裁判所からの強制執行の通知でした。
    奈良市の建設部長や副市長に対して、交渉を続けてきましたが、中川市長の最終の返事は、どんな理由があっても退去させろというものでした。
    そんな中、Yさんは、1年以上も自分一人で副市長や住宅課に交渉されてきました。
    西之阪町のYさんFさん達は、執行代理人と話をし、1ヶ月の退去猶予を勝ち取りました。その後、奈良市長に請願行動や抗議行動を行い反撃をしました。
    仲川奈良市長は、住民との話し合いを拒否して、強制執行を強行しました。
    6月24日の強制執行の前日に黙って見ているわけには行かないと思いついたのが抗議シールです。不法入居扱い許さん! 元の家を返せ! 部落民をなめんなよ! 部落差別は許さん! 仲川市長ゆるさんぞ! などを印刷したシールを大事に使っていた家具やドアに貼り付けました。
    強制執行当日、奈良市は、採用2年目の若い職員と警察官OBを含む2名の嘱託職員で強制執行の現場確認に来ました。マイク街宣や町民の人たちの声を聞き、Yさん・Fさんを先頭に約50名の住民が体をはって、強制執行攻撃と闘い抜きました。誰に指示されたされたわけでもなく、数名の婦人がエレベーターを占拠し、エレベーターを使えなくしました。住民から「帰れコール」や「人殺しコール」が叩きつけられました。抗議行動のあとの町民集会は、住民の怒りの火に油を注いだ様なものでした。誰も強制執行に落ち込むことなく元気でした。これからも頑張っていこうと誓い合う場となりました。
    7月11日市長室前座り込み請願行動をおこないました。最初、市長は留守だと言っていたのが、市長は、部屋に居ることがわかりました。市長は、部屋にとじこもり、住民の前に出てくることができなかったのです。 その後、住民の激しい抗議の末、副市長が対応することになりました。警察官OBの法令遵守官が、「まとめて請願書を受け取る」と言いましたが、狭山要請行動のように、一人ひとりが請願書を作って全員、副市長に一言を言って手渡しました。
    現在は請 住宅追い出しの強制執行に怒り、市長公室前で抗議する(7月11日) 願署名にも取り組んでいます。西之阪の住民は、1週間で600筆を超える署名をとりました。
    今回の闘争で、婦人の暖かさや強さを心から感じました。自分たちが差別をされてきたから、今も受けているからこその暖かさや強さです。
    ここまで来るのに何十年もかかりましたが、地道に日頃の付き合いや関係づくりをしてきたことそして、西之阪のきょうだいと共に悩んだり笑ったりしてきたことが今日の団結の基礎になったと思います。そして、何よりもひとりひとりの悩みやしんどいことをみんなで考え共に解決に向かってみんなで前に進むことで共同体意識から更に団結に発展することを学びました。 全国のきょうだいの応援をよろしくお願いします。「新たな挑戦」を実行して
中央執行委員・西之阪支部長 大橋昌広
    ここまでくるのに、あらゆることをしました。 最初は何もできなかった。
    悔しいばかりでした。しかし、取られたら、取り返す。住宅を取られても、取り返したらいいやないですか。
    なぜ、ここまで来れたのか? あらゆることをしました。住民との話し。会合。役所にも裁判所にもいきました。議会にもいきました。できることはすべてやりました。そのなかで分かったのは、全国連の方針のとおり―「耕しながら、種をまく」。これです。ここからしか始まらない。
    村へのかかわりは、毎日の生活。自慢ではありませんが、私には、一日最低5件も住民から電話がかかってくる。食事時にも、しょっちゅう。こそっと、裏から出て、裏から帰ってきても、家に電気がついたらすぐばれて、早速、電話がかかってくる。
    何でも、一緒に動くことです。ビラだけでは、何万枚まいても、人は集まらない。村の人と毎日つきあう。
    何も難しいことはない。一緒に動いただけ。そのなかで、「これが部落差別や」と気付いていく。最初は私ももうひとつピンとこなかった。けど、これが全国連の方針やったんかと気付きました。この通りやな、と。
    イザというとき、「知らせてや」と言われたが、全国に声をかけなくて良かった。あえて 今回は西之阪だけで動いた。それが良かった。なぜか? 村の人が、よその人がいっぱいやったら、自分たちが居なくても間に合っていると思ったら、台無し。今回は自分たちでやる。次、婦人部の大会に行ったら、みんなから応援してもらえた。これが正解やと思います。
    次に、また何かあったら、声をかけるかもしれません。
    10・27には、西之阪からはじめての人にも行ってもらいたい。そのときにはよろしくお願いします。
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