ある糾弾闘争の教訓(婦人部大会での報告から)

(2010年12月16日)

  <報告> 露骨な差別、ねばりづよい糾弾ーある部落の婦人のたたかい
全婦の紙芝居 11月20日に開催された全国連婦人部の大会において、ある部落の婦人のたたかいが報告されました。これは、全国連の組織がない地域で、たった一人で差 別に立ち向かい、そして、糾弾のたたかいをやりとげたたたかいの報告です。この報告は、差別事件が激増する現在、これにいかに立ち向かっていくのかを考え ていく上で、大事な教訓を示していると思いますので、その要旨を掲載します。(編集局)

突然の差別発言!
今年3月、わたしが、ある喫茶店で、その店の常連客の友達と談笑していたときのことです。わたしは、幼少の頃、京都で過ごしたことがあり、そのときのことを話していました。
最近、この喫茶店に来るようになったある女性客(以下、Sさんとする)が、はじめはその話を黙って聞いていたのですが、突然、京都市内の部落の話をしだ しました。「○○という所に共同浴場があって、風呂代が五円で、安かったのでよく利用していた。」「共同浴場にいったある日、風呂場に突然男の人が入って きて、無理矢理に背中を洗ってやると言われた。怖かったので、その場はとりあえず背中を洗ってもらい、すぐ風呂から上がった。すると、先ほどの男から、 『背中を洗ってもらってタダで帰るつもりか』と脅され、こわごわヤクルト20本を買ってわたした。」などと言ったのです。
まわりの常連客は、Sさんがなぜ、突然にそのような話をしだしたのかと、あまりの突然の話にとまどったように思います。わたし自身も、「部落のことを言 い出した」と思い、本当にびっくりし、動揺しました。そのあと、Sさんは、すぐ横にいたわたしに、「○○というところは怖いところで、これやで」と、四本 指をだして言ったのです。
被差別部落に生まれたものは、小さい頃から、他の地域の人に、4本指を出されたり、「エッタ」とか「ヨツ」とか言われて差別されてきました。Sさんは、 わたしが被差別部落の出身だということを知らないからこそ、そのようなことをしたのでしょうが、わたしは、鋭い刃物で心臓を引き裂かれたような気持ちにな りました。
部落民宣言と話し合い
わたしは、子どもを生み育てるなかで、部落解放運動に出会いました。そのなかで、差別糾弾のたたかいにも数多く参加した経験があります。だからこそ、S さんの突然の差別言動に直面したとき、わたしは、怒りを抑えきれない気持ちになりましたが、いま、Sさんの言動に激昂してしまい、物別れに終わってしまえ ば、「やっぱり部落の人は怖い」と、さらなる偏見につながってしまうのではないかと思い直し、わたしは怒りをぐっと鎮めて、落ち着いてSさんと話し合うこ とにしました。
わたしの心は激しく揺れ動き、心臓がドキドキしていたのですが、とにかく「落ち着け、落ち着け」と自分に言い聞かせ、一言一言に注意しながら、Sさんと 話をはじめました。わたしは、Sさんにたいして、このような発言をするにいたった経過や、生い立ちを聞かせてもらい、また、わたし自身が被差別部落に生ま れ育ったことを明らかにし、そのなかで受けてきた厳しい差別の現実を話して、互いがゆっくりと、納得がいくまで語り合いたいと伝えました。喫茶店の常連客 のなかには、わたしが部落出身だと知っている人もいますが、知らない人のほうが多くて、このことがきっかけで、喫茶店のなかでわたしの部落民宣言をするこ とになってしまいました。
ウソにウソを重ねて逃げるSさん
こうして話し合いが始まりましたが、Sさんは、「自分は、じつは○○にも、□□にも住んでいた」などと、部落の地名を言い出しました。わたしが、「自分 はその地域をよく知っているが、具体的にどこに住んでいたのか」と尋ね、詰め寄ると、Sさんは黙り込み、何一つ言葉を返すことができなくなりました。Sさ んは、自分も部落の人間だと言えば、わたしが安心して追及しなくなると思ったのかも知れません。
こうしたなかで、Sさんは、「もう二度と差別をしないので、許してほしい」と言いました。しかし、この謝罪がインチキなことは、わたしだけでなく、まわ りで聞いていたみんなが感じました。風呂の話が本当のことか、ウソなのか。誰から聞いたのか、自分で考えたのか。なぜ、こんなウソをついたのか。など、正 直に話してはじめて謝罪と言えるし、「二度と差別をしない」ということが信用できるのだと思います。わたしは、Sさんに引き続き話し合うことを約束させま した。
話し合いの続きは、翌日、同じ喫茶店で行われました。話し合いをまわりで聞いていた常連客も全員があつまりました。しかし、Sさんは、「男ではなくあか すりの女の人だったかも」と言い逃れたり、近くのスーパーでゴミをすてたことにたいして「1万円を脅し取られた」などと話をすり替えたりで、都合が悪くな ると黙ってしまうということの繰り返しでした。
あげくのはてには、「娘の夫は警察官だ」とか、「知り合いに怖いおっさんがいる」などと言って、話し合いを終わらせようとしたのです。しかし、「警察官 なら人権を守るのが普通だ。いるのなら連れてこい」「怖いおっさんがいるなら、そいつも呼んでこい」「そんなんを怖がってたら、村になんか住んどれんわ」 というと、また、黙ってしまうのです。
思わぬ仲間たちの支援
こういうくりかえしのなかで、わたしは、ストレスでいっぱいになりました。何度話しても理解してもらえない。どんなにていねいに、言葉を選んで話して も、すこしも真心が通じない。こうしたなかで、何度、「もういい」「なんで自分が苦しまなければならないのか」「いっそ、怒りをぶちまけてしまおうか」と いうような気持ちになったか知れません。
ところが、ずっと、まわりで話を聞いていた常連客の仲間たちが、いつのまにかわたしの気持ちを理解し、わたしと同じようにSさんの態度に怒り、わたしと 一緒になってSさんとの話し合いに加わってくるようになったのです。Sさんが「自分は差別なんかしていない」と開き直ったときには、「ウソを言うな。わた しは、たしかに聞いた」と言ってくれたり、Sさんの言い逃れのためのウソにも、「それはおかしい」と話し合いに参加してくるようになったのです。また、喫 茶店のママさん(経営者)も、「大事なことだから」と、話し合いに喫茶店を使ってもいいと言ってくれました。こうしたまわりの変化には、本当にびっくりし ました。わたしは、Sさんとの話のなかで、「横から言うてくれる仲間がいたらなあ」とずっと思っきましたが、いつの間にか、まわりの常連客みんながそう なっていたのです。
Sさんとは、都合8回にもわたって、この喫茶店で話し合いを行いました。Sさんは、何度も逃げようとしましたが、まわりのみんなからも「明日もまた来い や」と言われて、逃げるに逃げられなかったのです。結果として、Sさんの心からの謝罪はかちとることはできませんでしたが、このような差別は許されないと いうことだけはSさんの心に深く突き刺さったと思います。それ以上に、この話し合いをまわりで聞いていた人たちが、この話し合いによって部落差別の実態に ふれ、その苦しみを自分の問題として考え、そして、わたしと一緒になってたたかうようになってくれたことが、わたしにとってかけがえのない財産になりまし た。
差別とたたかう心と力をとりもどしたい
わたしは、Sさんにたいして、わたしが差別される苦しさを伝え、Sさんの行為がいかに人間を冒涜する行為なのかを気づかせようとして、長い時間をかけて 話し合いを行ってきました。やはり、差別をなくすためには、差別される立場に立たされている者が、自分の手で差別を糺すことが大事です。これが、長年にわ たって運動に携わってきたわたしの信念です。この信念にもとづいて、わたしはSさんの言動に怒り、その誤りを指摘し、Sさんを変革しようとがんばりまし た。しかし、正直に言って、まったく自信はなかったし、本当に苦しかったのです。
いま、差別はほとんど野放しになっています。解放同盟もたたかえなくなっているのではないでしょうか。だから、どんなに苦しくても、最後までやってやろ うと考えなおしました。こういう一人一人の努力が、やがてもう一度、運動をもりあげていく力になるのではないかと思います。わたしは、くじけずに最後まで やってよかったと思っています。
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