『9・11反米ゲリラ』8周年に際して

(2009年09月11日)

  『9・11反米ゲリラ』8周年に際して

『9・11反米ゲリラ』8周年に際して、論文「9・11は、部落解放運動に何を問うているのか」(2002年2月『部落解放闘争』33号に掲載)を、再掲します。

石油。それは19世紀末の自動車の発明とともに、資本主義の重化学工業化をささえてきた戦略資源である。にもかかわらず石油は、大量生産できる油田が少 なく、発見も困難をきわめたために、その産地は大いにかたよっている。中東には世界の石油埋蔵量の61%が集中しており、国別でも、1位サウジアラビア、 2位イラン、3位イラク、4位クウェート、5位アラブ首長国連邦と、上位を独占している。
イスラム教徒のアラブ民族が暮らすこの地域を、石油の支配権をめぐって、イギリス、フランス、ドイツ、そしてアメリカなどの帝国主義国が侵略戦争をくり かえしてきた。第2次世界大戦後、アラブ民族がつぎつぎと独立をはたすなかで、中東石油支配のためにアメリカがつくった軍事国家がイスラエルである。その 時、土地をうばわれ難民となったのがパレスチナ人だ。以後、今日でもパレスチナ人の復帰運動は連綿としてたたかわれている。2001年の9・11反米ゲリ ラは、このようなイスラム諸国人民による民族解放闘争の歴史を画する大戦闘として勝ちとられた。
『9・11反米ゲリラ』8周年に際して、論文「9・11は、部落解放運動に何を問うているのか」(2002年2月『部落解放闘争』33号に掲載)を、再掲します。


九・一一は部落解放運動になにを問うているのか               松村 啓
はじめにー世界を揺るがした九・一一反米ゲリラ
二〇〇一年九月一一日、アメリカで四機の旅客機がうばわれ、そのうちの二機がアメリカ経済の中枢でありシンボルでもある世界貿易センタービルの南北二棟につぎつぎと突入しました。摩天楼ひしめくニューヨークのマンハッタンのなかでもひときわ高くそびえたつ四三〇メートル、一一〇階だての巨大なツインタワービルは完全にくずれおち、がれきの山となりました。残る二機のうちの一機は、アメリカの軍事中枢であるワシントンの国防総省ビル(ペンタゴン)に突入し、壊滅的な打撃をあたえました。最後の一機はペンシルベニア州ピッツバーグに墜落しました。
このニュースは直ちに全世界をかけめぐり、その鮮烈な映像に世界中の人々の目がそそがれました。いったい何がおきたのか、だれが何のためにやったのか、これからどうなるのか。そして、自分は何をすればいいのか。おそらく、このことを考えなかった人は、ひとりもいないと思います。この一点を見ても九・一一反米ゲリラは、世界中の人々の魂を揺さぶった歴史的な大事件といえると思います。
そのご、事態は急展開し、この疑問にたいする答をもとめて、もがき苦しみながら、私たち全国連は必死になって反戦闘争をたたかってきました。まず、たたかいをはじめること。そして、たたかいながら、学び、考えること。そうやって今日まで、たたかってきたと思います。「テロ根絶」の大合唱をつきやぶる私たちのたたかいは、本当に正しかった。
そのうえで、この反戦闘争の方向性や展望を明らかにしていくためにも、私たちの出発点になった九・一一反米ゲリラへの疑問に、私たち自身で答をだしていかなければなりません。みなさんも感じておられるとおり、マスコミや学者が教えてくれるものではないからです。彼らがもっている情報や知識を、たたかう私たちの立場からとらえかえして、はじめて答がすこしづつ形づくられていくのではないでしょうか。この小論は、その試みです。
一九人のイスラム戦士たちは、何のために自分の命を投げ出したのか。アメリカが主犯といっているビンラディン氏とアルカイダ、タリバンとは、どのような人々なのか。このことを皆さんとともに考えていきたいと思います。

一 「オサマ・ビンラディン氏やアルカイダ、タリバンはテロリストの権化のように宣伝されているが、本当だろうか」

(1) 「自分自身の命をも投げ出してたたかう激しさは、どこからくるのだろうか」「イスラム諸国人民は、何を求めてたたかいつづけているのだろうか」

ビンラディン氏とアルカイダは、つぎの四つのことを求めてたたかっています。

「自分たちの民族解放、民族自決のためには、それを絞殺せんとするアメリカの中東支配、イスラエルのパレスチナ占領とたたかわなければならない」

「アメリカはアラビア半島から出ていけ」

「アメリカに追随するサウジアラビア政府の打倒」

「パレスチナのエルサレムの解放」

この四つの要求はとんでもないことなのか、それとも正当なものなのか、を判断するためには、パレスチナで何があったのかを知らなければなりません。つぎに、それを見ていきたいと思います。

・イスラエル建国の階級的本質
いま、パレスチナとよばれている地域には、イスラエルという国があります。イスラエルが建国を宣言したのは、一九四八年五月一四日です。この国がつくられる前のパレスチナは、イギリスの植民地で、アラブ人とユダヤ人の両方が住んでいました。ではイスラエルは、他のイスラム諸国のように民族解放闘争をたたかいとってイギリスの植民地から独立したのでしょうか。そうではありません。イスラエルは、逆に、イギリスの植民地からの解放をたたかっていたアラブ人(イスラム教徒)をパレスチナから追いだして、その土地をうばうことによって作られたのです。

どのようにして追いだしたのでしょうか。一九四七年一一月二九日、国連はパレスチナを分割してアラブ人とユダヤ人のふたつの国を作り、エルサレム(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三つの宗教の聖地になっています)を国際管理下におくという勧告案を採択しました。しかし、この勧告案には、アラブ人とユダヤ人の双方が反対しました。アラブ人が反対したのは当然です。この案は、人口の三一・四パーセントにすぎないユダヤ人に五六パーセントの土地、しかも灌漑された土地の八三パーセント(雨が少ないこの地域では、水の確保が死活的です)を割り当てるという不公平なものだったからです。

パレスチナのアラブ人は抗議のストライキと暴動にたちあがり、ユダヤ人と激突していきました。決議後わずか一〇〇日のあいだにアラブ人、ユダヤ人双方で一七〇〇人が死亡する激しいたたかいは、四八年三月にはアラブ人によるエルサレム包囲攻撃にまで発展しました。

これにたいしてユダヤ人側は、「ダレット・プラン」と称するパレスチナ占領の総合計画をたて、軍事作戦をおこないました。もっとも有名なのは、エルサレム街道ぞいのアラブ人の村を根こそぎ壊滅することを目的とした作戦の一環としておこなわれたディール・ヤシン村の虐殺です。一九四八年四月九日、イスラエル建国をめざして武装していたユダヤ人たちが、アラブ人の村(ディール・ヤシン)を襲撃し、二五四人を虐殺したのです。この虐殺はアラブ人をパニックにおいやり、五月一四日のイスラエル建国までに四〇万人のアラブ人が、故郷の町や村から追い出されて難民(パレスチナ人民)となりました。今日にいたるパレスチナ人民の苦闘は、このようにしてはじまったのです。

イスラエルは国境を定めていない、世界でただひとつの国です。建国後も四次にわたる戦争で領土を拡大し、現在も軍事占領を続けています。とりわけ六七年の第三次中東戦争ごは、パレスチナの全域をイスラエルが占領しています。国連に登録されているパレスチナ難民の数ですら二三〇万人をこえ、そのうち八〇万人以上が難民キャンプで暮らしています。そして、占領地に残って住みつづけているパレスチナ人民一一〇万人は、イスラエル軍による徹底した暴力支配のもとにおかれているのです。

「被占領民(パレスチナ人のこと、筆者注)にとって『占領』とは、占領当局の権力が生活のあらゆる面に及んでくることを意味している。身分証明書(IDカード)の取得、自動車免許証の更新、学校での教科書の採用、新聞の検閲、家の新改築許可、農地の開墾、井戸の掘削、店の営業許可、占領地外へ旅行する際の許可……、日常生活の細かな点まで占領当局の権力は及んでいる。それは占領地住民にとっては屈辱以外の何ものでもない。

イスラエル占領当局(実体は軍)は、反占領活動に対しては徹底的に厳しい措置を取る。軍のパトロールに子供が投石すると、親は多額の罰金を支払わなければならない。また、家族の一員がイスラエル側のいう『テロ行為』やPLO(パレスチナ解放機構、筆者注)などと関係していたとして逮捕されたりすると、その家族の住む家全体がブルドーザーやダイナマイトで破壊される。また時には逮捕された子供の部屋だけがコンクリート・ブロックで閉鎖され、家族は使えないようにされる。家を破壊された家族達はそこに住むことも許されないため、親戚や知り合いの家にバラバラにわかれて住むしかない。

行政拘禁、占領地からの追放、外出禁止令などの措置も頻繁にとられる。行政拘禁とは、具体的な『反占領行為』を行わなくても、その可能性があると占領当局がみなしたパレスチナ人を予防拘束的に裁判抜きで拘禁することである。期限は一応六カ月となっているが、当局の考えで更新できるため、具体的な嫌疑の無いまま数年間も捕まったままになってしまう。

占領地からの追放もイスラエルが占領直後から行っている措置であり、すでに約二〇〇〇人(八九年七月時点、筆者注)が追放されたといわれている。追放者はイスラエルが影響力を持っている南レバノンまで連れていかれ、そのまま追放される。」(『イスラエルとパレスチナ』立山良司著より)

イスラエル占領下のパレスチナ人民は、政治的権利を奪われたうえに経済的にもきびしい状態におかれています。占領地は将来の政治的な見通しがたたないので入ってくる資金も少なく、国連などのプロジェクト援助も工業開発につながるものはイスラエルが許可しないケースが多いので、工業は発達していません。GDP(国内総生産)にしめる工業の割合は、ガザ地区では一九六八年から一九八六年までの一九年間に三パーセントから一三パーセントに上昇したものの、ヨルダン川西岸では一〇パーセントから八パーセントと逆に低下しました。工場の従業員も六割が四人以下、三割が五〜一〇人という小規模零細です。

主体である農業も、水資源の管理や配分は完全にイスラエル占領当局がおさえているため、灌漑施設の独自開発はほとんど行われていません。このため耕地面積にしめる灌漑農地の割合は五〜六パーセントにしか過ぎず、他は雨まかせです。また、井戸を持っていても、汲み上げられる水の量は占領当局によって厳しく制限されています。さらにイスラエルによる入植地の建設が進み、土地がさかんに接収されていくために、農地面積じたいも減っていっています。

海に面しているガザ地区は漁業の盛んなところでした。しかし、これもさまざまな制限をうけています。たとえば、沖合い二〇キロ以上に出漁できません。たびたび、日没から日の出まで外出禁止令がだされるので、夜間の出漁ができません。そのため、水揚げ量が六〇年代末の半分以下に落ち込んでいます。

約一〇万人がイスラエルへ出稼ぎにいっています。その半分が正規の手続きをとらないで雇われています。多くは日雇いで、建設現場などの下働きや農繁期の果樹園などで働いています。

占領地の経済はイスラエルに完全に組み込まれており、輸入品の九〇パーセントがイスラエルからであり、店先にならんでいる商品のほとんどがイスラエル製品です。占領地のパレスチナ人民は、経済的にもイスラエルによって踏みつけにされ、虫ケラのように扱われているのです。

他方、イスラエルは占領地内に入植地をつくり、アメリカやヨーロッパからのユダヤ人の移民を受け入れ、彼らにかつてパレスチナ人が住んでいた土地と家を与えています。イスラエルの現首相シャロンは、八二年にパレスチナ難民キャンプを襲撃し、女性や子供をふくむ数千人を虐殺した張本人です。イスラエルは、パレスチナ人民の血の犠牲の上にはじめてなりたっている軍事国家なのです。

そして建国から今日にいたるまでイスラエルを軍事をはじめ政治的、経済的にも支えてきたのがアメリカです。アメリカは、イギリスやフランスに代わって中東を支配するために、イスラム諸国人民の民族解放闘争を暴力でおしつぶすために、その出撃拠点としてイスラエルという国をつくったのです。だからパレスチナ人民をはじめとするイスラム諸国人民は、イスラエルとともに、いや、それ以上にアメリカを憎み、敵としてたたかい続けているのです。

・新しいたたかい=インティファーダ(蜂起)

「一九八七年一二月、このガザのジャバリア・キャンプの住人が乗った車二台と、イスラエル軍の大型トレーラーが正面衝突、トレーラーを運転していたイスラエル兵は無事だったが、パレスチナ人のほうは四人が即死した。四人はいずれも占領地ガザからイスラエルへ日雇い労働者として仕事へ行き、その帰りに事故に合ったのだ。キャンプでの葬式に集まった家族、親戚や友人たちの胸にはやり場のない怒りや疑問が沸き上がってきたに違いない。なぜイスラエル軍やユダヤ人入植者は我が物顔に振るまい、俺たちの土地や水を取っていくのだ。なぜ俺たちはこの狭いキャンプで四〇年近くも閉じ込められるようにして暮らさなければならないんだ。なぜ俺たちには日雇い労働者としてイスラエルへ働きに行く以外に仕事がないんだ。なぜ俺たちには何の権利もないままイスラエルの占領下に置かれていなければならないんだ……。

葬式はイスラエル占領に反対する抗議集会と化した。イスラエル軍が鎮圧に乗り出した。投石、発砲、外出禁止令。アラビア語で『インティファーダ』とよばれる大衆蜂起の始まりだった。」(同)

数日後にはイスラエル軍占領地の全域(ヨルダン川西岸とガザ地区)で、ほとんど無防備なまま石を投げて抵抗するパレスチナ青少年と近代的な武器で重装備したイスラエル軍との間に、衝突が一挙に広がっていきました。パレスチナ商人は店を閉めてストライキに訴え、イスラエル占領軍に雇われている警備員、従業員などの労働者もボイコットをしてたたかいました。このパレスチナ人民の新しいたたかいは、かつてない裾野の広さと激しさをもって永続的に貫かれています。そして、このたたかいをとおしてパレスチナ人民はたくましく誇りに満ちた人間としての尊厳を奪い返していっているのです。

「インティファーダは、占領地パレスチナ住民の意識を確実に変えた。以前は反イスラエル・デモに参加する子供を親は必死に止めた。今、街頭に出ていく子供を親は止めることはできない。むしろ、中・高年の女性まで街頭に出て、イスラエル軍に石を投げたり、棍棒で殴られながらもイスラエル兵士にくってかかったりしている。

インティファーダ前、『政治』の話はタブーだった。いつどこでイスラエル秘密警察のスパイが聞いているかもしれないからだ。しかし今や誰もが、パレスチナ国家、パレスチナ人の政治的権利を臆することなく口にする。」(同)

イスラエル軍は石を投げるパレスチナ青少年に銃を発砲し、戦車をさしむけて弾圧しました。八七年から九三年の間にイスラエル軍の弾圧によって一一一六人のパレスチナ人民が虐殺され(イスラエル側の死者は一五〇人)、数万人が負傷し、投獄されたものはほとんど全ての家族に及びました。弾圧したイスラエル側の推計でも、約二〇〇万人のパレスチナ人口のうち一二万人が投獄されたのです。占領軍を批判したりパレスチナ国旗をかかげただけで投獄の「罪状」とされました。

しかしインティファーダは、九三年九月のオスロ合意にもとづいてパレスチナ人による{暫ざん}{定てい}的な自治区がつくられてからも、今日にいたるまで不屈につづけられています。パレスチナ人民が九・一一ゲリラに歓呼をあげたのには、当然すぎる理由があったのです。

他方イスラエルは、九・一一ゲリラにたいしてパレスチナ六自治区へ一斉に軍事侵攻し、「パレスチナ暫定自治政府に代わってテロリストを取り締まる」などと{傲ごう}{慢まん}にも開きなおって、二週間で約六〇人を虐殺しました。今も虐殺を続けています。絶対に許せません。

・九一年、「湾岸戦争」

パレスチナでインティファーダが嵐のようにたたかわれていた最中の九一年一月一七日、アメリカはイラクのクウェート侵攻を口実として、「湾岸戦争」をしかけました。アメリカ軍はイラクに無差別爆撃をくりかえし、二〇万人ものイラク人民を虐殺しました。そして、サウジアラビアには五〇万人のアメリカ軍が駐留し、同じイスラム諸国人民を虐殺するための攻撃基地とされました。戦争のあとも五千人のアメリカ軍がサウジアラビアに駐留しつづけました。

一〇年間にわたる反ソ武装闘争をアフガニスタン人民とともにたたかった、ビンラディン氏とアルカイダをはじめとするイスラム武装勢力(詳しくは後でのべます)は、このアメリカによるイラク・中東侵略戦争を契機として、明確に反米・反イスラエルの武装闘争へとカジを切っていきました。そして、二〇〇一年の九・一一ゲリラは、九〇年代の一〇年間をとおしてたたかわれてきた反米・反イスラエルの武装闘争の頂点として爆発したと言えると思います。

最初にあげたビンラディン氏とアルカイダの四つの要求は、この反米・反イスラエルの武装闘争で何を実現しようとしているのか、その目的をはっきりと示しています。それは、アメリカをはじめとする帝国主義によって植民地とされ支配されてきたイスラム諸国人民の民族解放です。それを暴力で圧殺しつづけてきたアメリカ、その先兵イスラエル、裏切り者サウジアラビア政府の打倒です。そして、これこそイスラム諸国人民が二〇世紀の一〇〇年間をとおして、今日もなお不屈にたたかいつづけている理由です。イスラム諸国一三億人民の共通した願いです。わが身を投げ出してでも実現しようとする目標です。九・一一ゲリラの激しさは、人間としての尊厳を奪いかえそうとする民族解放闘争の熱情、帝国主義の植民地支配にたいする怒りの激しさなのです。



(2) 「タリバン政権は、なぜアメリカとたたかうことを決断し、決死の覚悟でたたかっているのか」

アメリカが「報復」と称して最初にやり玉にあげたのは、ビンラディン氏とアルカイダでした。その理由は、先ほど見たように、彼らこそがイスラム諸国一三億人民の大義を体現し、その先頭にたってもっとも激しくたたかっているからに他なりません。タリバン政権はビンラディン氏をわたせというアメリカの要求をことわって、彼らとともにアメリカとたたかうことを決断し、決死の覚悟でたたかっています。この理由を知るために、アフガニスタンでどのようなたたかいがおこなわれてきたのか、その歴史を簡単に見ていきましょう。

・七九年二月、イラン革命

第二次世界大戦後、イランのパーレビ王朝は、イスラエルとならんでアメリカによる中東支配の{要かなめ}をなし、「ペルシャ湾の憲兵」と呼ばれていました。そうするためにアメリカは、イランにCIAを送りこみ、暗黒の暴力支配で人民のいっさいの民族的権利をうばっていたのです。しかし、一九七九年二月にイスラム原理主義をかかげた人民の武装闘争によってパーレビ王朝は打倒されました。アメリカの新植民地主義支配にたいする、民族解放戦争の偉大な勝利がたたかいとられたのです。アメリカは七五年のベトナム失陥に続き、中東からも追い出される危機に直面しました。

アメリカは、イラクを使って戦争をしかけ、イラン革命を圧殺しようとしました。イラン革命への反動としてアメリカによってしかけられた戦争(一九八〇年九月から八八年八月まで)が、イラン・イラク戦争です。

しかし、イラン革命によって危機にたたされたのはアメリカだけではありませんでした。国内に数千万人のイスラム教徒をかかえる多民族国家・ソ連もまた、自らが打倒される危機にたたされたのです。この危機を軍事によってのりきるために、ソ連は、アフガニスタンへの侵攻を開始しました。

・七九年、ソ連のアフガニスタン侵攻の開始

一九七九年末に始まったソ連軍の侵攻によって、アフガニスタンでは多くの難民が生まれました。その数は、一番多いときで四百万人が東隣のパキスタンに、三百万人が西隣のイランに流れたと言われています。総人口二五〇〇万人の実に三〇パーセントもの人が難民になったのです。しかし、彼らはただ戦火を逃れていただけではありません。

・アフガニスタン人民のゲリラ戦争と義勇兵

アフガニスタン人民はムジャヘディン・ゲリラとなってたたかいました。

「当時三十歳前後だったカーンも、ムジャヘディンの一員となった。彼が住んでいた谷は道路が不便だったので、ソ連は戦車ではなく、空爆によって毎日のように谷を攻撃した。ムジャヘディンは、山腹にある天然の洞窟などに基地を作って隠れ、空爆を防いだが、戦闘に参加しない女性や老人、子供たちは空爆にさらされた。

そのためにドバンディ谷の有力者たちは、女子供をパキスタンの難民キャンプに避難させることにした。いったん村のほとんど全員が荷物をまとめ、一族ごとにまとまって、徒歩やロバに引かせた馬車などで山道を越えてパキスタン側に出て、そのままペシャワールの近郊まで行き、空き地などを見つけて住みついた。

難民キャンプでの定住が始まると、女子供の世話をしたり、一族のために肉体労働などをして金を稼ぐ担当の男を除き、成人男性は全員、再びドバンディ谷に戻り、ゲリラ戦に復帰した。」「戦場に行った男は三、四カ月すると再びキャンプに戻り、一族内の他の男が交替で戦場に出かける、という仕組みだった。」「ムジャヘディンは、出身の村ごとや谷ごとに部隊を作っていたが、その数は最盛期には、アフガニスタン全体で三千以上もあったという。」(『タリバン』田中{宇さかい}著より)

このように、ゲリラと言っても一部の人たちではなく、アフガニスタンの国をあげての組織的なたたかいだったのです。さらには、イスラム諸国(西はアフリカ大陸の北部から東はインドネシア、フィリピンまで)から万をこえる大勢の義勇兵がかけつけ、アフガニスタン人民のゲリラと一緒になってソ連軍とたたかいました。そのなかには、ビンラディン氏と後にアルカイダを結成した人々もいました。

ソ連軍の侵攻がはじまった時、サウジアラビアの大学生だったビンラディン氏は、ただちにアフガニスタンに向かい、その二週間後にはパキスタンのアフガニスタン国境の町ペシャワールにはいっています。そこで彼は兵站を担うとともに、生家のゼネコンの仕事をいかして、難民のための避難所や学校を建設し、その費用も負担しました。八〇年代の半ばからはアフガニスタンにはいり、進撃するムジャヘディン・ゲリラの道路や地下の隠れ家をつくったり、また直接の戦闘にも参加するようになりました。

イスラム諸国人民は義勇兵として国境を越えてアフガニスタンで合流し、たたかいをとおして団結をふかめていきました。こうしてアフガニスタンは、たたかうイスラム諸国人民にとって、民族解放闘争のかけがえのない根拠地となっていったのです。ビンラディン氏が八八年に結成したアルカイダもここを根拠地としています。

・八九年ソ連軍の敗北・撤退と九一年ソ連の崩壊

アフガニスタン人民の国をあげたゲリラ戦とイスラム諸国から集まった義勇兵のたたかいは、数百万人の犠牲をだしながら一〇年後には、ついにソ連軍を追い出しました。ソ連は、アフガニスタン人民をはじめとするイスラム諸国人民の武装闘争によって軍事的に敗北しただけではなく、九一年にはついに国家体制そのものが崩壊させられました。イスラム諸国人民は、不屈の武装闘争によって、アメリカとともに戦後世界体制をささえてきたソ連を打倒したのです。本当にすばらしいではありませんか。

ところで、アフガニスタン人民が大国の軍事侵攻をはねかえしたのは、これがはじめてではありません。一九世紀の後半から二〇世紀の始めにかけて、インドを植民地にしていたイギリスが、三度にわたってアフガニスタンに侵略戦争をしかけています。その時もアフガニスタンの人民は、ゲリラとなってたたかい、イギリス軍を撃退しています。アフガニスタン人民は、侵略軍に負けたことがない誇り高い人々なのです。

敗北したイギリスは、アフガニスタンの直接支配をあきらめ、アフガニスタンの東端だけを植民地のイギリス領インドに編入しようとしました。それまではインダス川だった国境を一五〇キロから二〇〇キロ西に移動させたのです。しかし居住地域を東西に分断されたパシュトン人は、イギリスの支配を認めませんでした。自分たちの地域に入ってくるイギリス軍にゲリラ攻撃をつづけ、国境を無視して往来しつづけました。この実力の抵抗のまえに、イギリスは編入したパシュトン人の居住地域を「部族地域」として特別な自治区域とせざるを得ませんでした。この自治区域は、一九四七年にインドが独立したあとも、パキスタンによって引き継がれ、現在も続いています。だからパシュトン人にとっては、今もアフガニスタンとパキスタンとの国境はないに等しいのです。パキスタン側の難民キャンプも、この部族地域につくられました。

・アメリカ帝国主義の分断政策と内戦

話を戻しましょう。せっかくソ連軍が{撤てっ}{退たい}して一〇年ぶりに平和が訪れようとしていたのに、なぜ、アフガニスタンは内戦になったのでしょうか。よく言われている多民族国家だからというのが原因でしょうか。その答は、反ソ連のゲリラに武器を提供したアメリカ帝国主義の政策にあります。

アメリカ帝国主義は、パキスタンを通して武器を提供したり軍事訓練をすることで、アフガニスタンの反ソ連のゲリラに影響力を作ろうとしました。その際、ゲリラをひとつにまとめるのではなく、民族の違いを利用して七つに分割し、そしておたがいに対立しあうようにして支配しました。ソ連撤退後に内戦にまでいたったアフガニスタンの民族対立は、実は、アメリカ帝国主義による分割支配によってつくられたのです。

多民族が混住しているから内戦になったのではありません。アフガニスタン人民がひとつにまとまることを妨害するために、アメリカが火種をまいたのが本当の原因なのです。

・内戦によって深まった人民の{疲ひ}{弊へい}

ソ連とたたかっていた時にはヒーローだったムジャヘディンは、派閥ごとに勢力圏をめぐって争う内戦の中で、「軍閥」のような存在へとなりさがっていきました。侵略軍から住民を守る集団から、住民に敵対する集団へと腐敗していったのです。たとえば、各派閥が「検問所」のようなものをもうけ、そこを通るトラックから勝手に通行料をおどしとったりしました。

アフガニスタンは、日本やアメリカ、ヨーロッパの国々のように、権力が中央に集中してひとつの政府をつくり、警察と監獄によって人民を支配している国家ではありません。権力は地域ごとに、そこの住民がつくっている地域共同体にゆだねられています。

「アフガン人は組織的に村から難民キャンプへと移動したため、キャンプでは故郷の村と同じ政治形態が温存された。アフガンの村には『ジルガ』と呼ばれる会議が存在するが、それは多くの場合、難民キャンプでも存続し、村の有力者がそのままキャンプの有力者となった。

ジルガは昔の日本の『寄り合い』のようなもので、各集落を代表するイスラム聖職者や、それ以外の有力者たちが集まり、イスラム法とパシュトン人の部族習慣に基づいて、争いごとの調停や、違法行為に対する処罰などを決定する。原則として参加者全員が同じ結論に対して納得するまで、議論が続けられる。」(同)

このようにして共同体によって守られてきた秩序が、内戦を続ける「軍閥」によって荒廃させられ、生活は不安定になり、ムジャヘディンへの人民の支持がはなれていきました。

・九四年、タリバンの登場

そのような時に登場してきたのがタリバンです。タリバンは軍閥のひとつが大きくなったのではありません。タリバンは難民キャンプで育ちイスラム神学校で学ぶ若者たちとその先生(聖職者)を中心につくられました。彼らは、自分たち難民が故郷に帰れないようにしている内戦、内戦をつづけている「軍閥」への強い怒りをもっていました。彼らは、それを行動に移したのです。

「小さなグループだったタリバンが、カンダハルの強欲な軍閥たちに対して、どのようにして立ち向かったのか。一九九四年春のこと、シンゲサルの住民が来てかれにこう訴えた。

『ある軍閥司令官が一〇代の少女二人を誘拐、彼女らの頭をそり、軍の基地に連れて行って繰り返し暴行した』 と。

オマルは三〇人ほどのタリバンに命じ、一六丁の自動小銃しかないのに基地を攻撃。少女たちを解放し、司令官を戦車の砲身に釣り下げた。かれらは大量の武器、弾薬も同時に獲得したのだった。

『われわれは、誤った道を行ったムスリムと戦ったのだ。女性や貧乏人に対する犯罪をみて、じっとしていることはできなかった』と後にオマルは言った。(略)人助けをしても、何の謝礼も報酬も求めなかったので威信は高まった。オマルは正しいイスラム制度をつくるために、自分に従うよう人々に求めただけだった。」(『タリバン』アハメド・ラシッド著より)

「一九九四年十一月、パキスタン西部のアフガン国境の町クエッタから、三十台のトラックが中央アジアのトルクメニスタンに向けて出発した。当然のごとく、アフガニスタンに入って最初の町カンダハルの手前にある地元のムジャヘディン勢力の検問所でトラックは止められ、法外な金を要求され、荷物を奪われそうになった。

そこに、パキスタンからトラック部隊を追いかけてきた三百人のタリバン兵士が突然登場した。彼らはトラックを捕らえていた地元勢力と戦って勝ち、トラック隊を救出した。タリバンはその足で地元勢力の司令官の屋敷に乗り込み、ここでも戦闘に勝って、司令官が誘拐・監禁していた女性たちを救い出し、そのままカンダハル市街地へと凱旋した。」(『タリバン』田中{宇さかい}著より)

そしてタリバンは、内戦によって破壊された秩序、農村を中心にして存在したイスラム教による秩序を認め、そうすることによって秩序を回復していきました。だからタリバンは、うちつづく内戦に{嫌いや}{気け}がさし、安定を求めていたアフガニスタン人民、とりわけ農村部を中心にして圧倒的に支持されたのです。九六年に首都カブールを支配下にいれたタリバンは、アフガニスタンの統一を回復して中央政権を樹立しました。このようにタリバンは、アフガニスタン人民に「正義の使者」としてむかえられ、選ばれた正当な政権なのです。決して住民から浮き上がった一部の過激派ではありません。

他方、ビンラディン氏とアルカイダをはじめとするイスラム武装勢力は、九一年の「湾岸戦争」を機に、世界中で激烈な反米・反イスラエルの武装闘争をたたかっていきます。九三年二月には、九・一一で破壊された、あのニューヨーク世界貿易センタービルを自爆攻撃しています。同年一〇月には、アフリカのソマリアに駐留している米軍にゲリラを敢行。アメリカはサウジアラビア政府に圧力をかけ、ビンラディン氏の国籍を奪い、一族との血縁さえも破壊しました。ビンラディン氏はスーダンへとのがれます。

九五年一一月、サウジアラビア・リャドの国家警備隊訓練センター爆破。アメリカはスーダンにも圧力をかけ、九六年五月にビンラディン氏は追っ手のおよばないアフガニスタンへと戻っていきました。ビンラディン氏とアルカイダにとってアフガニスタンは第二のふるさとのようなものであり、タリバンはイスラム原理主義を実践する同志です。タリバンが故郷を追われアメリカの追及を受けているビンラディン氏とアルカイダを受け入れたのは、彼らにとっては当然のことだったと思います。

九六年六月、サウジアラビア・ダラーンの米空軍施設を自爆攻撃。九八年八月、アフリカのケニアとタンザニアの米大使館を同時爆破。大使館爆破にたいしてアメリカは今回と同じように「報復」と称して、アフガニスタンとスーダンに合計一〇〇発の巡航ミサイルを打ち込んでいます。イスラム武装勢力の不屈のゲリラにたいして、アメリカはついに軍事力を投入し、肉体ごとの抹殺をはかったのです。絶対に許せません。また、この時からタリバンにとっても、アメリカとのたたかいがはじまったといえるでしょう。

イスラム武装勢力は、なおも戦闘を続けます。二〇〇〇年一〇月にはイエメンのアデン湾に停泊中の米海軍駆逐艦に自爆攻撃。そして、昨年の九・一一ニューヨークの世界貿易センタービルとワシントンの米国防総省(ペンタゴン)への同時ゲリラへとのぼりつめていったのです。

このように見てきたとき、タリバン政権に「テロリストをかくまった」などといちゃもんをつけて攻撃をつづけるアメリカや日本、ヨーロッパ諸国の政府の方こそが、とんでもない連中なのです。また、タリバンを皆殺しにするためにアメリカが軍事支援している北部同盟は、内戦を続けて人民の支持を失った諸勢力が、北のはしにおいやられて反タリバンとして野合したものです。だから、たとえ北部同盟を中心に新政権をつくったとしても、その政権はアフガニスタン人民の支持をえられないと思います。

(3) 「九・一一は、私たちに何をよびかけているのだろうか」

ビンラディン氏は、つぎのように語っています。

「アメリカの人々は、税金を自分たちの政府に支払っていることを思い出すべきである。アメリカの人々は、自分たちの大統領を選んでいる。彼らの政府が製造した武器がイスラエルに供与され、イスラエルはパレスチナ人を虐殺するためにそれらの武器を使用している。アメリカ議会は、政府のあらゆる政策を支持している。これがアメリカ全体がイスラム教徒に対して犯された虐殺行為に責任があることを証明するものである。アメリカの人々は、ベトナム戦争で自分たちの政府に反対して立ちあがった。アメリカの人々は、同じことを今日しなければならない。アメリカの人々は、自分たちの政府によるイスラム教徒の大虐殺をやめさせるべきである」「自分の命、子どもたちの命を大切に思うのなら、……自らの国益をもとめて、他人、他人の土地、他人の名誉を攻撃しない、まともな政府をもとめよ」

この言葉は、直接にはアメリカの人々にたいして発せられました。しかし、アメリカを日本とおきかえれば、そのまま私たちへの呼びかけにもなります。ビンラディン氏は、私たちにベトナム戦争に反対して立ち上がったように、今、アフガニスタン侵略戦争に反対してたたかわなければならないと呼びかけています。自衛隊を派兵した小泉政権を打倒するように呼びかけています。それが私たちの義務であると呼びかけています。

まったく、その通りだと思います。私たちには、血縁関係を切られ故郷を追われても民族の解放のために命をかけてたたかっているビンラディン氏とアルカイダが、アメリカ軍と自衛隊によって殺されることなど、がまんなりません。彼らといっしょにアメリカとたたかっているタリバンの兵士たちがこれ以上殺されることなど、たえられません。

また、一〇月七日のアメリカによる空爆の開始にたいして、難民でペシャワールの地元紙の記者は、次のように言っています。「米軍は食料の空中投下をしている。昼間に食事を与え、夜には爆撃で殺すわけだ。日本は同じことをやろうとしている。米軍の殺人を手伝いながら難民を助けても無意味だ」と。

この弾劾の声にたいして、私たちは、どのように答えなければならないのでしょうか。厳しい冬の寒さの中で食料もなく、凍死と餓死とたたかっているアフガニスタン人民の命を絶対に守らなければなりません。

アメリカ軍によるアフガニスタン人民の虐殺をただちにやめさせましょう。私たちは、アフガニスタンをはじめとするイスラム諸国人民の民族の誇りと権利を文句なく認めます。それを否定するすべての言辞や行動を絶対に認めません。とりわけ自分たちの政府がイスラム諸国人民を殺し、踏みにじることにたいしては、自分自身の問題として体を張ってでもやめさせなければなりません。私たちには、その責任がある。私たち自身の責任で、出兵した自衛隊をただちに引き上げさせましょう。自衛隊を出兵させた小泉政権を打倒しましょう。


二 「いまアメリカとイギリスがアフガニスタンでおこなっている軍事行動は、本当に『自由と国際社会の正義を守るための戦争』なのか」



一〇月七日の空爆の開始いらい、アメリカ軍は最新鋭のありとあらゆる兵器を使ってアフガニスタン人民を虐殺しています。

クラスター爆弾(集束爆弾)は、長さ二メートルほどの爆弾が上空でふたつにわれて中からにぎりこぶしほどの大きさの小爆弾を数百個もまきちらし、人間の身体にふれて爆発させる兵器です。とびちったときに人体にふれずに地面に落ちた小爆弾は、地面では爆発せずふたたび人間がふれたときに爆発します。地雷をまきちらすようなものです。しかも、小爆弾の色や形はアメリカ軍が緊急援助物資と称して投下した食料パックとの見分けがつきません。実際に、食料とまちがえてひらおうとした人が何人も爆死しています。

「デージーカッター」とよばれている燃料気化爆弾は、重さが七トンもあり、核をのぞく通常兵器としては最大です。空中で爆発するや強烈な衝撃波とともに一瞬にして周囲五〇〇メートル四方を火の海にして酸素もうばい、生きるものすべてを殺しつくします。それを米軍は「爆発すると地獄になる。目的は人を殺すことだ」と平然といいはなって使っています。

バンカーバスター爆弾は、地中深くまでもぐって地下施設を破壊するだけでなく、大量の放射能をまきちらします。九一年の「湾岸戦争」のときに米軍が使った劣化ウラン弾がまきちらす放射能によって、イラクでは白血病が一〇倍になったと言われています。放射能は今後何十年もアフガニスタンの人々の命をむしばみつづけるのです。

このような残虐な兵器によって、ビンラディン氏とアルカイダ、タリバンの兵士たちが攻撃されています。さらにカブールなど都市の発電所や水道施設、ラジオ局、NGO事務所、ヘラートやカンダハルの病院、赤十字の食料倉庫、避難する住民を満載したトラック、ジャララバードの村、バザールなどが攻撃されています。アフガニスタンは、二〇年以上の侵略と内戦、三年続きの大干ばつと水枯れによって生活を破壊し尽くされ、何百万人という難民があふれています。この冬を越せずに飢えと寒さで一五〇万人が新たに死ぬだろうという予想もあります。そのことを百も承知で、アメリカ軍はアフガニスタン人民とその生活基盤を攻撃しているのです。

いったいこんなことが「正義」だとか「自由と平和を守る」だとか「テロ根絶」だとかいえば正当化されるのでしょうか。ブッシュ大統領が、どのような美辞麗句をならべたて、あるいは言い訳をしようが、現実にやっていることはアメリカ軍による民族抹殺、アフガニスタン人民の皆殺しではないでしょうか。このような戦争を侵略戦争と言うのです。

アメリカをはじめとする帝国主義各国の政府は、九・一一ゲリラとして爆発したイスラム諸国一三億人民の民族解放闘争の巨大なエネルギーに圧倒され、本当に自分たちが打倒されるかもしれないとふるえあがっています。その恐怖心が、最先頭でたたかっているビンラディン氏とアルカイダ、タリバンの兵士たちはもちろん、それを支えている一三億のイスラム諸国人民全体への憎悪となっているのです。だから何百万人のアフガニスタン人民を殺しても平気でいられるのです。

帝国主義による残虐きわまりない典型的な侵略戦争がおこなわれています。イスラム諸国人民の民族解放闘争が圧殺されようとしています。私たちは、こんな侵略戦争は、もはや一刻たりとも認められません。ただちにやめさせましょう!

三 「小泉政権が自衛隊を参戦させる真のねらいはどこにあるのか」

(1) 「日本をはじめヨーロッパ各国の政府は、なぜ先をきそって参戦・派兵しているのか」

昨年一一月二五日、日本政府・小泉政権は海上自衛隊の艦隊をインド洋へむけて出撃させました。千五百人の自衛隊員が、アメリカ軍といっしょになってアフガニスタンへの侵略戦争をするために派兵されたのです。かつて朝鮮や中国、アジア全域でおこなったのと同じように民族を抹殺するための派兵です。本当に許せません。

この侵略戦争には、日本だけでなく、ヨーロッパの各国政府も先をきそって派兵しています。一〇月七日の空爆開始から参戦しているイギリスは二万四千人を派兵しています。フランスは二千人、ドイツは三千九百人、イタリアは二千七百人です。ロシア政府もアメリカ軍に基地を提供するとともに、派兵しています。

これらの軍隊は、何よりも九・一一ゲリラとして爆発したイスラム諸国人民の民族解放闘争を圧殺するために、送り込まれています。とりわけ反米・反イスラエルの武装闘争を不屈にたたかうビンラディンとアルカイダを壊滅させ、その根拠地であるアフガニスタンからタリバンもろとも一掃するために派兵されています。大量殺人じたいが最大の目的です。こんな非人間的なことは絶対に認められません。

しかも各国政府は、大量殺人のために大量の兵器を使うことによって、それを生産している軍需産業や石油産業にぼろもうけさせています。アメリカ政府は、巡航ミサイル・トマホークを八〇〇基増産するために九億六千万ドルの予算案をだし、四〇〇億ドルの戦費、航空運輸業・航空機生産業への五〇〇億ドルの支援費をだします。これをうけて、空爆いらいほとんどの株価が下落するなかで、軍需産業の株だけが値上がりしています。私たちは、人を殺しつづけることによってもうけつづける「死の商人」とその番頭である政府を絶対に許しません。

さらに各国政府は、どの国がどれだけ多くのアフガニスタンの人々を殺し、制圧できるかをきそいあっています。侵略戦争につづくアフガニスタンの植民地支配において、どの国がどれだけ多く利権をとれるのかを争っています。具体的にはカスピ海周辺の石油・天然ガスの利権をめぐってあらそっています。強盗が手がらを競いあっているのと同じです。多く殺せば殺すほど、その国の発言力が大きくなる仕組みです。だから、各国の政府は先をきそってアフガニスタンへ派兵しているのです。今までは、帝国主義の強盗どもが、ひとまずはアフガニスタン人民を屈服させるという共通の目的のために、アフガニスタン人民が選択したタリバン政権をひっくりかえすための侵略戦争を共同してすすめてきた。そして帝国主義の強盗どもは、アフガニスタン人民のための政権、民族の自決を貫く政権ではなく、強盗どもの言いなりになる強盗どものための政府をデッチあげようとしています。これからは、アフガニスタン人民から奪い取った宝の分け前をめぐって強盗どもが仲間割れし、争い始めるでしょう。

この強盗の政府たちのあいだのあらそいを帝国主義間争闘戦といい、その戦争を帝国主義戦争といいます。正義はおろか、まったく人間性のかけらもない醜い戦争です。九一年の「湾岸戦争」のとき、日本帝国主義は自衛隊を派兵できませんでした。その結果、「湾岸戦争」後の帝国主義各国による中東支配と石油のうばいあいから完全にはじきとばされました。小泉政権は、そのまきかえしをかけて自衛隊の派兵を強行したのです。私たちは、この人でなしの強盗戦争を絶対に許してはなりません。

さらにこの戦場は、アフガニスタンだけにとどまりません。すでにアメリカ政府は、イラクやソマリア、フィリピンなどへの戦線拡大をにおわせています。世界中の資源をめぐって、むきだしのぶんどりあいへと拡大させるのがアメリカ政府のねらいです。世界最大の軍事力にものをいわせて、日本をはじめ他の帝国主義から利権をまきあげて独り占めしようとたくらんでいるのです。帝国主義各国も負けじと必死になって戦線拡大についていかざるをえません。こうして全世界を戦場とした第三次世界大戦がはじまろうとしています。

アフガニスタンの人々は、帝国主義の残忍な侵略戦争と植民地支配に反対して不屈にたたかいつづけています。イスラム諸国一三億の人民は、民族の解放をかけてたたかいつづけています。私たちは、なんとしても、このたたかいに合流していかなければなりません。そのためには、どのようにたたかわなければならないのでしょうか。その答えを、いっしょに考えていきたいと思います。

(2) 「この戦争によって、私たちの暮らしはどうなるのか」

小泉政権は「作る会」教科書の採択をあとおしし、靖国神社公式参拝を強行し、自衛隊派兵を既成事実化しています。戦争の放棄を明記した憲法を改悪しようとしています。一切の反戦運動が、「テロ根絶」のスローガンのもとで「非国民」だとして弾圧されようとしています。労働運動や部落解放運動も戦争協力のための運動にかえられようとしています。アフガニスタン人民にたいして自衛隊を派兵した小泉政権は、日本の労働者階級人民にたいしては警察・機動隊をさしむけて弾圧するのです。私たちの生活は、完全に戦時下にはいりました。

さらに出口の見えない長い不況が続いています。昨年一〇月の完全失業率は、ついに五・四パーセントになりました。九・一一ゲリラをも口実とした資本による攻勢が強められています。名だたる大資本がつぎつぎに大規模なリストラ・首切りを強行しています。資本が生き残るために、労働者階級と部落大衆への一切の犠牲の転嫁がゴリおしされています。

こういう時にこそ必要な社会保障制度が、小泉政権によって解体されようとしています。お年寄りから介護をうばい、生活を破壊し、人間としての尊厳をもふみにじる介護保険制度が昨年四月からはじまっています(詳しくは本誌前号「一〇月介護保険料の引き上げを阻止しよう!」を参照して下さい)。国民健康保険料が支払えない世帯が、昨年は二〇万世帯も増えて三九〇万世帯にもなっています。今までならば市町村の裁量で保険証をとりあげられなかったのに、一昨年四月に法律が改悪されて、一年以上滞納した世帯にたいして市町村が保険証の返還をもとめることが義務になりました。そのために、医者にかかったときに窓口で全額支払わなければならない「資格証明書」を交付された世帯が、一万五千世帯(一五パーセント)も増えて一一万一千世帯にもなっています。保険証をとりあげられなかったけれど、保険証の有効期限が二〜六カ月しかない「短期保険証」にされた世帯は、二九万四千世帯(七四パーセント)も増えて、六九万三千世帯にものぼっています。医者にかかることが、ますます「高嶺の花」になってきているのです。

そのうえ同和対策事業も三月で完全にうちきられようとしています。小泉政権が「構造改革」と称して「痛みをわかちあえ」といって実際にやっていることは、一方では労働者や部落民の団結を破壊し生活と権利をうばい、他方では大資本の利益のためにアフガニスタン侵略戦争をすることです。侵略戦争は労働者と部落民への攻撃を強めるためにも行われています。つまり、私たちの団結を守り生活と権利を守ることと、侵略戦争に反対することは二つにしてひとつのたたかいなのです。

だから私たちはあらゆる意味で侵略戦争に反対します。そして私たちとたたかうイスラム諸国人民の共通の敵である小泉政権を打倒するためにたたかいます。

四 「九・一一によって歴史は一変したと誰もが認めるが、その真実の意味は何であろうか」

帝国主義の強盗どもが第三次世界大戦をおこそうとしていることは先にみたとおりです。しかし、九・一一ゲリラによって変わったのは、それだけではありません。

(1) イスラム諸国人民による連日の反米デモ

九・一一ゲリラは、なによりもパレスチナをはじめとするイスラム諸国人民を鼓舞激励し、一三億人民の熱烈な歓迎と支持をうけています。そして、九・一一への「報復」とか「テロ根絶」とかいってはじめられたアフガニスタンへの侵略戦争にたいする猛烈な反米デモが連日たたかわれています。パレスチナでは、イスラエルによる自治区への軍事侵攻にたいして、インティファーダがたたきつけられています。たとえアルカイダとタリバンが壊滅させられたとしても、その屍をのりこえてイスラム諸国人民による反米・反イスラエルの武装闘争は不屈にたたかいつづけられると思います。

(2) 南朝鮮・韓国人民のたたかい

アフガニスタン侵略戦争反対の決起は、イスラム諸国だけのことではありません。日本のおとなり南朝鮮・韓国では、はやくも九月一七日には民主労総が『テロ反対乗り越え戦争反対の平和運動へ!』と題する声明を発表しています。そこには「米国民の悲しみと怒りを戦争へと駆り立てようとするブッシュ行政府」にたいする怒りとともに、アメリカと全世界の労働者階級への呼びかけが発せられています。

「『対米テロ』に込められた米国に対する憎悪心を正確に見て取り、これを正しく解決する方法を探らなければならない……略……今回のテロは米国が犯した犯罪に対する報復だった。米国が特に弱小民族にどれほど拭いきれない犯罪を犯し、今も犯しているか、被害者であるわが民族はよく知っている。この問題を正しく解決しなければ、強者の戦争と弱者のテロは果てしなく続くであろう。米国、少なくともブッシュ行政府はこの問題に背を向けるばかりか逆に罪状を重ね、さらに重ねようとしている」「米国民の死は、当然哀悼すべきである。けれども米国が殺した、さらに多くの無実の弱小民族の死には関心すら示さないとすれば、これは大問題である」と。

さらに米英による空爆開始の二日後の一〇月一〇日には、七六五団体が名前を連ねた『米国の報復戦争中断、韓国政府の戦争支援反対 韓半島平和のための反戦平和時局宣言』がだされています。この宣言は「全世界の良心的、進歩的な人士と団体の反戦平和の呼びかけが相次ぎ、テロの残骸が積もったニューヨークでさえ数万名の市民が戦争反対のデモに参加したが、米国はついにアフガン侵攻を強行した」と弾劾しています。と同時に「戦争支援を口実とする日本の軍事大国化に断固反対する」ことを呼びかけています。

「日本政府は、歴史教科書歪曲や総理の神社(靖国神社、筆者注)参拝などにより軍国主義の亡霊をよみがえらせ、今では米国の戦争を支援すると称して自衛隊の海外派兵を推進するなど、軍事大国化に拍車をかけている。日本のこうした動きが、東北アジアでの覇権を維持しようとする米国の戦略に{煽あお}られたものであることは言うまでもない。」「われわれは日本のこうした動きをアジアと韓半島平和に対する深刻な脅威とみなす。韓国政府は当然戦争支援方針を撤回し、日本の自衛隊派兵と軍事大国化に対して明白な反対の立場を明らかにしなければならない。われわれは、日本の軍国主義復活と軍事大国化を阻止するために、韓国と日本はもちろん平和を願うアジア民衆と連帯して闘っていく」と。

わたしたちは、この連帯の呼びかけに感謝し、自分たちの責任として日本政府の侵略戦争への参戦をただちに止めさせ、小泉政権を打倒するたたかいに立ち上がりましょう。

(3) アメリカ労働者のたたかい

さらにアメリカにおいても、労働組合活動家集団「レーバーノーツ」などに結集する労働者が中心となって、反戦運動がたたかわれています。「レーバーノーツ」は先に紹介した韓国の民主労総が発した九・一七声明の全文を、ただちに自分たちのホームページにのせて紹介しています。そして九・一一ゲリラを「アメリカへの世界の憎しみの大部分は、アメリカ企業の他国での振る舞い、および現体制を支えるためにアメリカ政府が用いる軍事力に基づいている」と受けとめて、たたかっています。一〇月二七日には、アメリカ全土の七五いじょうの都市で一斉にアフガニスタン侵略戦争反対と民族抑圧反対をうったえるデモがたたかわれました。

ヨーロッパの各国でも、万をこえる人々が、アメリカのアフガニスタン侵略戦争と自分たちの政府が軍隊を派兵することに反対してたたかっています。

(4) そして日本

日本も例外ではありません。米軍の出撃拠点になることを拒否する沖縄の島ぐるみの決起や軍事空港建設に反対する三里塚を先頭に、アフガニスタン侵略戦争反対がたたかわれています。昨年一一月一一日に首都・日比谷野音でひらかれた労働者集会には、私たちも参加してたたかいました。

このように、帝国主義が第三次世界大戦をおこそうとしていることにたいして、全世界で国際反戦闘争がはじまりました。侵略と植民地支配にたいして民族の解放をかけて帝国主義とたたかっている、イスラム諸国人民、朝鮮・中国ーアジア人民と連帯し合流していきましょう。アメリカやヨーロッパの労働者階級と団結して、戦争をしなければ生き残れない帝国主義を打倒しましょう。

五 「私たち部落民は、誰と手をつなぎ、誰とたたかわなければならないのか」

(1) 解同本部派や全解連は、なんといっているのか。

部落解放同盟中央本部(解同本部派)は、一〇月八日づけの『解放新聞(中央版)』に「米国での民間機ハイジャックによる無差別テロ行為に関する声明」を執行委員長の組坂繁之の署名でのせています。声明をだした日は、二〇〇一年九月二七日となっています。この声明は、九・一一を「厳しく非難」し「断じて許すことはできない」と断罪して「残虐なテロ行為の撲滅」を小泉政権にお願いしています。

しかし、これまでみてきたとおり九・一一反米ゲリラは、イスラム諸国人民の民族解放をかちとるために命がけでたたかわれた正義の戦闘です。それをアメリカをはじめ日本やヨーロッパ諸国の政府といっしょになって「非難」するとは何ごとでしょう。「断じて許すことはできない」のは、植民地支配と民族抑圧をつづけ侵略戦争をくりかえしている帝国主義であり、それと同じ立場であることを声明した本部派の方です。

さらに、この声明は部落大衆に向かって何かを訴えるのではなく、日本政府・小泉政権に向かって「テロ撲滅」をお願いしています。本部派は、帝国主義打倒のために、植民地と本国という違いはあるけれども、ともにたたかわなければならないイスラム諸国人民をうらぎり、敵・帝国主義に売り渡したのです。もっとも恥ずべき、こういう行為を排外主義というのです。

本部派は自分の命ごいのためなら何でもすると小泉に忠誠をちかいました。そしてこれからも部落の仲間を敵に売り渡して生き延びようとしています。私たちが部落民の団結をとりもどして、差別とたたかっていくためにも本部派を打倒しなければなりません。このことをはっきりと確認したいと思います。

全解連は、九月二五日づけの『解放の道』に「同時多発テロの蛮行を糾弾し、武力報復ではなく法による解決を求める声明」を中央執行委員長の石岡克美の署名でのせています。声明をだした日は、二〇〇一年九月一七日となっています。部落差別を糾弾しない全解連が民族解放闘争を糾弾するというのです。八つ裂きにしてやらなければなりません。部落解放運動に敵対しつづけてきた全解連を本部派とともに打倒しましょう。

(2) 全国連の立場

いまや私たちの立場は鮮明です。アメリカのブッシュ大統領は「テロにつくのか、アメリカにつくのか」といいましたが、私たちはこういいかえすでしょう。「帝国主義をたおすのか、その延命に手をかすのか」と。

かつて水平社は、日本帝国主義が全面的な中国侵略戦争へと泥沼的にのめりこんでいくなかにあって、差別糾弾闘争をなげすてました。それにかわって、「天皇の赤子」として平等にあつかってもらえるようになれと部落大衆に説教をたれました。それは、日本帝国主義が延命するために侵略戦争の最前線で命を投げ出せということでした。その結果、部落民は「爆弾三勇士」となり、{来く}{民たみ}部落の「{満まん}{蒙もう}(ママ)開拓団」のようになって、犬死にさせられました。それは、朝鮮・中国ーアジア人民が命がけで日本帝国主義とたたかっていたのに、それを裏切った結果でもありました。

私たちは、二度と同じあやまちをくりかえしません。部落解放運動は、部落民の人間的解放を部落民自身の手によって実現する運動です。そのために部落民がともに手をつながなければならない仲間には、おおきくふたつあります。ひとつは、労働者階級です。階級的共同闘争をつよめていきましょう。そして、もうひとつは、被抑圧民族人民の民族解放闘争との連帯です。日本という帝国主義本国に住む私たちは、朝鮮・中国ーアジア人民やイスラム諸国人民などの被抑圧民族人民の民族解放のたたかいを学び、その人々の解放をかちとることを自分自身の課題としてたたかわなければなりません。世界中の労働者階級人民と団結し、被抑圧民族人民と連帯して、帝国主義を打倒しましょう。

その決意で、ともに国際反戦闘争をたたかいましょう。

(部落解放理論センター研究員 まつむら ひろし)

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