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(2009年05月31日)

 

『侵略戦争への突入と治安弾圧―寝屋川弾圧は何を示しているのか』の再掲にあたって

 2005年5月25日、大阪地裁でひらかれた寝屋川弾圧判決公判において、裁判長は「理不尽な会社のやり方にたいする4人の抗議は違法とは言えない」と、全国連寝屋川支部の4人がおこなった交渉の正当性を認め、滝口支部長、伊地知副支部長、木邨事務局長、島田青年部長の4人全員に無罪判決を言いわたしました。6月8日には、検察が控訴できず、全員無罪が最終的にきまりました。この勝利判決は、差別糾弾闘争を恐喝にデッチあげて抹殺しようとした国家権力の政治弾圧をうちくだく画期的な勝利でした。
 今回は、この寝屋川弾圧とは何であり、それにたいして全国連がどのようにたたかったのか、を紹介します。なお、この論文は、2004年3月に発行した『部落解放闘争』35号に掲載されたものです。

侵略戦争への突入と治安弾圧
 ~寝屋川弾圧は何を示しているのか~
         全国連弾圧対策部

はじめに
  昨年の5月22日の深夜から翌23日の未明にかけて、大阪府警は、部落解放同盟全国連合会・寝屋川支部の滝口支部長、伊地知副支部長、木邨事務局長、島田青年部長の4人を「恐喝」容疑で逮捕した。島田君は仕事帰りの路上で、木邨さんは自宅で、滝口さんと伊地知さんは、木邨、島田両氏の逮捕の知らせを聞いて、事情をつかむために寝屋川署に抗議に行ったところでの逮捕であった。この際、府警(公安3課)は、木邨さん宅玄関のドアを壊し、滝口さんにたいしては衣服をひきちぎるなどの暴行を加えた。
 さらに、5月27日、この4人の自宅にたいする家宅捜索が行われたが、このときに捜索にきた大阪府警(公安3課)の警察官は、抗議する支部員や住民にたいして体当たりしたり、突き飛ばすなどの暴行を加え、手錠をちらつかせて「おまえも逮捕するぞ」とか、「全国連をつぶしてやるからな」などとわめきちらした。団地3階からこの光景を見ていたおばあさんが、「おまえらそれでも警察か、やくざよりもたちが悪いな」と抗議したことにたいしても、「おまえもぱくったろか」と恫喝する有様だった。
 また、逮捕された4人は、12月25日に保釈が決まるまでの7ヶ月以上にわたって拘留され、さらに、この7ヶ月間にわたる接見禁止措置によって孤立を強いられた。滝口さんは67才、伊地知さんも67才の高齢である。警察は、この弾圧のなかで、まさに、寝屋川・国守の部落大衆と全国連にたいする憎悪をむき出しにして、無法の限りをつくしたのである。
 この寝屋川弾圧は、直接の当該である全国連の寝屋川支部と国守部落の住民にとって死活を制するような大事件であるばかりでなく、全国連全体にとって、いや部落解放運動と労働者階級のたたかいにとって、これからの行方を左右する重大な事件であると考える。現在、大阪地裁において裁判闘争がたたかわれているが、この弾圧をめぐるたたかいは、裁判においてのみ争われている訳ではない。このなかには、4人の被告の無実の証明はもちろんのこと、イラクへの自衛隊出兵という侵略戦争への突入下での国家権力による部落解放運動を壊滅せんとする大攻撃とのたたかいが、そして、この時代における全国連の組織建設の道筋がこめられているのである。われわれは、4人の被告、寝屋川・国守地区の部落大衆と固く団結し、この弾圧を木っ端みじんに打ち砕くために全力をあげなくてはならない。

(1)寝屋川弾圧とはなにか
①「恐喝」容疑は100%でっち上げだ!
 権力が4人の逮捕の口実とした「恐喝」容疑は、まったくのでっち上げである。寝屋川支部の4人は完全に無実である。まず、このことをはっきりとさせなくてはならない。警察の言う「恐喝」とは、島田君をはじめとする4人によって行われた、3月18日のメタルカラー(株式会社)との「交渉」をさすのだが、次に見るように、この「交渉」の目的、内容ともに100%の正義にもとづくものであり、「恐喝」なるものを構成する要素はどこにもないのである。
 島田洋司君は、2月28日、東大阪市内にある「メタルカラー」という印刷会社に就職した。しかし、仕事をはじめて4日めに、仕事中にケガをして腰を痛めてしまう。島田君は、就職して間もない時期であることから、最初はがまんして出勤し、勤務していたが、とうとう痛みががまんできなくなり、3月11日と12日の2日間、その趣旨を会社に連絡して休んだのである。ところが、これを理由にして、メタルカラーは島田君を解雇しようとしたのである。
 3月13日の夜、解雇の旨の通告のために島田君宅を訪れたメタルカラーの総務部長は、その際に、島田君から仕事中のケガが原因で休まざるをえなかったことを告げられ、労災手続きを要請された。ところが、これにたいして総務部長は、「第3者が見ていないから労災は認められない」などと言い逃れて、労災申請を拒否し、一方的に解雇の旨を主張したのである。労災期間中の解雇は、労働基準法(以下、労基法と略)に違反する、明白な違法であった。
 この、総務部長のいった、「第3者がみていないからできない」などということは、もちろん完全なウソである。これは、メタルカラーのなかに労働組合がないことや、島田君をはじめとする労働者が労基法などの法的知識が乏しいことを利用した許し難いペテンに他ならない。このペテン的なやり方は、総務部長をはじめとして、この会社が、いかに、労働者を使い捨てのぼろぞうきんのように扱ってきたのかを示している。
 実際に、裁判で明らかになったところによると、この総務部長は、職安にだす求人票には「常雇いの募集」と記載しておきながら、これを見て応募した労働者の採用の際には、「二ヶ月間は契約」という通告をしていたのである。採用された労働者は、島田君もそうだったが、この「二ヶ月間は契約」という説明を、通常の「試験採用期間」のことだと理解していた。これは、島田君らの理解のしかたが悪いのでは断じてない。島田君らは、職安の求人票にある「常雇い」を見て応募しているのであり、「試験採用期間」だと理解するのは、自然であり、当然でもある。問題は、職安をもペテンにかける会社のやり方にこそあるのだ。
 島田君は、仕事中のケガによって休養せざるをえないにもかかわらず、ウソを言って労災を認めようとしないこの会社のやり方に激しい不信感と怒りを感じて、直後に労基署に問い合わせた。そして、ケガから解雇にいたる経過を示して、「第3者が見ていないからできない」という総務部長の言い逃れは正しいのかどうか聞いた。その結果、労基署の担当者から、「そんなことはない。もう一度会社に行って、労災申請を出すように要請しなさい。それでも会社が拒否するようなら、会社の言っていることをメモにして持ってきてください」と言われて、3月18日に会社を訪れるのである。
 滝口さん、伊地知さん、木邨さんらは、島田君がメタルカラーに採用される前から、島田君といっしょに職安に行くなど、親身になって相談にのっていた。また、失業と職探しの困難さが、島田君だけの問題ではなく、国守部落全体の深刻な問題であることから、失業や不安定就労で悩む青年の懇談会を開催するなど、島田君とともに地域における就労要求の取り組みを行っていたのである。
 こうしたなかで、島田君の就職が決まったことは、島田君だけでなく、滝口さんたちにとっても、当然にも、わがことのようにうれしいことであった。ところが、この島田君が、苦心のすえにやっと就職したメタルカラーによって、まるでぼろぞうきんを捨てるように解雇されたということを聞かされたのである。島田君から、事情を聞き、3月18日に労災申請を出させるために会社に行くことを聞いて、「それならいっしょに行こう」というのは当然のことであった。3月18日の「交渉」とは、こうして行われたものである。しかし、これは、あらかじめ組織的に検討し、方針をねりあげて行われた全国連による交渉というようなものではなく、島田君と会社との話し合いの場に、3人が「後見人」として同席したという方がむしろより正確な形態の「交渉」であった。
 この「交渉」の結果、会社は、島田君の労災を認め、その場で労災申請書を作成し、労基署に提出した。会社側から「交渉」に臨んだ総務部長は、当初、かたくなに労災認定をこばんでいたが、「それなら、いっしょに労基署に行って話をしよう」という一言で労災申請を承諾した。また、解雇予告手当として1ヶ月分の給料に相当する金額を支払うことを約束した。会社は、本来、労災期間中は解雇できないにもかかわらず、島田君をはじめこの交渉に臨んだ人々が労基法などに精通していないことを利用して、一方では労災を認めながらも、他方ではあくまでも解雇を押し通そうとしたのである。しかし、島田君は、労災認定をしてほしいという一心で会社を訪問したこともあって、この結果に満足した。逆に、会社としては、解雇通告の撤回と雇用の継続へと話が進まなかったことに内心、ほくそえんだに違いない。いずれにせよ、双方の思惑の違いはあれ、この交渉はあとくされなく円満解決したのである。
 ところが、この交渉から1ヶ月いじょうもたってから、突然、大阪府警の公安3課が、この会社に乗り込み、交渉にあたった総務部長を恫喝し、「被害届」なるものをだすことを強要して、「恐喝」事件にでっち上げたのである。裁判で明らかになったところによると、この「被害届」は、警察官の作成した作文であり、総務部長はそれにサインだけさせられたものであった。まさに、全国連にたいする弾圧のための目的意識的なでっち上げであり、警察による事件の捏造である。

②断じて許せない警察による部落差別の扇動
 だが、これだけではない。このでっち上げのなかで、とくに注意を喚起すべきなのは、メタルカラーにたいして「被害届」をださせ、被害者にしたてるために、つまり白を黒と言いくるめるために、警察権力によって、部落解放運動にたいする、きわめて意識的な差別の扇動が行われたという驚くべき事実である。
 事実経過からも明らかなように、この事件における被害者は、メタルカラーではなく、島田君なのだ。島田君は、メタルカラーによって、労災にもかかわらず、何の保障もなく違法解雇され、まるで虫けらのように切り捨てられたのである。労基署への相談や、滝口さんたちの援助を受けて会社をただし、保障されるべき権利の一部を回復したに過ぎないのである。それゆえ、みずからの違法な労務管理の実態が社会的に暴かれたくないという理由からも、メタルカラーは、「被害届け」などだすつもりも、その理由もどこにもなかった。
 だが、警察は、こうした事実を百も知りながら、会社を「被害者」にすりかえるのである。このなかで、警察によって、会社幹部にたいしていったい、どのような説得が行われたのかが、起訴状や、会社幹部にたいする調書のなかにあらわされている。そこには、「部落解放同盟は、社会のダニだ、寄生虫だ」とか、「全国連は何をするかわからない連中」などと言う差別的偏見が会社幹部の主張として書かれている。会社幹部は、そういう主張を「週刊誌で読んだことがある」などと言っているが、これは、調書の作成のなかで警察から吹き込まれた部落解放運動にたいする差別的憎悪によるものだということは完全に明白である。つまり、「解放同盟は社会のダニだ、寄生虫だ」「こんな連中はつぶしてしまわなくてはならない」という、警察による執拗な差別扇動と説得によって、会社幹部の差別意識がそそのかされ、ふくらまされたということだ。
 それだけではない。この事件の起訴状は、一個の歴史的な差別文書である。こんなものは部落大衆の怒りの炎で徹底糾弾し、全面撤回させ、謝罪させなくてはならない。この起訴状では、全国連の名刺をだしたことが「恐喝」の構成要件だとされ、さらに、労災期間中の違法解雇にたいして、これを「差別ではないのか」とただしたことが「恐喝」の構成要件だとされているのである。まったく、冗談ではない。
 全国連の名刺をだしたことが「恐喝」の構成要件だということは、全国連という団体そのものが「恐喝団体」だということにされてしまう。全国連とは、その綱領、路線にも明記されているように、部落差別の撤廃をかちとるための、部落大衆による自主的な団結体である。いったい、これの、どこが「恐喝」に値するというのか。裁判のなかで、検察は、検察側証人の尋問に際して、遮蔽板の導入を裁判所に要請したが、ここでも検察は、「被告、傍聴者も全国連の同盟員だ、なにをするかわからない連中だ」という差別的主張をくりひろげた。この遮蔽板の導入は、検察がでっち上げの破綻にいかにびくついているのかを示すとともに、でっち上げの無理を、全国連と部落解放運動に対する差別的憎悪の扇動によって押し通そうとしていることを示しているのである。
 また、「差別ではないのか」とただすことが「恐喝」の構成要件だとすれば、部落大衆は差別されても抗議もできない、「差別するな」と言うことさえできないということになる。3月18日の「交渉」のなかで、「差別ではないのか」という指摘が行われたことは、それはあまりにも当然であり、完全に正義である。なぜなら、島田君は部落民だからである。部落差別によって苦しめられてきたし、これからも苦しめられる存在なのである。だからこそ、労基法さえ守らず、使い捨てのぼろぞうきんのように切り捨てる、メタルカラーの違法なやり方にたいして、「労基法の権利からも排除されるのは、差別ではないのか」「部落民だからこういう扱いを受けるのか」と疑問を持ち、これをただすことは当然の権利である。警察と検察の主張は、「部落民は、人間としての権利など主張するな」と言っているのに等しいである。
 この弾圧は、メタルカラーにたいする「被害届け」提出の工作から、逮捕、起訴、そして裁判にいたる全体が、警察、検察をはじめとした権力による差別扇動につらぬかれた、許し難い一大差別犯罪なのである。だからこそ、この弾圧とのたたかいは、裁判闘争において無罪をかちとるたたかいはもちろんのこと、その全体が、国家権力にたいする差別糾弾のたたかいとしてたたかいとられなくてはならないのだ。

(2)寝屋川弾圧の階級的本質
①侵略戦争のはじまりと治安弾圧の激化
 われわれは、この弾圧が、全国連の組織と運動そのものを壊滅しようという目的で行われていることに注目しなくてはならない。たたかいが、「ちょっとやりすぎた」とか、戦術的に、「社会的、法的」な許容範囲を超えたことにたいして行われたというようなものでは断じてないのだ。権力は、部落大衆が、組織的に団結してたたかうことが犯罪であり、部落大衆が人間としての要求することが犯罪だと言っているのである。
 考えてもみてほしい。全国連の名刺をだしたことや、「差別ではないのか」とただすことが「恐喝」の構成要件にあたるというなら、全国連が取り組む会社(資本)との闘争(交渉)はおろか、行政闘争や、差別にたいする糾弾闘争などの一切合切が「恐喝」や「脅迫」だとされることになる。部落大衆は差別にたいして抗議することも、「差別をするな」と要求することもできなくなる。これでは、およそ、部落解放運動というものは成り立ちようがないのだ。この弾圧は、全国連という組織と運動そのものを許さない、全国連という大衆組織をたたきつぶすということに、いまや、権力が本気になって踏み込んできたということを物語っているのである。
 なぜか。それは、日本が、ついに侵略戦争に踏み込んだからである。ことしの1月から2月にかけて、小泉政権は、ついに、イラクへの自衛隊派兵に踏み出した。アメリカの占領軍への参加であり、侵略戦争の戦場、帝国主義の侵略戦争と、それにたいする民族解放闘争とが激しくたたかわれている戦場への、公然たる軍隊の出兵である。この、イラクへの出兵という出来事は、それじしんが、自衛隊が他国の人々を殺し、あるいは殺されるという侵略戦争の当事者に日本がなったということ、そして、さらに、この戦争はイラクだけでなく中東全域、北朝鮮、中国へと連動し、やがては世界戦争にいたる泥沼の侵略戦争への道のはじまりをつげ知らせている。
 だが、それだけではない。戦争への突入は、もう一方で、日本の国のなかにおいて、戦争がいっさいに優先される政治への転換を意味する。それは、労働者やあらゆる人民の権利や生活をむしりとる政治であり、そういう政治をつらぬこうとすれば、部落解放運動や労働組合はじゃまものになるのは理の当然なのである。つまり、全国連にたいする弾圧、大衆組織にたいする弾圧と、侵略戦争の始まりとはメダルの表裏の関係にあるということ、いまや、部落差別とのたたかい(生活破壊にたいする要求闘争であれ、差別事件にたいする糾弾闘争であれ)と、侵略戦争にたいするたたかいとは別々のものではなく、ひとつのものだということだ。

②寝屋川・国守で何がおこっていたのか
 だが、この寝屋川弾圧の階級的本質を明らかにしようとする場合、いじょうのことは問題の半分でしかない。もう半分は、では、なぜ、国家権力は、その弾圧の矛先を他のどの地域でもなく寝屋川に定め、その総力をあげて寝屋川のたたかいをつぶそうとしてきたのかということにある。それは、寝屋川・国守部落において、差別の洪水と部落大衆の生活破壊にたいして、本部派を乗り越えた大衆の決起が激しくまきおこり、本部派に代わる新たな国守における地域権力が、全国連によってうちたてられようとしていたからである。つまり、寝屋川弾圧こそ、全国連の5万人組織建設が、寝屋川において爆発的に進もうとしていたことへの権力の恐怖と、そこからのあせりにかられた反動だったということである。
 では、寝屋川・国守部落において、いったい、どのようなたたかいが始まっていたのか。
まず、第一に見なければならないのは、国守地域住民の絶対的な窮乏化、国守地域のすべての部落大衆が、このままでは生きられない現実にたたきこまれているというまぎれもない事実である。築後40年いじょうにもわたって放置され、アスベストや錆びたガス管などがむき出しの住宅。同和事業の打ちきりによる診療所の廃止や、風呂の廃止。さらに、国守の代表的な地域的な産業であった廃品回収業者の仕事と生計維持の柱であった産廃処理施設の閉鎖。この上に、住宅家賃の大幅値上げ、国保、介護保険料、公共料金の値上げなどが襲いかかっている。
 重要なことは、この現実が、権力・行政による法打ちきり後のむきだしの差別政策によってもたらされているとともに、本部派による大衆の生活と権利の売り渡しによってつくりだされているということである。だからこそ、国守地域の部落大衆にとっては、自分たちの生活と権利を守るためには、この本部派の地域支配を打ち倒し、自分たちの手で新しい村の団結を打ち立てなくてはならないということが急速に自覚されはじめているのである。
 第二は、住民の生きる権利をかけた決起のはじまりと、そのなかでの新たなリーダーの登場である。絶対的な窮乏化と、自分たちの手でたたかわなくてはならないということを自覚した人々は、住宅家賃値上げ反対や、住宅改修要求、風呂の廃止反対などの要求をかかげて、「寄り合い」という柔軟な大衆闘争の組織をつくりだし、これを基盤として、対行政闘争や、本部派系の村内諸組織にたいする大衆的な突きあげのたたかいに立ちあがっている。
 この、新たな大衆闘争組織のリーダーが、滝口さん、伊地知さん、島田君らである。「寄り合い」に結集する人々は、滝口さんたちを自分たちの代表者として認知し、法打ちきりと、本部派の解散、大衆の生活と権利の売り渡しというなかで、ここを、せっぱ詰まった自分たちの生活要求を持ち込める唯一の場、自分たちの生きる寄る辺として自覚しはじめているのである。しかし、現状の力関係のなかで、あるいは法打ちきり後という反動情勢のなかで、そう簡単にはいかない、成果がでないという状態にもかかわらず、結集する大衆は、自分の悩みや要求を真剣に聞いてくれる、いっしょに考えてくれる、いっしょに怒ってくれるということにある種の「喜び」を感じて、この場につぎつぎと結集し、住民大衆の団結が、素朴ではあるが力強く形作られてきたのである。
 そして、いまや、滝口さんたちの全国連支部への結集と、支部執行委員会への参画、いや、全国連支部のリーダーを引き受けるという決断を通して、この「寄り合い」と全国連とがひとつに融合しはじめているのである。滝口さん、伊地知さん、島田君たちの全国連への結集と執行委員会への加入は、「寄り合い」に集まってくるさまざまな要求を扱い、それらを実現していく(それらをもっている人々が団結し、みずからの力でたたかいとる)ためには、部落差別とたたかうという自覚とその指導なしには不可能であるという認識と自覚にもとずく、人生をかけた決断によるものである。
 こうして、全国連の支部組織が、これまでの、先進的だが少数のインテリの「サークル」のような組織ではなく、大衆の生活と権利をたたかいとる国守部落の、大衆じしんの組織へと急速に生まれ変わりはじめている。この住民の怒りと決起は、それが地域全体に共通する、生きる権利をかけた根元的なものであり、一個の歴史的趨勢なのである。
 まさに、国守において、全国連の5万人組織建設のたたかいが、激しく進み始めていたのであり、本部派大阪府連の大拠点のひとつでもあった寝屋川・国守におけるこの動きは、大阪府下はもとより、全国情勢をも左右する可能性を秘めているのである。寝屋川弾圧は、これにたいする恐怖にかられた密集せる反動である。全国連支部と「寄り合い」という新たな大衆闘争組織との融合の中心にくさびを打ち込み、全国連組織が村の住民によって生まれ変わろうとする、その芽の内に踏みつぶしてしまおうとする弾圧だったのである。
 だが、この弾圧は、全国連と住民との結束を強くし、その主体を鍛え上げ、より巨大なたたかいの肥やしに転化されるに違いないことを銘記すべきである。事実、滝口さん、伊地知さん、木邨さん、島田君の4人は、7ヶ月間もの拘留と接見禁止の攻撃にもかかわらず、非転向をつらぬいて元気に出獄、昨年12月、住民との合流を実現した。また、滝口さんたちの不在という困難をはねのけて、滝口さんたちに代わる新たなリーダーによって「寄り合い」が再建され、4人の早期保釈を求めるメッセージ運動とカンパ闘争が取り組まれた。このメッセージは、国守地域だけで瞬く間に500戸を越えたのである。さらに、「4被告を支える家族の会」の結成など、反弾圧闘争を水路にして、たたかいの陣形は確実に広がりつつあるのである。
 たしかに、侵略戦争の始まりのもとで、国家権力がその総力をあげて全国連の解体に踏み込んできたということは大変なことであり、生やさしいことではない。だが、これは、決して権力の「強さ」を示すものではないのだ。この凶暴さの裏には、戦争と差別、生活破壊が、必ず大衆の根底からの反乱につながることへの心底からの恐怖が隠されているのである。

(3)全国連の5万人組織建設のたたかいの鉄火の試練
①水平社はなぜ戦争翼賛運動へと転落したのか
 かつて、日本帝国主義は、1920年代からの中国山東省への出兵、そして1931年の柳条湖事件(「満州事変」)を経て、やがて全面的な中国侵略戦争に突入し、太平洋戦争へとのめりこんでいった。周知のように、全国水平社は、この過程で、1937年の拡大中央委員会での「非常時の運動方針=戦争協力方針」の決定を大きな転機にして侵略戦争翼賛運動にのめり込み、国家総動員体制のなかで解散していく。
 こんにち、この水平社の戦争協力をめぐって、「もともと水平社は、陛下の臣民としての平等を求めていた」だのという反動的評論がささやかれているが、これは、一方において全国水平社の創立とそのたたかいが日本の階級闘争に果たした歴史的意義を抹殺し、他方においては、日本帝国主義による侵略戦争とそのもとでの治安弾圧という生々しい事実の持つ重大な意味を無視して、帝国主義国家権力を美化する許し難い俗論に他ならない。水平社の戦争協力と解散の真の根拠は、侵略戦争と戦時体制下における治安弾圧とのたたかいにおける決定的敗北と、屈服にこそあるのである。
 実際に、水平社の歴史は、同時に、激しい弾圧の歴史でもある。水平社の糾弾闘争は、奈良小林部落の大正小学校差別糾弾闘争にたいする騒擾罪の適用による大弾圧や、高崎事件における軍隊による大弾圧、右翼国粋会との武装衝突事件、福岡連隊差別糾弾闘争における爆破事件でっち上げをはじめとして、激しい治安弾圧が加えられている。とくに、1925年の治安維持法の制定以降、この弾圧は、日本帝国主義による中国侵略戦争への突入下で、それぞれの糾弾闘争にたいする直対応的な大弾圧というものから、きわめて目的意識的な水平社にたいする組織壊滅をねらった弾圧という性格を持ったものになっていくのである。1928年、3月15日の治安維持法による一斉検挙(いわゆる3・15弾圧)、翌29年の4・16弾圧をはじめとして、共産党員をはじめとした水平社の指導者が大量に逮捕・投獄されていった。
 このなかで注目すべきは、1926年につくられた、「暴力行為等処罰に関する法律」である。これは、1925年の治安維持法の成立につづく治安弾圧法の制定だが、治安維持法が、共産党の壊滅を中心にして、国体の転覆つまり天皇制と戦争に反対する組織、人、思想を壊滅しようとするものであったことにたいして、この「暴力行為等処罰に関する法律」は、差別に対する集団的抗議や、労働争議、小作争議などを徹底的に弾圧する、「水平社弾圧法」(あるいは、「労働組合弾圧法」「小作争議弾圧法」)とも言うべき性格の治安弾圧法であった。つまり、水平社や労働組合、農民組合などの大衆運動の組織によるたたかい(運動)のことごとくを犯罪視して弾圧し、大衆組織そのものを解体しようとしたのである。
 実際に、どのような弾圧がおこなわれたのか、この法律が水平社に一番最初に適用された「沖野々事件」の例を見てみたい。沖野々部落は、現在の和歌山県海南市にある部落だが、この事件は、水平社の組織がなかった部落での差別事件に際して、青年有志をはじめとした村の大衆が、大阪水平社の応援を得て、糾弾闘争に立ちあがったことにたいして襲いかかった弾圧である。村の有志によって、差別者に出席を求めた話し合いの場がもたれ、差別者は出席しなかったものの、一般地区の区長が出席し、この場で、沖野々部落の有志と区長とのあいだで「区長の責任によって、差別者に謝罪文を書かせる」こと、「再発防止のために人権啓発の講演会を開催する」ことが約束された。
 ところが、これに警察が介入する。警察署長が区長宅に乗り込み、区長を恫喝して、この約束を撤回させるとともに、この話し合いを「暴力行為」にでっち上げ、応援に来た大阪水平社の栗須七郎とともに6人の沖野々の部落大衆を逮捕したのである。このときに逮捕された沖野々の部落大衆は、投獄の経験もなければ運動の経験もない人々である。権力は、この人々に拷問を加えて、でっち上げの自白を強要し、長期投獄をねらうとともに、この部落における水平社の組織づくりの芽をつみとり、水平社にたいして打撃を加えることをたくらんだのだ。
 どのような形態であれ、糾弾闘争に取り組むこと、部落大衆が団結してたたかうこと、水平社の組織をつくること、これらのひとつひとつが国家権力による弾圧との激しいやりあいであった。これが、侵略戦争が実際に始まっている時代の部落解放運動、階級闘争の真実の姿なのである。
 しかし、ここで銘記すべきことは、差別糾弾闘争をはじめとして、部落大衆は、このような国家権力による弾圧をはねのけ、生きる権利を求めて陸続と立ちあがってきたという事実である。1933年に起こった高松差別裁判にたいする大糾弾闘争、20年代末から30年代初頭にかけての29年恐慌いこうの大不況下での労働争議や小作争議などをはじめとして、部落大衆は、このような弾圧に負けることなく、意気軒昂とたたかいに立ちあがっている。このなかで、糾弾闘争にたいする弾圧にたいしては、逮捕された仲間を、警察署を包囲して実力で奪還するというようなたたかいも各地でおこっているのだ。高松闘争においては、15年戦争のまっただ中で、百万もの部落大衆の決起や労働者階級との共同闘争がたたかいとられ、司法長官の謝罪や、差別裁判官の左遷という鮮やかな勝利をたたかいとっているのである。
 だが、問題は、水平社の指導部に、その指導路線にあった。国家権力による治安弾圧とのたたかいという決定的な地点において、たえず弱点をさらし、そして、決定的な時点においてたえず弾圧を恐れ、「弾圧を避ける」方向に舵を切っていくのである。しかし、すでに見たように、戦時下において弾圧されない運動などというものはない。現に侵略戦争が実際に始まっているとき、また、戦争のもとで労働者の権利や部落大衆の権利はもう認めない、国(と大資本)のために命をなげだせという政治がはじまっているときに、労働者や部落大衆の権利を守ろうとして団結したり、たたかったりする運動が弾圧されない訳がないのである。弾圧されない運動というものは、おのずと戦争を認め、国(や資本家)のために命をもささげろという政治を認め、それに協力するものになっていくしかない。弾圧されない運動に舵を切った水平社が、戦争協力に行き着いたのはなんら不思議なことではないのだ。

②全国連にとっての鉄火の試練
 いじょうのことは、決して過去の出来事ではない。「沖野々事件」において行われた弾圧は、適用した弾圧法規の違いはあっても、その性格においても、また、やり方においても、こんにちの寝屋川弾圧とまさにうりふたつではないだろうか。また、寝屋川弾圧とときを同じくして、国労臨時大会での闘争団をはじめとする組合員によるたたかいにたいする弾圧、九州大学での学生自治会にたいする弾圧が襲いかかったが、このふたつの弾圧は、水平社や労働争議を弾圧するためにつくられた「暴力行為等処罰に関する法律」を適用した弾圧であった。
 寝屋川弾圧は、水平社が直面した、侵略戦争下での治安弾圧とのやりあいという激烈な過程の始まりを告げ知らせるものである。日本帝国主義国家権力は、イラク出兵という戦後史の大転換のもとで、国家暴力による全国連の絶滅の攻撃へと、いまや、完全に舵を切ったと言わなければならない。
 だが、全国連は、部落大衆にとってかけがえのない存在である。侵略戦争に反対し、現下の部落差別の洪水、部落大衆の生活破壊とたたかい、部落大衆の人間としての権利を守るための、唯一の団結体なのである。すでに見たように、この過程は、ただ、一方的に弾圧が襲いかかるというものではない。もう一方で、戦争と差別の洪水、恐るべき生活破壊にたいして、生きる権利をかけた部落大衆の爆発的な決起が必ずまきおこる。このときに、生きるために立ちあがり、たたかおうとする部落大衆が集うべきよるべは全国連をおいて他にはない。そして、だからこそ、権力は、その存在とたたかいに脅威を感じ、これを壊滅せんとしているのである。
 だからこそ、問題は、全国連にある。こうした弾圧に真っ向から立ち向かい、部落大衆と結びつき、部落大衆のあらゆる要求をたたかい(差別にたいする糾弾闘争、生活要求闘争、階級的共同闘争)に組織していかなくてはならない。たたかいの爆発は、弾圧を不可避とする。だが、たたかいのないところに全国連の組織はできないし、たたかいを組織できないとすれば、全国連はその存在する意味をもたなくなってしまうのである。全国連の全組織は、寝屋川弾圧の当事者であるという自覚に燃え立ち、猛然と部落のすべての大衆と結びつく努力をしなくてはならない。部落大衆の力をただひたすら、固く、固く、信頼し、大衆的な団結によって弾圧をけちらして進もう。全国連とは、そのための機関、組織なのである。
 
おわりに
 周知のように、全国水平社は1922年に創立されるが、この全水の歴史的創立は、それにいたる無数の大衆的反乱の連綿としたたたかいの爆発の到達点であった。水平社は、一部の部落のインテリが自己解放に目覚めてつくりあげたようなものではまったくないのである。
 この全水創立にいたる大衆的反乱の、最初の、もっとも衝撃的事件は、1916年の「博多毎日新聞社襲撃事件」であった。博多毎日新聞の差別記事にたいする怒りは、地元の豊富部落(福岡市)ぐるみの糾弾闘争となって爆発、新聞社の占拠、打ち壊しにまで発展した。警察は、この糾弾闘争にたいして、じつに630戸の部落から308人を逮捕するという、空前の大弾圧を行った。逮捕後には、この部落には老人と女性、子どもしか残らなかったといわれる、まさに根こそぎの大弾圧である。
 このたたかいと、それにたいする権力の大弾圧は、差別の激化と生活破壊に呻吟し、怒る部落大衆に歴史的なインパクトを与えた。弾圧にたいする救援運動が全国の部落で取り組まれただけでなく、この事件は、差別にたいして糾弾闘争に立ちあがる歴史的なのろしとなったのである。実際に、この事件を皮切りにして、軍隊内部の差別事件、教育現場の差別事件、山林入会権をめぐる差別的排除などをめぐって、全国の部落大衆のやむにやまれぬ怒りが吹き出し、各地で、自然発生的な糾弾闘争が巻き起こっていく。
 そして、1918年、富山から始まった米騒動は、たちまちのうちに燎原の火のように全国に広がり、各地で警察署、派出所、米穀商などへの襲撃がくりかえされた。この米騒動では、部落大衆の決起はめざましいものがあり、当時の司法次官、鈴木喜三郎は、「事件は特殊部落民の仕業」なる声明を発表し、日本の民衆の闘争史に輝く、この巨大な大衆的、暴動的反乱の責任をひとえに部落大衆に帰し、徐々にその隊列をつくりだしつつあった労働者階級と分断させ、たたかいを鎮圧するための意図をむき出しにした。この米騒動は、部落大衆にとってだけでなく、労働者階級にとっても、その階級的目覚めの第一歩となったのである。
 米騒動を突破口として、全国の部落大衆は、ロシア革命の衝撃を受けた日本労働者階級の本格的な胎動のなかで、資本や地主との争議を全国でまきおこした。1919年7月の大阪市内の鼻緒製造業の職人2000人による賃上げ要求のたたかい、日本皮革東京工場のストライキなどをはじめとして、広島、名古屋、福井など全国各地で、部落大衆の賃上げ、労働時間短縮などの要求をかかげた争議がたたかわれた。
 また、農村においても、20年頃から小作争議が頻発し、20年には408件だった争議が、翌21年にはその4倍の1680件に激増、部落の農民の小作料引き下げを要求した運動は愛知や三重をはじめ全国に広がった。さらに21年には、山口県徳山町での「徳山新聞」主筆の差別記事にたいする糾弾闘争がたたかわれ、このたたかいは、差別した当事者を袋だたきにして謝罪を求めるという激烈な闘争となって爆発した。
 こうした部落大衆の自然発生的な糾弾闘争、労働争議、小作争議などの全国的な爆発を背景として、この大きな動きと結びつく形で、坂本清一郎、駒井喜作、西光万吉などの部落のインテリが社会主義へと目覚め、社会主義同盟への結集が始まったり、大阪の皮革労働者であった松田喜一らが中心となった活動家のグループが組織されたりしながら、水平社を指導する勢力の形が、ばらばらではあるがつくりだされていく。闘争の爆発のなかで、その闘争を代表するリーダーがつくられていった。水平社の歴史的創立とは、いじょうのように、水平社の指導的リーダーたちが部落大衆を組織してつくりだした運動というものではなく、全国的な部落大衆の自然発生的な運動の爆発的な高まりが、必然的に闘争の指導部を生み出しながらつくりあげられたと言うべきである。
 いじょうが、水平社創立のプロセスだが、じつは、全国連の5万人組織建設の事業も、これと同じような構造をもって進んで行くに違いない。歴史的な差別糾弾闘争ののろしとなった「博多毎日新聞社」にたいする糾弾闘争から6年で全国水平社の創立に到達している事実を見るとき、階級闘争の主客の条件が成熟すれば、ほんの短期間に、組織と運動が爆発的に拡大され、数千、数万規模の運動がつくりだされるということは不可避である。これまでには思いもつかなかったような闘争がまきおこり、この闘争のなかから指導者がつぎつぎと生み出され、いたるところで権力、行政、差別者との激突が発生するというようなことが、戦時下のもとでは常識となりうる。
 このときに、全国連は、こうした大衆闘争の爆発と結合し、これを促進し、この全体を3大闘争のもとにまとめあげ、帝国主義の戦争と差別を打ち倒す、一個の巨大な運動へと導いていくことができるのか。寝屋川弾圧とのたたかいは、その最初の試練である。
 
冒頭意見陳述  木邨 秀幸
 私達4人が逮捕され、起訴された理由は、今もって私には全くわかりません。なぜ逮捕されなければならないのか。私達4人は、島田君が会社で労災にあいながら、会社が労災とは認めず、解雇しようとしたと聞いて、そんなおかしいことはないと思って、会社に対して交渉に行っただけのことです。あまりにも当然のことです。 島田君は、ハローワークで、メタルカラーの求人を見つけて採用され、正社員になれると思って大喜びしていました。一生、この会社で働きたいと願っていたのです。この不況の中で、島田君にとって、メタルカラーに就職できたことは、人生に希望をもたらすものでした。しかも、厳しい部落差別の現実の中での事であり、喜びはひとしおでした。それが、勤め始めてまもなく、労災にあってしまったのです。目の前が真っ暗になるような打撃だったと思います。それでも、辞めたくない一心で、何とか痛みを我慢して勤め続けたのです。しかし、痛みが強くなって、我慢できずに、会社を休みました。そうしたら会社は、労災も認めずに、たった2日休んだだけの島田君をやめさせようとしたのです。
  裁判長! こんな話を聞いたら、あなたはどうしますか? 黙って放っておきますか? 法律の専門家としても当然、会社のやっていることはおかしいと思われるでしょう。しかし、おかしいと思うだけでは、侵害された権利はとりもどせません。私にとって島田君は、部落解放運動を一緒にやってきた仲間です。滝口さんや、伊地知さんにしてもそうです。その仲間が、不当に権利を侵害されているのに、口先で、「それはひどい話やなァ」と言ってすますような無責任なことはできません。力になろうと思ったのは、当然のことです。誰でもそうではないでしょうか。 また労働者には、団結権や、団体交渉権や争議権がありますが、島田君は労働組合に入っていませんでした。その島田君にとって、頼りに出来るのは、一緒に部落解放運動をやってきた私達以外にありませんでした。だから、島田君が私達に相談したのも当然のことであり、相談された私達も当然のこととして、会社との交渉に一緒に行ったのです。
 一体、このどこが恐喝になるのでしょうか? 恐喝しようなどという気持ちなど全くどこにもありませんでした。 私は5月22日の深夜に逮捕されたとき、容疑が恐喝だとわかって「エーツ! なんで? 恐喝になるの? 双方の納得しての話し合いで終わったのに」と思いました。まさか、メタルカラーとの交渉が、恐喝になるなどとは、夢々、考えてもみませんでした。それこそ全く身に覚えのないことだったからです。滝口さんら3人も同じ気持ちだったと思います。
 それ以来、すでに3ケ月が過ぎました。しかし、今だに私達の行った事のどこが恐喝になるのか、犯罪となるのか、私には全く理解することができません! 日本の法律というのは、当然の権利を主張することを犯罪として、取り締まるものになっているのでしょうか? それとも、私が当然の権利だと思っていることが、そもそも間違いなのでしょうか? どう考えてもわかりません。
 しかし、今回冒頭意見を述べるにあたって、改めて事件の経過を振り返り、私にはっきりしたことがあります。 (私を取り調べた刑事は)「全国連の運動をやめろ」「役所におしかけるな」など、事件と関係のないことばかりをわめきちらしていました。 又、この他にも、「全国連を潰してやる」「20年も30年も出られないぞ」とか「谷底に落としてやる」などという許すことの出来ない脅迫を行ったり、又、滝口さんにハゲとかバカとかの許すことの出来ない差別暴言をあびせたと聞いていたので、「ああ、これは警察が運動を潰すためにやってきたのだな」と、その時から思ってきました。 しかし、その後、メタルカラーは、被害届を出していなかったのに、4月になって警察の方から、わざわざ会社に出向いて、被害届を出させたこと、そればかりか、逮捕の一週間前の5月15日の段階ですでに警察が市役所に来て、私達の対市交渉の様子を隣の部屋でこっそりと録音していたこと、そして、それを警察が本件の恐喝を裏付ける証拠として出そうとしていること、さらに、そもそも警察が、メタルカラーに聞き込みに行ったのも、日常的に国守での私達の部落解放運動を監視し、情報収集していたからだという話を聞きました。
 私は、この話を聞いて、今回の事件は、私が考えていた以上に大変な事件だと思うようになりました。 すなわち、この本件事件は、単なる「寝屋川の住宅闘争つぶしのための警察のいやがらせ」というようなものではなく、公安警察中枢の判断のもとに、計画的に仕組まれた、一大デッチ上げ事件であり、寝屋川の住宅闘争と全国連寝屋川支部だげではなく、全国連の運動と組織そのものを丸ごとつぶそうとたくらまれたものだとわかりました。  さらに言えば、部落民が差別と闘い、人間としての権利を主張することそのもの、部落解放運動そのものを敵視し、潰そうとする国家権力による大弾圧事件であるということです。 (このように)本件事件は、警察権力がおよそ事件になどならない事を百も承知しながら、全国連と部落解放運動を潰すという政治目的のために恐喝事件にデッチ上げ、「犯罪を作った」(ものな)のです。当然の権利であると考えて交渉を行った者が、ある日突然、警察権力によって、とんでもない犯罪者にしたてあげられるのです。 しかも、その一方で、労働者の正当な権利を踏みにじった悪徳資本家は、反省するどころか、反対に被害者面して、部落民に厳罰を要求する―、こんなクロをシロと言いくるめるような事が、国家権力によって白昼公然と行われ、それを裁判所も追認して、すでに3ケ月にもわたって私達無実の者が、獄中にとらわれ続けているのです! しかも、後でわかったことによれば、私達と交渉したメタルカラーの会社幹部らは、私達、部落解放運動を闘うものを「ダニ」だとか「社会の寄生虫」と見なしていることが明らかになっています。 こうした、極悪の差別感情をもって、メタルカラーは、国家権力の私達に対する政治弾圧に加担したのであり、その責任は、決して逃れることはできないと言わねばなりません。
 滝口さん、伊地知さんは、70近い高齢であり、部落差別の中で、苦労されてきて、持病もあり、健康も害されています。それでもなお、裁判所は、保釈も認めず、今も犯罪者の烙印を押して、苦しめ続けています。また島田君や、私にしても同じです。犯罪者扱いされ、一緒に部落解放運動を闘ってきた仲間や、家族と長い間引き裂かれ、狭い拘置所にとじ込められ、言うにいわれぬ苦しみを家族ともどもあじわわされてきました。 こんなことが、どうして許されるのでしょうか? 滝口さん、伊地知さん、島田君は、曲がったことが大嫌いで、正義を貫き、国守の住民の生きる権利を守るために、部落差別をなくすために、自分の身を犠牲にして一心に闘ってきた人達です。 人のために、国守の住民のために、どうしたらいいかと考えることはあっても、私利私欲など一切考えたことのない人達ばかりです。 それがどうして、「恐喝」などという暴力団に対するのと同じような反社会的罪名で逮捕されなくてはならないのか、本当に怒りにたえません! しかも、検察は、滝口さんが、部落解放同盟全国連合会の支部長の名刺を出したことが、恐喝に関係があると主張していると聞いて、絶対に許せない! という気持ちで一杯です。一体、全国連の名刺を出すことと、恐喝にどんな関係があると言うのか! 私達にとって全国連の名刺は誇りであり、それを犯罪に関係があるなどということ自体が部落差別であり、許せません! これを国家権力による政治的弾圧、差別的迫害と言わずして、なんと呼べばいいのでしょうか! 国家権力が、その権力を恣意的にふりまわし、人間としての権利を主張して、権力や資本と闘う者や、差別を撤廃し、人間的正義の実現を求めるものを平然と罪に陥れるようなことを許したら、一体、この世の中はどうなるのか? 暗黒です! 確かに事件そのものは或る意味でささいな事件ですが、公安警察がやろうとしている事はとんでもないことです。 私は、今回の私達に対する弾圧は、単に私達が、進める部落解放運動に対する弾圧というだけでなく、戦争や政府に反対することが出来ない世の中、モノが言えない社会にしていくための、国家権力による計画的弾圧だと思います。 実際、昨年の国労臨大弾圧に続いて、私達に対する弾圧と相前後して、港合同や、全金本山などの労働組合、学生団体に対する弾圧が続発しています。 恐慌が切迫し、イラク戦争が強行され、有事立法やイラク派兵法が制定され、改憲までもがたくまられています。戦争に向かって再び歴史は、危険な方向に向かって動き始めています。 戦前も、同じような情勢の中で、治安維持法が制定され、天皇制右翼のテロや、特高警察の弾圧が吹き荒れ、労働運動や水平運動や、農民運動がつぶされ、誰も政府の政策に反対することが出来なくされ、挙国一致の戦争体制が作り出されて、全面的な侵略戦争にのめりこんでいきました。 今、同じことが繰り返されようとしている、と言わねばなりません。だからこそ、この弾圧に断じて負けることは出来ません! 戦前、水平社は、こうした弾圧に負けてしまい、戦争に協力加担していきました。 そして、いままた、解同本部派も同じ道に転落していっています。 しかし、全国連は、この敗北の歴史を必ずのりこえます。 今回の弾圧との闘いは、私達全国連と部落解教運動にかけられた試練であると同時に、全人民の先頭に立って権力の弾圧を打ち砕き、新しい時代を切り開く名誉ある闘いである! と自負しています。 戦前、裁判所は、天皇制国家権力の治安弾圧のシモベとなり、幾多の無実の者を罪に陥れ、獄死させ、暗黒の社会と侵略戦争体制を作り出す権力機構そのものになりはててきました。本件事件において、裁判所が再び戦前のように警察や検察の言いなりになり、なんら真実を見すえず、無実の私達に犯罪者の烙印を押すようなことがあるならば、裁判所みずからが再び戦争と暗黒の時代の加担者に転落することを意味するであろうと思います。
 そのような意味で、本件裁判は大きな時代の曲り角の中での歴史にのこる重大な裁判になることは不可避です。 裁判長をはじめとする裁判官は、いかなる意味で名前を後世に残すことになるのか、よく考えぬいて頂きたいと思います。そして、真実にのみ立脚し、自らの法曹としての、何よりも一人の人間としての良心にのみ従って、公訴を直ちに棄却するか、さもなくば無罪の宣告を行うことを強く要求するものです。  私達4人は、青天白実無実です。 裁判所は、私達4人を直ちに釈放するように要求します。 私達4人は、不正義の弾圧を打ち破るまで最後まで一致団結して闘い抜きます。 弾圧粉砕! 部落絶対解放! 以上

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