『熊谷事件をのりこえ、権力の差別犯罪を人民の手で裁こう』の再掲にあたって

(2009年06月30日)

 
足利事件の再審が決定し、狭山闘争にも楽観ムードが流されていますが、とんでもありません。東京高裁・門野裁判長は、来年2月の定年退職をまえに棄却を策動しており、狭山第3次再審闘争は、決戦の最中にあります。いまこそ警鐘をうちならし、「ただちに再審をおこなえ! さもなくば辞任せよ!」の緊急署名を武器に、狭山差別裁判糾弾闘争に社会の耳目を集めなければなりません。
今回の論文は、1999年2月に発行した『部落解放闘争』28号に「差別裁判官・高木を東京高裁からたたきだそう」という題名で掲載されたものです。この年の7月8日、高木裁判長は、狭山第2次再審を棄却しました。この高木の暴挙も、定年退職を前にしておこなわれたことを忘れてはなりません。

熊谷事件をのりこえ、権力の差別犯罪を人民の手で裁こう
馬場博公

はじめに
東京高裁・高木による石川さんの第二次再審請求にたいする棄却攻撃が、今日明日にもうちおろされようとしています。ただちに、強固な戦闘体制を構築し、棄却攻撃をうちくだかなければなりません。
全国連は、昨年末、寒風のふきすさぶなか、東京高裁前で「第二次再審棄却絶対阻止!」「差別裁判官高木打倒!」をうったえて、一週間のすわり込みと連日の要請行動をうちぬき、ひとまず九八年内の棄却を阻止しました。そして、年あけ、一月一一日、東京高裁にたいする要請行動をおこない、二月八日から三日間連続の要請行動を、約束させました。
しかし、高木の棄却策動は、いっそう強まっています。高木は、従来から「私のてで決定をくだす」「書面審理も事実調べのうちだ」「事実調べをしないと私が正しい決定ができないとでもおもっているのか」などと、棄却決定を強行する意志をひれきしてきました。第二次再審請求が提起されてから一二年間、ただの一つも証拠開示がおこなわれていない狭山差別裁判で、高木がくだす決定とは、棄却決定しかかんがえられません。しかも、東京高裁の刑事部の裁判官の任期は、通例五年をこえることがないといわれており、今年三月までに、高木によって決定がくだされる可能性はいよいよたかまっているのです。「本審のあとに再審なし」という石川さんの決意がふみにじられるようなことは、絶対にあってはなりません。
こうした重大情勢のなかで、わが部落解放理論センターでは、熊谷事件についての共同研究をおこなってきました。熊谷事件は、狭山事件にかかわった五十嵐勝爾、長谷部梅吉、清水利一らがひきおこした権力犯罪です。熊谷事件と狭山事件における権力の差別犯罪の手口がきわめて類似したものであることについては、すでに本田豊、佐木隆三両氏がとりあげて論じています(注)。
この両氏の著述の提起を踏まえ、検討してきました。石川さんのたたかいが、権力の差別犯罪をストレートに糾弾する、ついに部落解放闘争が到達した、画期的な地平であるといって過言でない、偉大なたたかいであることを確認することができました。そして、あらためて全国連が第二回大会で確立した部落差別の本質論と「差別糾弾闘争のたたかい方」の決定的な正しさとその勝利性、画期的意義をしっかりと確認したのです。
労働者階級の階級意識を解体し、人民を分断支配するために、しつようにしかけられている部落差別を撤廃させるたたかいは、ひとり部落大衆の課題であるにとどまりません。それは、歴史をぬりかえ、人間の解放を願うすべての人民の共通の課題です。とりわけ、今日、日米新安保ガイドラインとその関連法案をもって、朝鮮侵略戦争に参戦しようとしている政府、日本の資本家どもが、労働者人民を戦場にかりたてるために、石川さんの第二次再審を棄却し、戦後部落解放闘争のきりひらいた地平をねこそぎにし、あの一五年戦争当時のように、洪水のように部落差別をしかけようとしている現実を、なんとしてもうちくだかなければならないのです。
戦争国家化を許すか否か、いのちがけのたたかいが不可避となっているとき、石川さんの第二次再審請求を貫徹し、あたらしい局面をきりひらくことができるかどうかは、部落解放闘争があたらしい地平にたつための試金石だといっても過言ではないのです。
この重大な局面にたった狭山第二次再審闘争を、階級的共同闘争の力で、絶対に勝利させなければなりません。部落大衆を先頭に巨万の労働者人民の隊列で、東京高裁を包囲糾弾して、東京高裁・高木体制を打倒しましょう。

第一章 熊谷事件とは、どのような事件だったのか
1 熊谷事件の概略
熊谷事件は、石川一雄さんが善枝ちゃん殺しの犯人としてデッチあげ逮捕された一九六三年五月二三日からおよそ八年前に、同じ埼玉県の熊谷市でおきました。それは、警察が、部落の青年を殺人犯としてデッチあげ逮捕、起訴し、裁判の途中で、被害者ののっていた自転車が発見され、真犯人が逮捕されて、権力の差別犯罪が満天下にあきらかとなった事件でした。しかも、権力は、みずからの犯罪が隠しようもなくあきらかになるや、「公訴取り消し」なる処分をおこなうことで、権力犯罪をなかったことにしたのです。権力の動きを軸に熊谷事件の概要を、かいつまんで確認しておきます。

熊谷事件は、一九五五年七月三日、埼玉県大里郡江南村の松林のなかで、若い女性の死体が発見されたことからはじまりました。死体解剖の結果、死亡推定時刻は六月二七日頃とされ、ただちに山狩りと同時に多数の部落青年にたいする見込み捜査がおこなわれています。死体解剖をしたのは、あの狭山事件の五十嵐勝爾でした。五十嵐の解剖所見は、露出していた右足首が無くなっていたのを、唐グワによってきりとられたものだなどと断定したデタラメなものでした。後に真犯人が逮捕され、供述したなかでも、そのような事実はまったくありませんでした。
善枝ちゃんの死体解剖をおこなったのも、五十嵐ですが、善枝ちゃんが扼殺だったという五十嵐の解剖所見を、最近検察側は、絞殺の跡が歴然としているという弁護側の指摘においつめられ、間違いだったと再鑑定書を提出しています。
警察は、東村山市在住の鳶職の青年を、犯人にしたてあげようとしつように追及しました。しかし、有力な遺留品もなく、有力な証言もえられず、被害者の足取りのてがかりさえなく、鳶職の青年のアリバイも成立し、八月一二日ころには、捜査は完全にいきづまった状態になりました。
そのため、九月二七日、関東管区警察局刑事課長、県警本部刑事部長が現地を訪問して、死体現場など視察したのち、捜査本部で“検討会”をおこない、部落青年Tさんを、犯人にデッチあげることをきめたのです(Tさんにたいする逮捕状が九月三○日に請求されています)。
Tさんは、一年まえに五〇円のパン代を「アトではらう」といってはらいわすれた件を、「寸借詐欺」なる罪名の犯人にしたてあげられ、一〇月二日に逮捕されたのです。しかも、こんな理由で逮捕することが許されないことを自覚している警察は、「イモやクリを盗んだ余罪が三〇数件もある」などと、付近の住民やマスコミにいいたてました。
Tさんは、逮捕されたその日から、警察で、殺人事件の犯人として、拷問をくわえられ、「自白」を強要されました。警察にTさんを留置するや、「柔道の受け身をおしえてやる」などといって、武道場にTさんを連れていき、柔道のあらわざをかけつづけ、暴力で権力がつくりあげた犯行のストーリーを、Tさんの口でのべさせようとしたのです(長谷部が石川さんにやった手口が、熊谷事件では、だれも否定できないかたちで暴露されました)。
警察は、「三日になってTさんが殺人事件の犯行の一部を自供した」と発表して、四日、五日には、警察のつくりあげたストーリーで被害者の自転車を捨てたとしている場所の、「ひきまわし捜査」をおこなっています。もちろん、自転車などでてくるはずはありません。にもかかわらず、六日、朝刊各紙は、いっせいに「犯人逮捕」と報道し、差別的キャンペーンのボルテージをたかめたのです。
警察は、Tさんに殺人事件をおかす動機がみあたらず、Tさんの引き回し捜査をやっても被害者が乗っていた自転車や手にしていたハンドバッグなど、決定的な物証が出ておらず、捜査本部のえがいた「犯行」のシナリオには、あまりにムリがあるため、「T青年をそそのかして、自転車を盗ませようとした」というストーリーをたてて、三人共犯説をデッチあげようとさえしました(善枝ちゃん殺し事件でも、石川さんを逮捕した直後、三人共犯説をデッチあげようとしています)。「共犯」とされたのは、二人の新聞の拡販員でした。ゆるしがたいことに、そのうちの一人もまた部落の青年です。しかし、この二人の新聞拡販員には、アリバイがあることが明白となり、いよいよ捜査本部はおいつめられてしまったのです。
Tさんの詐欺容疑での拘置期限がきれる一〇月二二日、警察は、Tさんの家から押収した「唐グワ」が凶器だとして、Tさんを強姦殺人・死体遺棄容疑で再逮捕したのです。父親を何度も警察によびだし、「事情聴取」と称して、たえがたい重圧をくわえ、父親が「当日の夜、Tが唐グワをもって帰ってきた」と、記憶ちがいの答をしたのをとらえ(このことについて、Tさんの兄は裁判のなかで、「おやじはおっちょこちょいだから」と証言しています)、Tさんには、「お前の父親が、お前が犯人だといっている」とうそをつき、Tさんを絶望のふちにたたせ、ついに、Tさんに、ニセの「自白」をさせ、録音テープを工作したのです。しかし、マスコミは、「公判維持がむずかしいのではないか」と報道しており、警察権力は、マスコミにむかって公然と、「拘置期間を延長し、その間に有力な物証をさがしだす」などといっていたのです。
Tさんの強姦殺人・死体遺棄容疑の拘置期限のきれる一一月一三日、浦和地方検察庁熊谷支部の猪狩検事は、Tさんを、「婦女暴行致死」「死体遺棄」で起訴しました。検事が、起訴にあたって、犯行にむすびつく有力な物証として提出したのは、れいの「唐グワ」だけでした(のちになって、この唐グワは事件となんの関係もないものだったことがあきらかとなっています)。一二月には、第一回公判が開始されました。公判のたびに、傍聴席の最前列に五人の警察官がじんどり、Tさんが「自白」をくつがえさないよう脅迫しつづけたのです。
Tさんは、接見のたびに、弁護士に無実をうったえていたにもかかわらず、公判廷ではじっとしたをむき、検事の有罪立証に、抗議の意志をあらわそうとしませんでした。このことについて、のちになってTさんは、「警官のいうとおり答えると、よろこんでくれた」と、かたっています。
翌年五月一五日、Tさんの公判が終了したのち、弁護士に、真犯人にかんする情報をもたらした人物がありました。弁護士は、捜査令状を地裁に要求し、五六年一〇月二日、真犯人宅を捜査して、殺された女性が乗っていた自転車を発見したことによって、真犯人が逮捕されました。この真犯人はのちの公判廷で、自宅から押収された「唐グワ」が凶器だったことをみとめました。じつにゆるしがたいのは、弁護士が、真犯人についての情報を検事につたえ、捜査を依頼した時に、検事は「責任をもって捜査します」などと答えながら捜査しようともせず、たびたび弁護士が、捜査をさいそくしても、いっこうに捜査しようとしなかったのです。
真犯人の第一回公判が、一九五六年一二月一四日にひらかれました。これにさきだって、検察権力は、一〇月冒頭に、事件当時の浦和地方検事局の最高責任者・井上検事正を、定年をまたずに退官させました。そして、一一月一三日には、Tさんにたいして「公訴取り消し」という、すでにのべたような処分をおこない、「権力の差別犯罪はなかった」ことにしたのです。この不当な「公訴取り消し」処分をおこなうことによって、「無実・差別」をみとめることを拒否したばかりか、Tさんが無実をもとめてあらそうことを、困難にしたのです(刑事訴訟法では、検事にしか公訴権をみとめていません)。
裁判所は、この熊谷事件の、全経過にふかくかかわってきました。Tさんに、「寸借詐欺」なる逮捕状を発行し、確たる証拠がないにもかかわらず、検察の公訴を受理し、真犯人の自宅の捜査を、弁護士にみとめておきながら、検事の不当な公訴取り消しなる処分をみとめたのです。裁判の形式をとれば、無罪判決しかありえないという局面に立たされた検察が、一方的に裁判をうちきり、裁判はなかったことにするという卑劣なやりくちを、裁判所がみとめたのです。
これまで述べてきたことによって明らかなように、熊谷事件は誰も否定することができない形でバクロされたデッチあげ事件です。Tさんを裁判にかけること(公訴)自体が許されないのです。しかも、裁判所は、法律では、「公訴の提起があった事件について、更に同一裁判所に公訴が提起されたとき」には、公訴棄却の判決を言い渡さなければならないと定められているにもかかわらず、検察とグルになって、権力犯罪をヤミからヤミに葬ったのです。部落民には、法にしたがった裁判さえ、保障しないというのです。裁判所は、警察と検察がおこなったTさんを犯人にデッチあげ法廷に立たせた事実、このすべてが、部落差別によって押し進められた事実について、法廷で争うことを許さないとしたのです。部落青年Tさんの無実を明らかにする必要がない、部落青年にたいするデッチあげは、犯罪ではないと裁判の名をもって宣言したのです。
さらにやつらは、この事件に関与した警察官らに、「栄転」ともいえる処遇をおこない、そいつらのおおくが、のちに、石川一雄さんを「殺人犯」にデッチあげた狭山事件の、直接の実行部隊となったのです。そして、真犯人に無期懲役の判決がいいわたされた、五七年一一月七日ののちに、約一五万円の刑事補償をTさんにしはらって、Tさんにたいする権力の差別犯罪のケリはついたとしたのです。
冗談ではありません。部落民にたいしては、権力はやりたい放題だといっているのです。警察・検察・裁判所・行政など権力機構がグルになって、さらにマスコミをも動員して、差別犯罪を居直り、これからも続けるというのです。

熊谷事件は、このように、差別のうえに差別をかさねてひきおこされた、ゆるすことのできない権力犯罪でした。にもかかわらず、権力機関は、いまにいたるも、ひとつとしてTさんにたいしておかした犯罪について、真相をあきらかにし、謝罪することもしていません。ようは、居直りつづけているのです。こんなことを絶対にゆるすことはできません。どんなに時間がたとうが、かならず、熊谷事件でおかした権力犯罪のケジメを、国家—権力機構にとらさせなければなりません。

2 狭山事件と共通する権力の手口
前述した権力の差別犯罪のなかで、基軸となっている重大な権力犯罪のやりくちを、いくつかにしぼって、確認しておきたいとおもいます。
ひとつは、権力が、無実の部落青年を「犯人」にデッチあげる手口、とりわけ、警察が創作した犯行のシナリオを、Tさんに「自供」させ、起訴にまでもっていった、過程についてです。Tさんの「自白」、なるものが、権力のつくりあげた殺人事件のシナリオを、Tさんに復唱させ、それを警官が、かたちをととのえた「供述調書」に、まとめあげたシロモノにすぎないことは、だれも否定しえないかたちであきらかになっています。問題は、警察がどのような手口をつかって、Tさんに、やってもいない殺人事件の経過を、自分の犯行として陳述させたか、というところにあります。
まず、熊谷事件においては、Tさんにたいする肉体的な拷問が、はげしく、くり返しおこなわれているのです。取調べにあたった刑事たちは、「柔道の受身をおしえてやる」といって、刑事たちに都合のいい返事をするまで、Tさんをなげ飛ばし、痛めつけたのでした。埼玉弁護士会は、Tさんの取調べにあたった四警官を、浦和地検に、「特別公務員暴行陵虐罪」で告発したさいに、以下の四点を具体的にあげています。㈰熊谷署二階取調室において暴行、殺害の事実を否認したTさんにたいして、Tさんの顔や頭などをゲンコツで乱打し自白を強要した。㈪被害者が乗っていた自転車、もっていた弁当箱について、Tさんのまったく知らない事実を追及し、和田川にすてたと供述しなければならないようにおいこんだ。さらに、和田川からはなにもでてこないと知るや、Tさんの足腰がたたなくなるほど殴打、暴力のかぎりをつくした。㈫そして、なんの関係もないFさんに自転車をくれてやったという、ニセの自白をさせ、事実無根の調書まで作成させた。㈬また、Tさんを畳のうえにねかせて、脚のふくらはぎのうえに警官が交代でのり、はげしい苦痛をあたえた。そうしたうえで事件成立のために必要な自白を強要した(当時の新聞報道)、と。
警察・検察は、「自白を本人がすすんでおこなった」ことの証拠として、裁判所に「自白」の録音テープを提出しました(刑事の質問に、Tさんがスラスラとうけこたえしているように聞こえるものでした。しかし、公判ではぎゃくに、このテープが工作されたものである、という疑念がもたれたのです)。これについて、Tさんは、「警察でギュウギュウしめられ、どのようにいったらよいかわからないので、警察官のいうままにしゃべってしまった」「スラスラといえるまで何回もくり返しいわされた」と、接見のおり、弁護士にうったえています。
このようなTさんの「自白」は、警察がTさんの父親に重圧をくわえつづけ、事実とちがう「当日夜、Tが唐グワをもってかえってきた」という発言をひきだし、しかもそれを、Tさんには「父親が、お前が犯人だといっている」などとつたえ、Tさんを決定的においつめることで、権力がてにいれたものだったのです。
狭山事件では、のちにくわしく述べることになりますが、就寝中の石川さんをおそって逮捕したことからはじまって、あの川越分室での取調べなど、Tさんにくわえられた肉体的拷問以上に、石川さんに、「権力の巨大さ」をつきつけながら、「お前が否認するなら兄貴を逮捕するぞ」と脅迫し、石川さんに権力がかいた犯行のシナリオを「自白」としてみとめさせたのです。
第二には、警察が、証拠物件なるものを偽造してでも、差別犯罪をおしつらぬこうとしたことを、銘記しなければなりません。さきに若干ふれた唐グワは、このような権力のやりくちを、あますところなく暴露しています。当時警察は、マスコミに「唐グワに血痕があった」「くわしく調べる」などとキャンペーンさせ、その結果が、「微量のため、鑑別不能だった」にもかかわらず、これを唯一の有力な物証として、Tさんを起訴するにいたっているのです。
そればかりではありません、現場におちていた指輪を、Tさんが盗ろうとしたが、ズボンのポケットにあながあいていたので落としたものだ、というストーリーさええがきだして、証拠だと、いいはったのです。「公訴取り消し」が決定したあとになって、担当した捜査員の一人が、弁護士に「指輪は男物であり、被害者のものとはおもえなかった」と真犯人のものであったことが、当初からあきらかとなっていた事実さえ、暴露されています。
狭山事件でも、あの三大物証をはじめとして、石川さんを犯人にしたてあげるために、つぎつぎと、権力がつくりあげた「犯行のシナリオ」にあわせて、証拠物件をつくりあげています。権力が、自分でデッチあげたシナリオに都合のいい「物証」をそろえていくのですから、権力犯罪はいつも、「自白」と「客観的事実」の矛盾をはらんでいます。いわゆるエン罪事件は、「自白」と「証拠」(客観的事実)のくいちがいから、権力犯罪があばきだされるのが、常なのです。
しかし、解同本部派が、狭山事件で主張してきた「自白と客観的事実の矛盾を追及する」というたたかい方は、敵の土俵のうえでの「たたかい」でしかなく、このようなたたかい方だけでは、不充分なのです。石川さんが、控訴審最終意見陳述でうったえている(八五ページに引用した)ように、権力がえがきあげたシナリオを、「自白調書」なるものにしたてあげていく過程、そのものが、権力犯罪なのであり、この権力犯罪を、全面的にあばき、断罪することこそが、差別糾弾闘争の基軸でなければならないのです。
第三には、国家権力は、「社会的正義を守る」などといって、司法制度などを整備していますが、ヤツらにとって、真理などはどうでもいいのだ、ということを、熊谷事件は、まぎれもないかたちであきらかにしました。権力にとっては、「一件落着」という結論だけが、必要なのです。そのために、今日でも、権力が部落差別をつかい、差別をあおりたててつつ部落民、とりわけ部落青年を、イケニエにしつづけているのです。
捜査本部は、Tさんを起訴する一〇日もまえに、真犯人にかんする情報をえていたことがあきらかになっています。そして、この情報の提供者に、捜査員は、「Tが真犯人だ、騒ぐな」、といって脅迫さえおこなったのです。さらに、この情報をききこんできた交番の巡査が、真犯人が犯行につかったトラックを、いそいで処分したというウラまでとってきていたにもかかわらず、この巡査にたいしても、「Tが真犯人だ」と、とりあわなかったという事実も判明しています。
国家権力は、監獄をはじめ、バケモノともいえるほどの巨大な物質力をもつことで、社会から超然とした存在であるかのような、みせかけをつくりだしています。しかし、熊谷事件や狭山事件があきらかにしていることは、ヤツらが、いつでも支配の危機におびえ、ますます巨大な物質力であることを、誇示しなければ、枕をたかくしておれない存在でしかない、ということです。階級支配の安定を維持する、治安を維持するためには、いっこくも早く、「一件落着」という結果をだすこと、そのためには、いつも部落差別を利用し、そればかりか、差別を扇動しながらデッチあげをくり返そうとするのです。
それは同時に、資本が、職場における労働者支配の重要なテコとして利用してきた部落差別を、容認し、担保するためにも、権力による差別犯罪が、フシブシでくり返される必要があったことをしめしています。支配の危機を権力の部落差別によってのりきることが、同時に、資本による部落差別におスミつきをあたえ、その条件を、確固たるものにしているのです。
今の権力をたおさないかぎり、この社会のしくみをかえないかぎり、ますます部落差別が、国家権力のてによって激化させられることは、まちがいありません。この国のあり方、国家権力・権力機構そのものを、まっこうから問題にし、変革をもとめ、実際に変革する以外に、部落差別を撤廃することはできないのです。熊谷事件や狭山事件は、このことを、議論のよちなく、わたくしたちにおしえています。善枝ちゃん殺し事件の有力容疑者と、マスコミがほうじた、奥富玄二の自殺をしらされた、当時の篠田国家公安委員長は、その事実になんの関心もしめさず、「生きたまま犯人をフン捕まえる」と公言し、石川さんの逮捕を強行しました。狭山差別裁判へのとりくみが大衆的にはじまった時点で、石川さんをなにがなんでも善枝ちゃん殺しの犯人にしたてあげようとする、権力の邪悪な意図をあばこうとした本田、佐木両氏の提起は、きわめて重要なものでした。しかし、裁判所をはじめ権力は、これらの提起を無視し、狭山差別裁判を今日までおしつらぬいています。石川さんの決起以降、狭山差別裁判のなかで、権力が主張していることは、寺尾判決にしめされているように、「部落差別糾弾などというな」と、権力の差別犯罪を糾弾する石川さんのたたかいを、抹殺しようとするものにほかなりません。
第四には、熊谷事件は、権力犯罪だったにもかかわらず、警察—検察をはじめ、権力は、その事実をみとめず、居直り、差別犯罪をひきおこす体制を温存し、熊谷事件をいわば教訓化して、狭山事件をひきおこしました。この点について次章で、あらためて論じます。

第二章 総力をあげて部落差別の温存をはかる権力
1 国家権力こそ部落差別の元凶

満天下に、熊谷事件が、権力犯罪であることがあきらかになるや、国家権力は、「Tさんを逮捕起訴し、裁判を続けてきた事件はなかった」ことにする、という、とんでもない策動を強行しました。すなわち、検事は、Tさんにたいする公訴を、とりさげるというでたらめな「処分」を、裁判所にもうしたて、それを、裁判所がみとめたのです。
これまで、こうした人民のたたかいにおいつめられた権力の居直りは、司法用語では、「黙示」的に、権力がみずからの非をみとめた結果だ、などといういい方で、肯定的にあつかわれてきました。じょうだんではありません。Tさんの無実、Tさんにたいする権力犯罪はあまりにもあきらかです。そのあきらかになっている事実を、みとめようとしない裁判とは、なんなのか。検察の、完全な居直りを承認し、Tさんにたいする部落差別、人権侵害を、問題にすることさえ封殺する裁判など、絶対にみとめることはできません。
権力の、「公訴取り下げ」という、卑劣な手法にたいして、Tさんは「(エン罪で)ひっかけておいて、なにかあったらまたとらまえようというのかな、面白くない決定だ」と、いかりをあらわにしました。
熊谷事件では、埼玉弁護士会が、Tさんに暴行をはたらき、「自白」を強要した四名の警察官を、特別公務員陵虐罪に相当するとして、告発しています。告発された警官とは、県警本部捜査一課・清水利一警部(石川さんを逮捕した当時の取調べ主任)、熊谷署刑事係長・江利川正一警部、県警本部捜査一課・野本定雄警部補、同・八角正明巡査部長の四人でした。この四名の警官を、埼玉弁護士会が浦和地検に告発したのです。浦和地検は、「捜査したが該当する事実が無かった」と、この告発をとりあげませんでした。ドロボウの相棒に、相手をこらしめてくれと、頼まなければならないなどというデタラメが、法律の名のもとで、まかりとおっているのです。現在の制度のもとでは、これしか、法的に手段がないというのです。
埼玉の検察審議会は、検察のこの、「暴行の事実は認めがたい」という結論は不適当とし、せめて、「不起訴処分」にせよ(処罰するほどではないが、問題があったことはみとめよ)としたうえで、「被疑者の取調べに当たり官憲による暴力行使がおこなわれないよう一層配慮されたい」と、検察に勧告しています。権力犯罪を犯した連中、それも司法の名をもって、すべてがゆるされている連中にとって、ノミにさされるほどの刺激も、感じるはずもない「勧告」です。これが、権力の差別犯罪徹底糾弾というたたかいとして、熊谷事件をたたかうことができなかったなかで、せいいっぱいTさんの人権をまもろうとした、たたかいでした。
権力は、さらにゆるせないことに、この検察審議会の勧告をうけておこなわれた埼玉県の人事異動で、熊谷事件に関与した四名の警官をことごとく栄転させ、そいつらがのちに狭山事件を担当するにいたっているのです。
県警本部長は、「熊谷署二重逮捕事件の責任問題も慎重に考え、奥富署長には第一線から退いてもらった」とかたっていますが、熊谷署長奥富忠七(初代国警・熊谷署長)は、埼玉県警察学校長に転出したのです。さらに、清水利一の事例では、一九六〇年に大宮署捜査一課長、六二年には県警本部一課長補佐となり、六三年八月(狭山事件担当直後)には、警視に昇進して岩槻署長となっています。こういうやり方で、権力の中枢が差別者のそうくつになっているのです。

ところで、「公訴取り消し」という手口で、権力犯罪を居直るというやりくちは、あるいみでは、権力の伝統的手口であることを、あらためて確認しておかなければなりません。
一九五四年に、広島県福山市でおきた福山結婚差別事件は、当初の起訴状に、「(被告人らは)被告人方が俗にA部落と世人より蔑称せられ、一般社会との交際疎遠である所謂特殊部落内の一家であるとの観念のもとに、尋常の手段方法では到底同女との結婚は至難であると思念し……」という、差別公文書をもってなされた差別裁判です。この裁判においても、部落大衆のはげしい糾弾においつめられた権力が、「公訴取り消し」という手口で、「現代の高松差別裁判」は、なかったことにしています。
狭山闘争における石川一雄さんの決起は、いわば、この熊谷事件において、Tさんの無実があきらかになったにもかかわらず、「権力犯罪はなかった」とした国家権力のありようを、まっ正面から、「部落差別をゆるすな」「権力の差別犯罪を裁け」と徹底糾弾するたたかいにほかなりません。

2 熊谷事件を教訓化して、石川一雄さんに襲いかかった権力
狭山事件は、権力が、熊谷事件における権力犯罪の詰めの甘さを教訓化し、熊谷事件など比較にならない、規模と卑劣さを発揮して、しくんできた差別犯罪でした。
最近の各地における講演で、石川さんは、「裁判所で、わたしに権力がわたしを犯人だと主張する証拠としている地下足袋をはかせてみれば、ただちに、狭山事件が権力によってデッチあげられたものであることは、あきらかになる」と、強調されています。石川さんが強調しているように、警察が、あの逮捕の翌日、石川さんに兄・六造さんのはいていた地下足袋と、同じ大きさの地下足袋をはかせ、石膏の足型をとった過程に、権力の石川さんにたいする差別犯罪が、凝縮してしめされています。石川さんにたいして、熊谷事件のTさんを五〇円のパン代を口実に、寸借詐欺犯として別件逮捕したように、九件の容疑をかぶせて、別件逮捕し、善枝ちゃん殺しで取り調べる、そのでだしの時点で、石川さんに「権力は巨大であり、抵抗してもムダだ」と、観念させようと、権力はもてる力をふりしぼって、おそいかかったのです。
権力は、一九六三年五月二三日早朝、石川さん宅の玄関の戸を、じっさいに、ガラスがわれたほど乱暴にたたいて、お父さんに戸をあけさせ、石川さんのねこみをおそって、着の身着のままで逮捕し、自宅からわざわざ狭山署と方角のことなる藤沢署に連行し、そこに留置するかにみせかけて、狭山署につれていくなどという、手のこんだことをおこなったうえで、翌日には、佐野屋のわきの畑にあった足跡が、六造さんの地下足袋の文数と一致すると主張して、石川さんに、そのおおきさの地下足袋を無理にはかせ、一日がかりで、くり返しくり返し、一二個もの石膏の足型を採取したのです。
そのおおきさの地下足袋は、石川さんには小さすぎ、無理にはかされても、コハゼが三個もかからず、かかとの部分がつぶれてしまい、佐野屋のわきの畑にのこっていた地下足袋の足跡と、にてもにつかないものであることは、一見してあきらかなのです。権力は、このように、暴力的なやり方で採取した足型の石膏について、「なくなった」などというデタラメな口実をつかって、裁判所に提出していないのです。
権力は、石川さんに、「やろうと思えばなんでもできる」かのような、力をみせつけたうえで、とりわけ、権力が、六造さんを容疑者とにらんでいるように印象づけるという、卑劣な精神的重圧をくわえながら、自白を強要したのです。
石川さんは、「オレはやっていない」と、一ヶ月間にわたって、こうした攻撃をはねかえしてたたかいつづけました。六月一七日、勾留理由開示公判をまえに、熊谷事件と同様に、なにがなんでも石川さんを、犯人にデッチあげるための時間をかせぐために、石川さんを再逮捕し、狭山署川越分室につれ込み、そこで拷問的取調べをおこなったのです。川越分室というけれども、自治体警察時代には、れっきとした川越署だったものだったのです。改築するために、使用していなかった施設を、石川さんの取調べのためにだけ、特別に改装したのです。だだっぴろい、がらんとした建物のなかで、長谷部は、石川さんに、「お前を殺してうめても、わからない」と脅迫したのです。石川さんを、まったく世間から隔離して、権力のつくりあげたシナリオを復唱せよとせまったのです。
石川さんが、「自分には肉体的拷問はくわえられなかった。精神的な拷問だった」と断罪しているように、熊谷事件とはちがって、たしかに権力は、石川さんに肉体的な暴行ははたらかなかった、といわれています。そのかわり、徹頭徹尾「万能の力」をみせつけ、「抵抗してもムダ」とおもいこまそうと、ありとあらゆる詐言と脅迫をくり返し、とりわけ、長谷部が、「自供すれば、一〇年でだしてやる。男の約束だ」と、ついに石川さんのニセの「自白」を、権力が手にいれたことは、すでにおおくの資料で、あきらかにされています。
また、熊谷事件で、弁護士が、Tさんの「自供」に疑問を抱き、真犯人にかんする情報をえるや、裁判所をうごかして、真犯人逮捕にいたったことを教訓化し、石川さんと弁護士のあいだをさくために、実に卑劣な手をつかったのです。ニセ弁護士を石川さんのところに派遣し、「早く自供したほうがいい」などといわせて、弁護士にたいする不信感を、石川さんにうえつけようとしています。とりわけ、裁判では、自分の主張を裁判官がききいれてくれる、とおもい込んでいた石川さんが、勾留理由開示公判に、おおきな期待をいだいていたにもかかわらず、その直前に再逮捕して、「弁護士がウソをついたのだ」、とふき込み、決定的に、弁護士への不信感を、石川さんにいだかせたことは重大です。
さらに、当理論センターの西川研究員があきらかにした(当誌・二一号参照)ように、権力は、マスコミ工作をおこないながら、家族・友人・知人が石川さんに接近することを妨害し、徹底的に石川さんを孤立させようと腐心していたのです。
熊谷事件と狭山事件は、ともに権力の差別犯罪です。この事実を、石川さんに「自白」を強制した長谷部本人が、狭山差別裁判の控訴審第九回公判において、石川さんから、例の「男の約束」を追及され、それを否定するかたちで陳述しています。長谷部は、
    「私はそんなこと(男の約束)を言いません。石川が善枝ちゃん殺しの容疑で逮捕されたその当時の取調主任官が、石川を取調べておりますが、石川は自供しない、そこで私は、この事件は証拠も少ないし、面倒である。この事件の取調主任官は熊谷の二重犯人逮捕事件の責任者であったから、若しこの事件が裁判所へ行った場合、こういう取調官が調べたんだから無理があったんではなかろうかと思われてはいけないから、この際取調主任官をかえたらいいだろう。静岡県の二俣、幸浦事件が夫々、最高裁判所でくずれているので、上司にそのことを話して、結局取調主任官をかえてもらったわけです。そういうことを上司に上申した私が、石川に、一〇年ででられるとか、事実のことを言わなければどうのというようなことは言う筈がありませんし、言ったことはありません」と。
長谷部は、熊谷事件と、石川さんを善枝ちゃん殺しの犯人に仕立てあげた狭山事件が、権力犯罪だったことを全面的にみとめています。自分は、石川さんに、「男の約束はしていない」というウソをいいはるために、狭山事件の取調主任であった清水利一(熊谷事件でTさんを拷問し自白を強要した)を、取調べからはずすよう進言した、などという、石川さんの追及とは無縁な口実をのべたてて、ごまかそうとしているのです。何たる卑劣漢! しかも、清水が狭山事件の担当をはずされたのは、長谷部とはなんの関係もなかったことが、明白なのです。石川さんの二回目の勾留期限が切れる、六三年六月一三日、衆院法務委員会で、当時の解放同盟書記長・田中織之進氏が、本庄二重逮捕事件を引き起こした清水が石川さんの取調べに当たっていることを追及したのです。長谷部が、石川さんに「男の約束」をしたことは間違いありません。石川さんが、「やつらを死刑に」という時、「長谷部は許せない」とまっさきに断罪する根拠がここにあるのです。

3 再審をひらかせ、石川さんの無実・差別をあきらかにさせよう
権力は、殺人事件など、社会不安につながる事件が発生するたびに、部落への集中的見込み捜査や、部落青年への聞き込みをおおがかりにやって(おおがかりにやることで、マスコミをもつかった「部落=悪の巣」なる、ゆるしがたい差別キャンペーンの条件にしているのです)、部落青年を別件で逮捕し、拷問と詐言をもって警察のくみたてた事件のストーリーを「自供」させ、公判廷でも、ニセの「自白」を維持せよと脅迫しつづける、こうした手口で、くり返し無実の部落青年を「犯人」にしたてあげてきました(当誌・二六号、松村論文参照)。
権力による差別犯罪が、治安問題の「解決」というきわめて明確な、政治目的をもって、くり返し、うみだされているのです。石川さんを、善枝ちゃん殺しの犯人にしたてあげた狭山事件を、「エン罪事件」などと規定することは、決定的にあやまっています。「エン罪」であることは、いうまでもありません。しかし、その「エン罪」が、意図的・計画的に、くり返し、つくりだされているのです。しかも、部落差別をつかって、さらに、部落差別を温存し、強化するものとして。したがって、部落差別の根をたたなければ、やむことのない、「エン罪」事件であることは、あまりにもはっきりしています。「権力の部落差別を許すな!」「部落差別徹底糾弾!」のたたかいを、権力にたたきつける以外に、デッチあげの過程を、あばくことさえできません。
熊谷事件は、Tさんを犯人にデッチあげた警察・検察の犯罪が、満天下にあきらかになった事件です。にもかかわらず、先述したように、権力は、徹底的に居直り、「部落差別事件であり、Tさんは無実であった」ことさえも、みとめようとしなかったばかりか、「権力犯罪はなかった」ことにしたのです。
これまでも、部落青年をめぐる「エン罪」事件では、無実を証明する決定的な証拠や証言があきらかとなり、裁判のなかで警察—検察につきつけられ、「無実」があきらかになった事例がいくつかあります。しかし、そうした事例では、Tさんと同様、「権力犯罪は無かった」とされ、ときには、その決定的な証拠や証言をかちとるための努力が、脅迫だ、強要だと、ぎゃくに権力から告訴さえされてきました(典型的な事例としては、一九五七年におきた兵庫の徳本事件があります)。
こうした、権力のゆるしがたいしうちに、かんぜんと戦いをいどんだ事例も、当然あります。しかし、くるしい生活のなかで、さらに、長期にわたる裁判、ぼうだいな裁判費用をそそぎこんで、ますます、力を誇示し、居直る権力とたたかうことの困難から、涙をのんできた事例もあるのです(一九六八年の栃木県足利事件)。
狭山闘争=石川さんのたたかいは、これまで部落民がなめさせられてきた悔しさや怒りを、あえていえば、はじめて解き放つ、偉大なたたかいなのです。それは、石川さんが、獄中から「やつらを死刑に」と、権力の差別犯罪を徹底糾弾することをよびかけ、浦和地裁占拠闘争や高裁突入占拠闘争、裁判所包囲糾弾闘争を高く評価し、自ら部落解放闘争の戦士としてたたかう決意を、あきらかにしてきたことによって、あまたある、部落差別にもとづくエン罪事件とのたたかいの枠をこえた、国家権力との、非和解のたたかいにまで発展しているのです。
東京高裁の結審にあたっての、最終意見陳述(七四年九月二六日)で、石川さんは、以下のように、権力犯罪を断罪しました。
    「警察はおきた事件の解決という用務のために、一つの事実らしきものを、「創作」できる力をもっているということ、警察当局が、もっともらしい推量を立てて全く一方的な一人の「創り」だされた人間像を私の上にかぶせてしまったということであり、そしてその行動が法律をおかしているということであります。
     すこしの疑いがあれば逮捕状という法律の味方があり、さらには一方的に権力をふりまわす。そうされるものの利益や将来に全く関係なしに無差別にこれをふりまわすのである。そして、しかけられたワナにはまったものにおける精神的苦痛は、人間の言語をもっては表現しうるところではありません。
     私は別件逮捕され連日連夜の肉体的・精神的拷問を受けました。しかし、身におぼえのない善枝さん殺し事件だけは、絶対に認めませんでした。私の抵抗に手こずった当局は偽市長、偽弁護土まで派遣してきて認めさせようとしました。しかし私は、一月ちかくも無実をうったえつづけてきたことは記録上明らかでありましょう。
     私は再逮捕によって身柄を狭山署から川越分室に移され、ここで拷問に等しいせめ苦を受け、それまで一カ月にわたって真実をうったえてきましたが、遂に私の忍耐の限度が来権力に屈服してしまった(略)容疑者の身柄を逮捕する。外部との交渉をたつための接見禁止をおこなう。拘留につぐ拘留をする。その拘留は警察の提出する資料にもとづいて裁判官が許可を与えるというものであります(略)私が官憲に乗ぜられた真の要因は何であるのか。別件逮捕の容疑事実について六月十八日に裁判が開かれる旨、中田弁護人から連絡を受けておりました。私は裁判所で連日連夜、身に覚えのない中田善枝さん殺しで責められている不当な事実をありのまま訴えようと大いに期待していたのでありました。
    ところが再逮捕によって十八日の裁判が取消しになってしまったのでありました。しかし当時の私には法的手続きはもとより社会的にも無知であった故に、なぜなくなってしまったのか、わからず精神的不安がつのるばかりでした(略)狭山署当時、ニセ弁護士が来て中田善枝さん殺しを認めるように強い口調でなじられたことが念頭によみがえり、中田弁護士も同類ではないかと思い込んだ結果、その日をさかいに、中田先生たちとの間の相互信頼関係が急速に冷えていったのであります(略)しかも、十八日に裁判があるといったのにどうしてなくなってしまったのかと刑事に聞くと、そんなことは弁護士がいったことでわれわれは知らないといい、素知らぬ顔をしたのみならず、弁護士に対する不信感をより積極的にあおるものでありますから、当時の私として、ウソつきの弁護士と思い込むのはムリからぬことであろう(略)私がこうして肉体的精神的疲労困憊の極限に達し、不安におびえているところへ、タイミングよく関源三が出現したのであります。そして長谷部(警視)は弁護士は頼りがいのない人たちであるといって攻撃をかける一方、われわれ警察官はウソをつかないから信頼してもよいといい、さらに善枝さんを殺したといってしまエ、どっちみち別件だけでも十年ぐらいはでられないゾ。善枝さんを殺したといって認めるなら十年でだしてやる。男同士の約束をしようというのを耳にした私は長谷部警視はエラい人なんだナァと思うようになり、権力のいけにえになるともつゆ知らず泥沼に足をふみ入れていくようになったのであります」と。
石川さんは、権力のつくりあげたシナリオを、みずからの「犯行」であるかのように、自供させられるにいたった苦悩の過程を、あきらかにし、奪われた青春を返せ、とうったえました。
石川さんは無実です。国家権力は、無実の石川さんに、熊谷事件をこえる部落差別犯罪を集中することで、石川さんを犯人にしたてあげ、裁判でも石川さんの血叫びに耳をかそうともせず、とりわけ、確定判決とされている、寺尾判決では、「石川は嘘つきだ」などと断定して、裁判であらそうことさえ、不当であるかのようなことばをなげつけ、いまでも、石川さんを、善枝ちゃん殺しの犯人だとしつづけています。私たちは、こんな差別攻撃がつづいていることを、がまんできません。石川さんの再審を、一日も早くはじめさせなければなりません。
狭山差別裁判糾弾闘争を、だんことして、貫徹しなければならないのです。石川さんの無実・完全無罪を、明確に権力の口から、いわさなければなりません。石川さんを犯人にしたてあげた、権力の差別犯罪の一つひとつを、権力みずからにみとめさせ、謝罪させ、関与した責任者全員の処罰をかちとらなければならないのです。

第三章 階級的共同闘争の力で高木を打倒しよう
1 全国連だけが石川さんを守りぬくことができる

狭山差別裁判糾弾闘争は、一九六四年九月一〇日の控訴審冒頭の、石川さんの、「オレはやっていない」という血叫びからはじまりました。しかし、この石川さんの、「裁かれるべきは権力だ」「権力の差別犯罪を許すな」、という血叫びにこたえ、大衆的な糾弾闘争が、とりくまれるようになったのは、六九年一一月の、浦和地裁占拠闘争の決起からでした。全世界的規模でたたかわれた、ベトナム反戦闘争の一翼をになった、青年労働者と学生が、第九条にしめされる平和憲法をかかげながら、悪逆非道の、ベトナム侵略戦争の出撃基地を提供し、特需で、高度成長をささえている現実にたいする階級的自己批判の契機をつかみ、石川さんの血叫びに、むきあう力を獲得したからにほかなりません。狭山差別裁判糾弾闘争は、七〇年代前半、心ある全人民の共同のたたかいとして、おおきく発展しました。権力が、支配の危機からのがれようと、部落差別を利用し、さらに一層部落差別をあおりたてて、くり返してきた差別犯罪を、石川さんを守りぬき、石川さんとともにたたかうことで、うちやぶろうとするたたかいでした。
狭山差別糾弾闘争は、部落解放闘争が、ついに到達したたたかいといって過言ではありません。まっ正面から、非和解に、権力の差別犯罪を糾弾するたたかいなのです。石川さんは、東京拘置所で、権力のワナにはめられたことにきづき、文字をうばいかえしながら、部落解放闘争の歴史をまなび、みずからの人生をふり返ってみて、少年時代の列車転覆未遂事件の犯人にしたてあげられようとした経験をも、おもいだすなかで、部落差別とたたかう決意をかためたと、かたっています。
石川さんの決起は、解放同盟本部派の屈服と転向とは無縁なたたかいです。本部派は、部落解放という旗をおろし、「人権同盟」という名称への転換をおしすすめていますが、彼らは、九七年五月の中央理論委員会で、改正綱領の補足基本文書(案)において、なんと、「狭山差別糾弾闘争は、司法の民主化を迫るたたかいだった」と総括しています。そして今では、「国際世論も借り、証拠開示をかちとる」(本部派の九八年一〇・三一狭山中央総決起集会における高橋書記長の基調報告)などというのです。石川さんのたたかいは、こんな思想とは、あいいれないものです。たしかにこれまで、権力の差別犯罪を断罪するたたかいは、裁判所もグルになった、国家権力の総力を結集した力のまえに、せいぜい「黙示の形で部落差別を認め」たとして、泣きねいりさせられてきました。狭山差別裁判糾弾闘争における、石川さんのたたかいは、この現実をうちやぶろうとするたたかいなのです。石川さんにしかけられてきた権力の差別犯罪を、わがこととしてうけとめ、「差別糾弾闘争として狭山闘争を貫く」ことをみずからの立脚点にすえ、解同本部派の処分をけやぶって、全国勢力として旗をあげた、部落解放同盟全国連合会だけが、石川さんとともに、狭山差別裁判を最後までたたかいぬき、石川さんの無実・完全無罪をかならず実現することができます。
全国連は、狭山差別裁判糾弾闘争を組織の総力をあげてたたかいぬいてくるなかで、「差別糾弾闘争の最も重要で、基本的な対象領域である国家権力に対する糾弾闘争を欠落させた糾弾闘争などと言うものは、本来ありえない」という結論を鮮明にさせることができました(全国連第二回大会——パンフ『差別糾弾闘争のたたかい方』)。
「差別糾弾闘争は、部落民が人間として生きるためのギリギリの生存をめぐるたたかいであるばかりでなく、差別の根源である帝国主義そのものをうち倒すことをめざし、帝国主義の体制的な存立をささえる階級支配と『身分』的差別という支配秩序そのものの打倒、廃絶をめざすたたかいだ。だからこそ、帝国主義は体制の存立をかけて糾弾闘争の絶滅にのりだそうとする」と差別糾弾闘争が、国家権力をもっとも重要で、基本的な糾弾の対象とすることを、あきらかにしたのです。
とりわけ、部落差別の本質について、「部落差別は、封建時代の残りかすなどでは断じてなく、日本帝国主義の階級支配の一形態として階級支配を支え、補う役割をもつ『身分』的差別だ。いいかえれば、『身分』的差別という形態をとりながら、部落民、労働者階級人民に帝国主義の階級支配がつらぬかれていくということ」と喝破し、「差別糾弾闘争とは、部落差別の根源たる帝国主義そのもの、その実体たる国家権力の諸機構にたいするたたかいが基軸でなくてはならない」と規定しているのです。
このようにとらえきったからこそ、「帝国主義・国家権力こそが、階級支配と『身分』的差別を護持する暴力装置そのものであり、それが部落差別の実体的根源である」「ほかならぬ帝国主義・国家権力の諸機構によって維持・拡大、再生産されてきた」「国家権力みずからが、暴力をつかって糾弾闘争を力づくで封殺する一方で、国家の名において部落差別を煽動する、これが政府権力がやっていること」と現実をみすえることができたのです。

2 三月退任までに、再審棄却をねらっている高木を打倒せよ
東京高裁高木の、石川さんに対する、第二次再審棄却攻撃は、仮出獄をかちとり、精魂をかたむけた全国各地での、「真相報告会」ともいうべき講演会を実現している、石川さんにたいする第二の死刑判決であり、これまでのべてきたように、部落差別の根源である、帝国主義との非和解のたたかいに発展した、狭山闘争の息のねをとめ、戦後の部落解放闘争の到達地平を、全面的に転覆する大攻撃です。
高木の決定は、第二次再審請求の棄却いがいありえません。この現実を、まっ正面からみすえなければなりません。そして、いまこそ「高木裁判長は事実調べをおこなえ!」「事実調べをしない差別裁判官高木は今すぐやめろ!」「東京高裁高木体制打倒!」を、かかげて総決起しなければならないのです。いまここで、高木を打倒することだけが、石川さんの再審の門をおしひらくことができます。
解同本部派は、じつに、昨年秋の、一〇・三〇狭山中央集会の基調報告で、「高木の下での決定を期待する」という、とんでもない主張をのべたてています。絶対にゆるせません。高木は、石川さんの再審請求を、寺尾以上に悪辣な、「いろいろと疑問の余地はあったとしても、全ては石川本人の責任だ」といった、卑劣な言辞をつかって、棄却決定をくだそうとしていることはあきらかです。
なによりもまず、日本帝国主義・国家権力は、石川さんのたたかいに、恐怖と憎悪をつのらせているからです。警察、検察、裁判所をはじめ、権力機構が、総力をかたむけて、部落差別を支配のテコとして利用し、ますますつよめようとしている、この構造の全体を、石川さんは糾弾してやまないからです。
高木は、石川さんから第二次再審請求が提起されてから八年になって、「裁判」という形式をととのえようとすれば、再審開始しかありえないところにまでおいつめられた現実を、ひっくり返すために、東京高裁の第四刑事部におくり込まれた人物です。
第二に、高木は、東京高裁第四刑事部の裁判長として、狭山事件を担当して五年目にはいった今日まで、検察側が、「裁判所の判断にしたがう」といっているにもかかわらず、一つの証拠も開示せよと指示せず、一回の事実調べもおこなっていません。
高木は、解同本部派が、地対協路線に屈服したこと、差別糾弾闘争を投げすてることを宣言したことを評価して、石川さんを仮釈放することで、本部派を最後的に屈服させようとしたのです。しかし、高木や本部派の思惑はどうであれ、石川さんは、出獄にあたっても、国家権力にたいする徹底糾弾の意志を、明らかにしたのです。そのご高木は、全国各地を東奔西走して、真実をうったえている石川さんの「真相報告会」を、じっと注視して、最近では、弁護士と一緒に、石川さんとあう機会を設けて、解同本部派といったいとなって、石川さんの活動に制限をくわえようとしています。
第三に、石川さんをイケニエとして、人民分断支配の決定的なはしらとして、部落差別を今後もつづけるという国家意志をあからさまにしている、日本帝国主義の攻撃は、アジア再侵略への決定的な、次元をかくするふみ込みのたびに、狭山差別裁判の重大なエスカレートを、おこなってきました。そのいみで、狭山差別裁判のエスカレートが、労働運動、労働組合運動にたいする司法の反動化のエスカレートの時期と一致していることに、注目しなければなりません。
昨年五月二八日、東京地裁は、国鉄分割・民営化によって首をきられ、清算事業団におし込められた、一〇四七名の労働者の、JR採用をもとめた国労のうったえを却下するという、おそるべき反動判決をくだしました。あまりの国家的不当労働行為に、中央労働委員会でさえ、救済措置を命令せざるをえなかった、国鉄労働者の首切りを容認し、労働委員会制度そのものさえ否定した、デタラメな反動判決です。
石川さんが、一審で死刑判決をうちおろされた六四年の前年、六三年三月一五日、最高裁は、公共企業体の職員は、ストのとき刑事責任をとわれると、新判例をうちだしています。
また、あの寺尾判決の前後、公務員の政治活動を一律、広範に禁止し、違反行為に刑罰を科すとしている国家公務員法や人事院規則の規定が、憲法二一条(表現の自由)や同三一条(適正手続の保障)に違反しないか、をめぐってあらそわれていた「猿払(さるふつ)事件」など三事件(刑事)の上告審で、最高裁判所大法廷(村上朝一裁判長)は、一九七四年一一月六日、「公務員の政治的行為の禁止は、合理的で必要やむを得ない制限であって憲法二一条に違反しない。また、違反行為に刑罰を科すかどうかは原則として立法政策の問題であり、憲法三一条違反とはいえない」などとして、三事件の五被告に対し、無罪の原判決をいずれも破棄し、罰金の有罪判決を、それぞれ言い渡しています。
第四に、高木は、東京高裁第四刑事部の裁判長として、昨年五月、エン罪のうたがいがもたれている、「足利少女誘拐殺人事件」で、控訴棄却なる反動的な判決をくだしています。足利事件というのは、一九九〇年五月一二日、足利市の保育園児Mちゃんが、父親がパチンコに夢中になっているあいだに、なにものかに誘拐され、翌日パチンコ店のちかくをながれる、渡良瀬川河川敷で死体となって発見された事件です。幼稚園の園児送迎バスの運転手をしていた、S容疑者が、翌年に逮捕され、一審で無期懲役刑の判決をうけ控訴したのですが、東京高裁・高木は控訴棄却・原判決支持を決定、Sさんはただちに上告して、現在、最高裁であらそっています。「オレは無実だ。やつてない」と、うったえるSさんに、高木は耳もかさず、原判決支持・控訴棄却・無期懲役をいいわたしたのです。
Sさんの逮捕の決め手とされ、裁判において、唯一の証拠とされたのが、DNA鑑定の結果でした。現在のDNA鑑定は、血液型の鑑定と同様、「型の判定」であり、「違いをはっきりさせる事ができても、同一である事を証明する事はできない」のです。
高木は、弁護側の「今日的にDNA鑑定は、技術として確立されていない。データ・ベースも成立していないばかりでなく、出現頻度数の算定もズサンであり、決定的証拠ではない」、などという批判にたいして、判決のなかで、「それやこれやある」などというふざけきった言葉をつかって、門前払いして、「DNA鑑定に証拠能力を認めた原判断に誤りはない」「重要な積極証拠として評価できる」とし、自白については、「事情聴取当日に早くも行われ」「原審の審理後半以降、当審にいたる否認供述にもかかわらず、合理的疑いを容れる余地はない」として、Sさんのうったえをしりぞけています。
高木が、このような人格であることを、軽くかんがえることはできません。東大闘争をたたかった学生に、反動判決をうちおろした寺尾が、石川さんに、あの暗黒の差別判決をいいわたしました。そして、誤判を犯した井波が、狭山差別裁判の第二審の担当となるや、「任期中に決定を下す」と主張し、強権的な訴訟指揮をくり返し、裁判のうちきり=控訴棄却一歩手前までつっぱしった事実を、忘れることはできません。
高木によって、石川さんの第二次再審請求が棄却されようとしているたしかな証拠は、ざっとみただけでも以上の四点もあります。解同本部派のように、「高木に決定を下ろしてもらう」、などというかんがえは、なんの根拠もない、希望的観測であるばかりでなく、狭山闘争をたたかう陣形を武装解除し、解体の危機をもつくりだす、まちがったものです。
すでにのべてきたように、昨年末の、全国連のすわり込み闘争で、高木はグラグラになっています。いまこそ高木に、第二次再審請求以来一三年間、事実調べをおこなっていないことこそが、権力の部落差別にほかならないことを徹底的につきつけ、「事実調べを行え、さもなくば東京高裁第四刑事部の裁判長を辞任せよ」と、労働者人民の大衆的な実力でせまらなければなりません。七〇年代前半、東京高裁を包囲した狭山差別裁判糾弾闘争の隊列を上回る、巨大な隊列を登場させて、石川さんの第二次再審闘争の勝利を実現しようではありませんか。高木を、無為のうちに東京高裁からたたきだすことだけが、石川さんに再審の門をあけることができるばかりでなく、はじめて、まともな裁判をひらかせることにもつうじるのです。差別犯罪の一つひとつを、権力にみとめさせ、「謝罪と賠償」、「責任者処罰」、「二度と繰り返さない決意と具体的施策」をはっきりさせるたたかいに、つきすすんでいくことができます。

3 高木を打倒し、再審の門をおしひらこう
石川さんを守りぬき、トコトン権力の差別犯罪を全人民の力で糾弾しぬいて、勝利しなければなりません。
はじまった、「差別の洪水」ともいうべき事態のなかでの、危機感のいっさいを、狭山闘争の勝利のための力に転化して、たたかわなければならないのです。
権力が、支配の危機を感じとるたびに、部落の青年を「イケニエ」として危機をのりきろうとしてきた差別犯罪、そればかりか、そうすることによって、ますます人民分断をほしいままにしてきた歴史にたいする怒りを、いまこそ解きはなって、七〇年代をはるかにこえる狭山闘争の爆発的発展を、つくりだそうではありませんか。
狭山基軸の三大闘争をたたかう、全国連こそが、石川一雄さんの、「やつらを死刑に」というたたかいをともににない、最後まで、勝利にむかって責任をとりきることのできる勢力です。当面、高木の第二次再審棄却策動を絶対に阻止し、そうすることで、狭山闘争の歴史的勝利の突撃路をこじあけ、部落完全解放の圧倒的な展望を、きりひらくことのできる勢力であることは、あまりにも明白です。現実的に、「戦争によってしか生きのびることのできなくなった帝国主義を倒せ、死すべきは帝国主義だ」という、戦闘的な旗をかかげて決起を開始した労働者階級本隊とかたく結合して、強大な解放共闘の隊列をつくりだし、発展させて、たたかっていこうではありませんか。

おわりに
自自連立政権が成立し、一月一九日に再開された、通常国会の早い時期に、日米新安保ガイドライン関連法(周辺事態法)が、成立しかねない情勢が、一挙にたかまっています。昨年の全国大会で、全国連があきらかにした、「戦争と大失業、部落差別の激化の時代」という規定が、のっぴきならない現実として、目のまえで進行しています。
しかし、この現実をうみだしているのは、資本家どもと、その政府の危機にあるのです。たたかえば勝てるのです。たたかわなければこれまでの戦争の時代と同様、虫ケラのように殺されます。石川さんが、まったくといっていい孤立を強いられるなかで、文字をうばい返し、部落差別の本質をつかみ、たたかいにたちあがった苦闘に、いまこそまなび、石川さんのたたかいをわがものとして、たちあがらなければなりません。
日米新安保ガイドライン関連法(周辺事態法)の国会通過と、高木による狭山第二次再審棄却とは、メダルの裏表ともいえる攻撃にほかなりません。ともに階級決戦なのです。高木に、これっぽちも幻想をいだくことはできません。いや、幻想をいだくことは明白にあやまっています。今春過程を、言葉の真の意味で全身全霊をかたむけて決起しましょう。
    〈注〉佐木隆三氏は、『ドキュメント狭山事件』の中で、熊谷事件が弁護士のたぐいまれな努力によって、真犯人が逮捕され、権力犯罪があばきだされた経緯を、詳述して、T青年を犯人に仕立てあげた警察権力の手口が、石川さんを、善枝ちゃん殺しの犯人に仕立てあげようとした手口と、ウリ二つのものであることを明らかにしました。
     本田豊氏は、解放同盟が発行した、『狭山パンフ』に連載した「埼玉の部落史」のなかで、熊谷事件を取り上げ、警察権力の拷問の手口を詳細に暴き、裁判所が公訴取り消しという処分で、権力の差別犯罪を無かったことにしようとしたことに対し、埼玉県警の犯罪を「追撃」したことを、怒りを込めて強調し、狭山事件に関しても、権力犯罪を許さず、熊谷事件に通底する権力の差別犯罪を、徹底追撃することを呼び掛けています。
    (部落解放理論センター研究員 ばば ひろあき)
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