狭山差別裁判 無実の証拠を全部だせ! その3

(2008年10月17日)

  すべての足跡関連証拠を開示せよ

身代金うけわたし現場で採取された足跡は、石川さんの足跡ではありません。警察は、石川さん宅から兄・六造さんの地下足袋を押収し、「お前でなければ兄をパクるぞ」と、家族を思う石川さんの情につけこみ、ウソの「自白」を強要しました。「一家の大黒柱の兄がパクられるぐらいなら…」と、石川さんをウソの「自白」においこんだ「足跡」について、今回はみていきます。 警察はどんな足跡を集めたのか?
63年5月3日0時を10分ほどすぎたころ、犯人が身代金のうけわたし場所として指定した佐野屋から北東へ25メートルほどはなれた茶畑のなかから 「おーい、おーい」と犯人と思われる男の声がしました。身代金をもった中田登美恵(被害者・善枝の姉)は、およそ10分間にわたって犯人と会話をやりとり しています。そして犯人の「帰るぞ」という最後の声から5分後、逃走に気づいた警察がかくれていた場所からとびだし、北東方向へと犯人を追っていきまし た。しかし、時すでに遅し。警察は40人もの体制で張り込んでおきながら、まんまと犯人に逃げられてしまったのです。

3時すぎ現場に警察犬が到着、夜がしらじらと明けるのをまって警察犬に犯人の臭跡をたどらせはじめます。この時、犯人がひそんでいたと思われる付近から 土をふみ固めたあとと複数の足跡を発見し、警察官・関口邦造がそのうち2ヶ所から足跡を採取しました。つづいて6時30分ごろ、そこから東へ130メート ルほどはなれたジャガイモ畑のなかに数十の足跡を発見し、警察官・飯野源治がそのうち3ヶ所から足跡を採取しました。このうち、後者の3個が、事件現場に 犯人が残した足跡として鑑定され、裁判所に提出された、となっています。前者の2個は、筆者が調べた限りでは、どこにあるのか行方がわかりません(関口の 実況見分調書は、ボールペンで書かれており、足跡については「素足」跡となっていました。それが後日に、万年筆で「通称地下足袋」跡とかきかえられていま す。「素足」では都合が悪くなって調書は書きかえたものの、現物はかえようがないので、どこかへ隠蔽したものと思われます。この行方不明の足跡の開示を求 めます)。

警察が集めた足跡は、これ以外にも、廃棄したものも含めれば、わかっているだけでも38個もあります。そのうち20個は、63年6月1日に埼玉県警本部 構内で、警察技師・加藤幸男(鑑識課)が、石川さん宅から押収した地下足袋5足のうちの1足をはいて、現場の畑から運んできた土のうえを歩いてつくった足 跡です。14個は、同じく6月1日に狭山警察署で、石川さんに石川さん宅から押収した地下足袋5足のうちの1足をはかせて土の上を歩かせてつくった足跡で す。この34個は、66年2月10日現在、狭山警察署に保管されています。このうち前者のなから左右1つづつがえらばれて、現場足跡と対照する資料として 鑑識に回されました。

残る4個は、5月11日(土)に死体発見現場から西方120メートルで発見されたスコップの付近にあった地下足袋の足跡2個と靴の足跡2個です。これ は、いずれも部分的で不鮮明だから対照できないという理由で、石川さんが起訴された翌日の7月10日に破棄した、と警察は言っています。

押収された地下足袋はいくつ?
5月23日(水)、石川さんが逮捕された日に第1回の家宅捜索もおこなわれました。この日、下駄箱から地下足袋2足、寄り付き奥の4畳半ブリキ缶の上から地下足袋2足、風呂場から地下足袋1足の計5足(すべて兄・六造さんのもの)が押収されました。

しかし、この5足すべてから対照資料とするための足跡がとられたのではありません。足跡を鑑定した鑑識課の関根政一は、63年11月4日の第1審・第4 回公判でつぎのように証言しています。「鑑定資料は犯行現場から採取した足跡3個でございます。対照資料は、ぬいつけ地下たび、職人たびとも申しますが、 地下たび一足でございます。」と。1足だけが、対照の足跡を作るためにえらばれたのです。いったい、誰がどのような理由で、その1足をえらんだのでしょう か。わかっていることは、この1足だけが3ヶ所に明白な破損痕があり、事件現場に犯人が残した足跡とされる鑑定資料にも同じような破損痕がある、というこ とだけです。

さらに警察は、スコップ発見現場付近で足跡を発見しただけではなく、6月15日(金)にスコップ発見現場から北東250メートルの麦畑(ここは、死体埋 没現場からも近い)から地下足袋1足を領置しています。この地下足袋は、石川さん宅から押収された地下足袋と同じ会社(戸田商店)がつくった、同じ9文7 分の、同じ種類のぬいつけ地下足袋(農業用ではない)です。しかし、警察は、この地下足袋を鑑定もしなければ、出所捜査もしていません。私たちは、この領 置した地下足袋の鑑定(底に着いた土壌や植物をふくむ)と出所捜査(誰のものか)を要求します。(なお、スコップは、犯人が石田養豚場から盗みだして死体 を埋める時につかったとされていますが、ウソです。スコップは警察によるデッチあげです。その付近の足跡も警察がしくんだ可能性が大です)。

10文半(25cm)の石川さんが、9文7分(23cm)の足袋?
6月1日に狭山警察署で地下足袋をはかされた時のことを、石川さんは第2審・第2回公判で、つぎのように証言しています。

弁 どういう地下足袋をはいていたんですか。

石 とび職がはく7枚こはぜのものです。

弁 警察の人は、その地下足袋をどういう地下足袋か説明しましたか。

石 あんちゃんのだ、と言いました。

(中略)

弁 その地下足袋は、たやすくあなたの足にはくことができましたか。

石 はけなくてね、斉藤刑事さんにね、その当時、足の底に変なものができていたわけでね。(中略)痛かったから斉藤刑事さんに片方はかせてもらったわけで すね。イスに腰かけて、そして、前歩けと言ったけど、親指が曲がってしょうがないわけですね。右方の親指がね、だけどそれを歩いたんです。

足のサイズが10文半の石川さんには、兄・六造さんの9文7分の地下足袋は小さすぎるのです。だから石川さんは、兄といっしょに仕事へいくときも、兄の足袋をかりるのではなく、自分の長靴をはいていきました。

にもかかわらず、警察はムリヤリ石川さんに兄の足袋をはかせることで、あたかも兄が犯人であるかのように思わせ、「お前でなければ兄をパクるぞ」という脅し文句に真実味をもたせたのです。こそくな手口で家族の情につけこんだ警察を絶対に許せません。

佐野屋ふきんで撮影した足跡写真を開示しろ
以上、見てきたように、警察がどういうふうにして、どれだけの足跡と地下足袋をあつめたのか、それすらも分からないのです。ましてや、裁判所に提出され た「鑑定資料」の足跡が、身代金うけわたし現場で採取された足跡であるかどうかは、なおさら分かりません。もっと言えば、警察が石川さん宅から押収した地 下足袋をつかって「鑑定資料」をデッチあげ、それと同じ足袋で実験した「対照資料」をつきあわせて、「同じだ」とした可能性すらあるのです。白黒をハッキ リさせるために私たちは、佐野屋わきの畑で撮影した足跡の写真およびネガないしスライド写真の開示を要求します。これらは、63年5月4日付関口邦造作成 の実況見分調書に「足跡1ヶが認められたので写真撮影した」「本件被疑者の足跡と思料される通称地下足袋が印象されてあったのは2ヶ所あったので、写真撮 影したる後見尺をなす」と記載があるように、また63年5月3日付飯野源治作成捜査報告書に「なお、この状況を明らかにするため山崎巡査に依頼し写真2葉 を撮影した」と記載があるように、かならず警察がもっています。あわせて、佐野屋わきの畑で印象された犯人のものと思われる足跡と捜査官の履物とを比較し た捜査報告書などの関係書類と、第1次および第2次逮捕状請求書に添付された足跡関係証拠、現存するすべての足跡の開示も要求します。

(『狭山闘争ニュース』149号 9月10日)
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