検察、裁判所への闘いを強めよう 7月11日要請行動の報告

(2012年08月22日)

 

検察は全証拠を直ちに開示せよ! 小川裁判長は事実調べを開始せよ!

7月11日の東京高裁への要請行動で、荒本から参加した岩崎喜子・婦人部事務局長が口頭で行った要請を文章にしていただきました。

差別が奪った人生を返してほしい!

子どもの頃の悔しい思いだけが記憶に残る

小川正持裁判長へ 1963年、小川裁判長は、どんな生活を送っていましたか。 わたしは、高校に入って間もないころ、部落民であることを知りました。 しかし、1963年といえば、まだその前であり、わたしは、小学校の低学年のころです。当時の記憶は、ほとんど残っていません。

ところが、なぜか悔しい思いをした記憶だけは鮮明です。教室で金品や学用品がなくなるなどなにか事がおこれば、自分や荒本の子に白い眼がむけられたこと。胸がどきどきして、うつむいていたこと。荒本に住む同級 東京高裁前で再審開始を訴える岩崎婦人部事務局長(前列左端) 生は、義務教育といえども全員が通学していたわけではありません。「いじめられたら助けてやる」といっていた子も家の手伝いや兄弟の世話で学校に通うことができなかったのです。わたしが休んだ子にたいして給食のパンとジャムが入った袋を届ける役まわりであったこと。卒業式前、荒本の子には、机のうえに担任からの送りものが置かれていなかったこと。

中学校に入り、「同和教育」のさきがけのころで、「差別してはいけない」程度の「学習」をうけました。卒業式まえのことがらも「先生のえこひいき」程度の認識で、小学校の元担任に数人で詰め寄ったことを覚えています。

こうした私が部落民であると分かったときに、はじめて過去のできごとに整理がつきました。これは部落差別であると。同時に、絶望の淵にたたされました。広島・三次高校の弓場美恵さんの死と対面し、福本まり子さんの手記を何度も読み返し、「人間外の人間。わたしは何者か」と暗澹たる思いの日々でした。

 裁判長は部落差別と向き合え!

「狭山事件」に出会ったのはそのころでした。当時は、井波裁判長でしたが第一審の検事論告、そして内田武文裁判長の判決文は、心底からの怒りを覚えました。

「貧困」「小学校にもいけず」「子守奉公・・農家を転々とし」(検事論告)この生活環境を「犯行の動機」として内田裁判長は、石川さんを死刑にしました。

石川さんの生い立ちは、時代は変われども私の生い立ちに通じるものです。家も荒本も貧しかったし、この貧しさをもって犯人にすることが許されていいはずがない。やってもいない罪でさらし者にし、「鬼畜の所業」「一片の人間心さえない」とあびせた一句一句は、石川さんだけにむけた罵倒ではない。私自身にさえ、部落の兄弟に突き刺さっています。

 無実の叫びに希望

貧困一般ではない部落民だからうけたこの仕打ちに、石川一雄さんは「わたしは、無実」と二審の冒頭で叫びました。たったひとりで国家の意思にたちむかった石川さんをじぶん自身に重ねあわせ、ようやく、人として生きる道が見えたのだと思います。

小川裁判長。あなたは、そのころどんな生活を送っていましたか。裁判長であるまえに人として部落差別とむき合うことではないか。

  祖父や祖母、それ以前から営々と生産されてきた部落差別を子どもたちや孫に引き継がせるわけにはいかない。差別が奪った人生をかえしてほしい。石川さんから奪った人生をかえしてほしい。   裁判長が部落差別をしていないというのならば、検察に全証拠を開示させ、まともな裁判をおこなうことです。「殺害現場のルミノール反応検査」など「みあたらない」ですますことが許されるはずもなく、検察の証拠隠しに断を下すべきです。
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