狭山要請文ー大阪・荒本支部(抜粋)

(2013年03月31日)

 

全国連婦人部は2月25日、狭山第3次再審闘争へ向けた波状的行動の第1弾として初めて全国連婦人部独自の狭山要請行動をたたかい抜きました。 この日は全国から13人の婦人が駆けつけ、山口、広島、大阪、長野、東京、茨城の婦人から9通の怒りの要請文が東京高裁と東京高検にたたきつけられました。婦人の要請文は創意に満ちた婦人ならではのものであり、高裁と高検を追いつめるものになりました。 そのうち大阪・荒本支部からの高裁への要請文を一部抜粋して紹介します。 (詳報次号)

要 請 文

わたしの父は被差別部落出身でしたが、中学を卒業するときに実家を出てからずっと一般地域で暮らしてきました。

父は、十二人兄弟の下から3番目で、口減らしと手に職をつけるために中学を卒業してから紳士服の仕立ての弟子入りをしたようです。

父はとても厳格な人で幼いころから厳しく育てられました。

今でも鮮明に覚えている言葉があります。

「人の悪口を言うな、悪口を言ったら自分も言われていると思え」。また、私が幼いころ和菓子屋のお店の人にお菓子を一つもらって喜んでいたら「お前がもの欲しそうにしていたからだろ!」と激しい口調で叱られたことがありました。幼い私には、なぜそんなに叱られるのか訳がわかりませんでした。

両親とも働いていましたが、生活はとても苦しく、父はいつも母を責めていました。まじめだけがとりえの父でしたがとても気が短く、気にくわないことがあるといつもお膳をひっくりかえすような父でした。

働けど働けど生活は楽にならない。そんななか、私が中学1年の時、母が黙って突然家を出て行ってしまいました。

私が、被差別部落出身だと知ったのは姉が高校進学するときに、父から「高校奨学金」の奨学生制度の話を聞いたときでした。そのとき父は「なにも恥ずかしいことではない」「当然の権利なのだ」という話を姉にしていました。

自分が部落民だと知って、思いあたることがたくさんありました。なぜ、父があんなに厳しかったのか。人の悪口を言ってはいけないと言っていたのか。小さかった私に「お前がもの欲しそうにしていたからだろ!」と激怒したのか。なぜ、母が突然家を出ていってしまったのか。 なぜ、生活が苦しかったのか。

部落民である私たちは、いくら身元を隠して一般のなかで生活していても、父のように心のなかで苦しみ、バレないように、後ろ指さされないように必死で生活しているのです。

のちに、母が「わたしには両親や兄がいるが、絶縁状態で戸籍からもはずされて天涯孤独なんだ」という話をしていたのを思い出しました。小さかった私は、それがなんのことか理解できなかったのですが、今思えば部落の父と結婚するときに戸籍をはずされてしまったのではないかと思います。

そんな思いが、母の態度や言葉からにじみ出て、母に対するひけめや怒りが母への暴力となったのではないかと。

わたしが、狭山の石川さんのことを知ったのは、姉が高校へ進学し解放奨学生として、部落解放運動に参加してからでした。

当時、わたしは、石川さんの生きてきたおいたちが父や自分と重なり、怒りと共に、獄中でたたかいぬいている石川さんに感銘をうけました。

それまで、理由もわからないまま、うしろ指をさされないように、人から悪口を言われないように人目だけを気にして生きてきた自分に、部落民である誇りと自分の意志で生きていく勇気で目のまえがぱっと明るくなり、一筋の解放の光が見えた気がしました。

それから、30年以上がたち、いまだに証拠も開示されず事実調べもおこなわれていません。

私たち部落民は、いつまで差別されつづけるのでしょうか。

小川裁判長は、異動になると聞きましたが、次期担当裁判長にぜひ、この私の思いを伝えていただきたいと思います。

父やわたしのようにたとえ部落に住んでいなくても、部落差別はうけているのです。部落差別とはそんなにも深いものなのです。今一度、部落差別について学んでいただきたい。

部落に生まれたというだけで、石川一雄さんは犯人に仕立てあげられました。 この国家ぐるみの部落差別を絶対に許しません! 東京高検に対して一日も早い証拠開示を勧告してください。 そして、裁判長自らの手で事実調べを開始して下さい。

以上、要請します。

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