長野地裁による5・17判決を弾劾する

(2011年05月31日)

 
(1)
5月17日、長野地裁(山本剛史裁判長)は、M君とM君のご両親が提起 していた損害賠償訴訟において、M君の要求を退ける反動判決を行った。われわれは、満腔の怒りをこめてこの判決を弾劾し、M君とともに最後までたたかいぬくことを宣言する。

(2)
この事件は、被告であるK(中野市在住)による部落差別を背景としたKの娘(Y)とM君との離婚をめぐる事件である。2008年の9月に結婚し、M君の妻となったYは、同年の11月に出産にともなう里帰りをしていこう、結婚後同居していたM君宅に一度も帰らないまま、突然、2009年3月に「離婚調停」を裁判所に申し立てた。裁判所からの「離婚調停」への出席要請を受け取ってはじめて妻の「離婚」要求を知らされたM君は、訳がわからないまま、そのショックによって自殺を図るまでに追い詰められた。幸いに、M君は絶息寸前でお母さんに発見され事なきを得たが、死を選択するほどの打撃を受けたのである。
M君とYは、2008年9月に結婚したが、結婚するまえにM君が結婚の承諾を得るためにご両親らとともにY宅を訪問したさい、Yの父親であるKは、さかんに「家柄」を強調し、M君との結婚にたいして冷たい態度をとっていた。また、この訪問前にM君がひとりでK宅を訪問したさいに、Kは、M君の住所、母親の旧姓と実家の住所を執拗に尋ねていたという。つまり、Kは、M君が被差別部落出身者であるかどうかを確かめたということであり、その結果、表だっては反対しないものの、明らかに、娘とM君の結婚に強い反対の意思を持っていたのである。これは、Kが、M君や両親が結納の意味を込めてK宅を訪問したさい、あらかじめその訪問を了承していたにも関わらず、ジャージ姿で対応したり、「家柄」を強調していたことからも明白であった。しかし、すでにYが妊娠していたこともあって、ひとまずは両者の結婚を認めざるをえなかったのである。
ところが、結婚後、わずか一月後に、Yは出産にともなって里帰りし、そのまま生まれたばかりの子供とともにM君宅に帰らず、突然に「離婚」を言い出した。裁判所に申し立てた「離婚」の理由は、「母親(M君の)とうまくいかない」ということのみだが、しかし、これを裏付けるトラブルな どの事実は一切ない。きわめて一方的な「離婚要求」だったのである。このY行動には、部落差別によってこの結婚に反対していた父親のKの影響があったことは否めない。つまり、この事件は、部落差別による結婚差別事件に他ならないのである。

(3)
M君は、上記のように、いったんは死の淵までおいつめられながら、お母さんの必死の支えと、お母さんから相談を受けた、部落解放同盟全国連合会(長野県連)の仲間たちの支えによって立ち直り、妻と子供を引き裂いた部落差別にたいする激しい怒りを持ち、二度と自分と同じような思いをする者がなくなるようにと、この差別を「裁く」ために、損倍訴訟に踏み切ったのであった。 その際、M君は、被告を、M君にたいして死の直前にまでM君を追い詰めた、直接にM君に精神的打撃を与える言動を行ったYではなく、Yの言動の背景となったK(父親)とした。直接の当事者ではないものを訴訟の対象とすることは、損倍訴訟においてきわめて不利になるということをわかった上で、M君が、あえてこれを選択したのは、「家柄」の強調や、母親の身元調べなどによるKの部落差別の意図を公の場で暴き、これを真っ向から糾弾し、裁くためである。
実際に、この裁判は、はじめから部落差別にたいする糾弾の場となり、被告および、被告の代理人(町田弁護士)を追い詰めていった。町田弁護士は、M君とM君を支援する全国連の糾弾の意思とたたかいをあたかも「ゆすり、たかり」のように描いて、公訴棄却を主張した。しかし、これが通用しなくなるや、M君の実母が精神疾患によって入院していることを根拠に、Kが結婚に反対したのは、障害を持つ子供を孫にはしたくないという理由であったかのように描いて、部落差別の意図を隠そうとした。驚くべきことに、この弁護士は、部落差別を隠すために、障害者にたいする差別を持ち出したのであった。このような行為は、当然にも傍聴者から激しい弾劾をたたきつけられるとともに、裁判長の失笑をかう結果にしかならなかった。
また、Kは、被告人尋問のなかで、すべてに渡って知らぬ存ぜぬを通そうとしたが、しかし、M君の住む被差別部落について、そこが部落かどうか「知らなかった」などと嘘八百をならべてごまかす以外になかった。Kは、勤務する企業のなかで同和対策事業に関係する部署におり、また、義理の姉がM君の住む部落に隣接するところにクリーニング店を営んでいることなどから、M君の住む地域が部落であることを知らないなどということは絶対にありえない。つまり、部落差別の意図を隠すために、「部落だと知らなかった」と、明らかな偽証をせざるを得ないまでに追い詰められたのである。

(4)
ところが、この裁判において、長野地裁は、いっかんして、差別した者をかばい、事件の本質である部落差別を隠そうとする、実に許せない態度をとった。当初の近藤裁判長も、途中から裁判を引き継いだ山本裁判長も、審理を公開の法廷とせず、「電話会議」などという密室審理を繰り返して、被告および、被告の代理人をかばうという訴訟指揮を繰り返した。また、原告が強く申し入れた部落差別に関する証人3人の証人尋問を却下、「家柄」発言の持つ意味や、結婚差別の実態、その犯罪性などについての審理をまったく行わなかったのである。
5月17日の判決時における山本裁判長の態度こそ、こうした長野地裁の一連の態度の集大成に他ならない。
この日の公判開始早々、原告(と代理人)から、3人の証人尋問の申請の却下と審理打ち切りについての異議申し立てが行われた。ところが、山本裁 判長は、これにたいして「却下します」とも何とも言わず、突然に「主文・ ・・」と判決文の2~3行だけを読み上げて、そのまま何も言わずに席を立って帰ってしまったのである。「判決を言い渡します」という宣言も、「閉廷」の宣言もなにもないままの出来事であった。傍聴人だけでなく、裁判所職員さえ「どうなったのか」と混乱する始末で、まさに、山本裁判長は法廷にでることをいやがり、あたふたと逃げ帰ったというべき、無様な有様であった。自分のやっていることが、いかに不正義で許されないのかを山本裁判長は自覚していたということである。
その後、原告と代理人が、抗議と判決文の交付の要求のために、裁判長に面会を求めたところ、「まだ判決文ができていない」という返事がかえってきた。何ともあきれる現実だが、結局、1時間近く待たされて、急遽、山本裁判長は判決文を「仕上げ」て交付するということになった。つまり、この判決は、結果だけが先に決まっていた判決であり、理由は後からつけるというものだったのである。これが長野地裁・山本裁判長によって行われた「裁判」であった。

(5)
原告のM君は、ただちに控訴することを決断した。最後まで、Kの部落差別を糾弾するためであり、同時に、差別した者をかばい、差別から逃げて、差別を隠そうとする長野地裁の「裁判」をこのまま放置することができないからである。われわれは、このM君を断固として支持し、最後までともにたたかいぬくものである。
この裁判は、けっして部落差別を裁判所に裁いてもらうためのものではなかった。M君じしんがみずからの手でKの差別の意図を暴き、ひきずりだし、自らの手でそれを正すためのたたかいであった。そのために、あえて、裁判上は不利だとわかった上で、Kを被告とし、その言動を真っ向から問題にしたのであった。だからこそ、5月17日の山本裁判長による判決は、たたかいの終わりではなく、あらたなたたかいの始まりである。われわれは、M君とともに、最後の勝利までともにたたかいぬく。
以上
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