『前進』2363号「狭山論文」批判

(2008年10月23日)

 

 このたび、部落解放理論センターより2つの文書が発表されましたので、紹介します。

『前進』2363号「狭山論文」批判

                                   部落解放理論センター研究員 雪倉 学

1)はじめに
 10月13日発行の『前進』に掲載された「寺尾判決34カ年糾弾、10・26狭山集会に結集を」と題する文章は、「革命的共産主義者同盟」(以下「革共同」)が、いまや狭山闘争の破壊者でしかないことをさらけだした、歴史的な差別文書である。この文章は、標題にもあるように、彼らの「10・26集会」への結集を呼びかけるものであるが、そのことによって、彼らの「10・26集会」なるものが全国連の呼びかける狭山中央闘争の破壊のためにのみ、対抗的にでっち上げられたものであることが完全に明らかになっている。

 この文章の特徴のひとつは、これまでの「小山たかし」なる個人署名の文章ではなく、無署名だということにある。『前進』に掲載される無署名文章は、通常、そのすべてが政治局の文章であり、この事実は、この文章が政治局によるもの、あるいは政治局の責任によるものであることを示している。つまり、これは、一党員の主張などではなく、革共同という党派そのものの主張だということだ。
 いまひとつの特徴は、この文章は、「10・26集会」なるものを呼びかけていながら、「10・26集会」の主催者も、性格も、何一つとして明らかにされていないということにある。『前進』紙面のスケジュール欄には、この集会の主催者は「東日本解放共闘」だとされているが、これは完全な詐称に他ならない。「東日本解放共闘」は、動労千葉と全国連の関東ブロック(茨城県連など)を実体的主軸にして構成され、運営されてきた組織である。しかし、この集会については全国連にはまったく知らされていない。つまり、「東日本解放共闘」の主催などという事実は完全なデッチあげであり、いったい誰の責任で、誰が決めたのか、まったく不明の、きわめてうさんくさい集会だということである。
 だが、『前進』の無署名文章によって、じつは、この「10・26集会」なるものが、革共同が決め、革共同が主催する集会であることが明らかとなった。何とも無様な、おそまつな現実である。なぜ堂々と「革共同の主催だ」と言えないのか。「解放共闘」の名前と権威を詐称し、人々をだまして動員しようなどという卑劣な手法によってしか「狭山集会」を開催することができない革共同の無様な姿を自己暴露するものである。だが、そんなものが通用するほど階級闘争の現場は甘くはない。
 われわれは、広島差別事件を開き直り、全国連による糾弾から逃亡して以降、急速に差別主義的腐敗を深める革共同が、ついに公然たる狭山闘争と部落解放運動の破壊者に転落した事実を、狭山闘争の勝利を願うすべての部落大衆と労働者に明らかにするとともに、革共同の呼びかける「10・26集会」なるものを爆砕し、狭山中央闘争の大高揚をともにたたかいとることを心から呼びかけるものである。差別主義集団=革共同の敵対を粉砕し、狭山第三次再審の勝利をたたかいとろう。

2)狭山差別裁判糾弾闘争の解体を主張する革共同
 ①<無実・差別><糾弾・奪還>の狭山闘争原則の解体
 この文章は全体として自己満足的な政治的粉飾があまりにも多く、論旨をつかみとることがむつかしい。だが、それらを取り除いた主張の核心は、きわめておぞましいばかりの差別主義的主張である。
 その第1は、狭山差別裁判糾弾闘争の1969年いらいの血みどろのたたかい、63年の不当逮捕いらいの石川一雄さんの不屈のたたかいのすべてを否定し、得手勝手な、自分たちに都合のいい「狭山闘争」なるものにすり替えようとするものだということにある。
 だが、そこには、「国家権力による部落差別犯罪」という核心的な概念もなければ、「差別裁判糾弾」というもっとも重要な原則もない。つまり、この文章は、<無実・差別><糾弾・奪還>という労働者階級と部落大衆が血みどろのたたかいを通して打ち立ててきた狭山闘争の基本原則を徹底的に解体しようとするものだということである。

 ②差別裁判なき「狭山事件」
 そのひとつは、狭山事件捜査とその裁判の全体が<差別裁判(国家権力による差別犯罪)>だという核心の解体である。
  「1963年5月、女子高校生誘拐殺人事件・狭山事件が起こった。真犯人を取り逃がした警察は、失態をとりつくろうために、被差別部落に集中的に見込み捜査を行った。数十戸の部落に200人を超える刑事が押しかけ、リスト化した青年120人を一人残らず取り調べた。そして石川一雄さんを『犯人』にでっち上げたのだ。
  国家は資本家が労働者を搾取するために政治で支配する道具だ。警察・検察・裁判所は国家権力=暴力装置だ。この装置が揺らぐとき賃金奴隷制 も危うくなる。資本家の労働者支配を維持するために国家権力が部落を襲撃して、無実の石川さんを31年7ヶ月も監獄にぶちこんで、仮出獄後も 『殺人犯』扱いして、監視して再収監のおどしで縛りつけている。絶対に許せない」
 これが、この文章で言うところの「狭山事件」のすべてである。だが、ここには、<差別裁判>という、日帝・国家権力の攻撃の核心がない。「被差別部落に集中的に見込み捜査を行った」とか「部落を襲撃して」とかという客観主義的記載はあっても、それが<部落差別(攻撃)>であるという認識も、規定もないのだ。
 狭山事件捜査における被差別部落への徹底的な集中的見込み捜査と、石川一雄さんのデッチあげ逮捕は、たんに攻撃された対象がたまたま部落であったというようなことではない。マスコミをも動員して一般地区住民に部落差別をあおり、警察への協力者にしたてあげることをも意図した、きわめて目的意識的な部落差別の扇動であった。また、その裁判も、裁判所、拘置所が一体となって石川一雄さんの真実の叫びを徹底的に封じるとともに、裁判長と、検察が先頭に立って「部落=悪の温床」だとあおり、無実の石川一雄さんに「死刑」を宣告することを目的にした一大差別扇動の場であった。こうした徹底的な部落差別犯罪の事実にたいして、部落大衆をはじめ、すべてのたたかう労働者の共通の認識として<狭山差別裁判>という規定が確固として打ち立てられてきたのである。
 だが、革共同の諸君たちは、この<狭山差別裁判>という規定がいやでいやでしようがない。だからこそ、あれこれ狭山闘争について「評論」しながら、狭山闘争においてもっとも核心をなす「狭山差別裁判」という規定が、ただの一言もでてこないのである。
 では、諸君たちは、いったい、なにと「たたかう」のか。「資本家の労働者支配を維持するために」などという記載があるが、彼らは、狭山差別裁判の全体がすさまじい部落差別犯罪であるという事実よりも、「資本家の労働者支配」こそが問題だと言いたいのだ。ここから、「差別に目をむけるのではなく、資本家の労働者支配に目をむけろ」とお説教をたれている訳である。しかし、およそ帝国主義の世の中において国家権力が行う行為は、そのすべてが「資本家の労働者支配」のために行われるものではないのか。つまり、彼らにとって、狭山闘争をたたかう意味など実のところどこにもないということだ。
 重要なことは、このなかで、筆者は、全国連による東京高裁にたいする糾弾行動のなかで「関東の部落の女性」が発した徹底糾弾の言葉を長々と引用している。この言葉は、石川一雄さんの生い立ちがまさに部落差別そのものだということを火のでるような言葉で糾弾しているものである。
 だが、では、革共同の諸君たちは、この部落民の糾弾にたいして、これを主体的にどう受け止めたのか。なにも書かれていない。いや、なにもないだけでなく、じつは、この部落民の糾弾の言葉は、国家権力による差別犯罪を暴き、糾弾するために引用したのではなく、「部落民も労働者だ」ということを言うためにのみ引用されているのである。「部落民も労働者だ」「だから、差別よりも、資本家の支配を問題にしろ」と言いたいがために引用しているのだ。何ということか。部落大衆の差別にたいする徹底糾弾の主張を、その意図をねじ曲げて手前勝手に使うなどということは断じて許されない。この「関東の部落の女性」にたいする許し難い冒涜であり、これじたいが重大な部落差別である。この一点においてだけでも、この文章は徹底糾弾され、焼きつくされなければならない。

 ③でたらめな「階級裁判」規定
 そのふたつめは、差別糾弾闘争ではなく「階級裁判」だとする主張である。
  「国家権力と非和解でたたかう石川一雄さんは、まさに労働者階級の指導部だ。狭山闘争は、石川さんを階級の指導部として、労働者階級が、国家権力による差別分断・団結破壊の攻撃としてある部落差別を裁く階級裁判だ。」(『前進』無署名文章)
 これが、彼らの言うところの「狭山闘争」のすべてである。だが、ここには、<糾弾>という概念がまったくない。「部落差別を<裁く>階級裁判」(?!)いったい全体、どこからこのようなでたらめな規定を引っ張り出してきたのか。かつて、70年代の狭山闘争において、新左翼の一部の諸君たちが狭山差別裁判にたいして「階級裁判」などという規定を行って解放同盟をはじめとした狭山闘争勢力からひんしゅくを買い、徹底的に批判、糾弾されてこのような主張が戦列のなかから消滅したことがあったが、まさに、この漫画的焼き直しである。
 では、なぜ<糾弾>ではなく<裁く>なのか。もちろん、<糾弾>のなかには、<裁く>という要素も含まれる。だが、<糾弾>という概念は、得手勝手に書き換えていいようなものではないのだ。水平社いらい、どのような弾圧や迫害にも屈せず、どのような融和主義的誘惑をもはねのけて、部落大衆は、いったい、なぜ、<糾弾>という言葉を大事にしてきたのか。<糾弾>という言葉には、部落民の差別にたいする根源的な人間的怒りと、部落民自主解放の魂がこめられているからだ。<糾弾>とは、まさに部落解放運動そのものであり、水平社いらいの連綿たるたたかいによって日本階級闘争のなかに打ち立ててきた、他のなにものにも変えることのできない概念なのである。
 これは、部落解放運動に少しでも主体的に関わってきた者なら誰でもわかることである。この筆者(革共同政治局は)、「階級裁判」なる陳腐な概念を引っ張り出すことによって、じつは、部落解放運動についてまったく知らないということを自己暴露している。
 だが、知らないだけではない。この文章では、<糾弾>という基本的な考え方を否定するために、あえて<裁く>とか<階級裁判>などという概念がきわめて意図的に使用されているのである。それは、<差別糾弾闘争>としての狭山闘争を解体し、<階級裁判>なるインチキな規定をもって、狭山闘争を一般的な「裁判闘争」に解消しようとするものに他ならない。そもそも、およそ帝国主義の世の中において行われるどのような裁判もすべて「階級裁判」に他ならないではないか。
 しかし、これは、狭山闘争を権力にとって無害なものに変質させる極反動的な主張である。狭山事件は、<部落差別犯罪>だからこそ問題なのであり、<差別糾弾闘争>だからこそ部落解放運動の天王山のたたかいであり、そしてまた、日本階級闘争のなかに決定的な位置を確立してきたのだ。

 ④手前勝手な歴史の偽造
 みっつめは、70年代の狭山闘争に関する驚くべき歴史と内容の偽造である。
  「70年代、労働者は反合理化・賃金闘争をたたかい職場から狭山闘争に続々と決起していった。主力は4大産別だった。日比谷公園を11万人で埋めた74年9月の第二審公判闘争を頂点に、ストライキや戦闘的デモをやりぬき逮捕や処分の攻撃も受けた。このとき『支援・連帯』の枠にとどまらないで労働者の団結を拡大するたたかいとしてたたかわれていたら、34年前の10月31日、東京高裁寺尾裁判長は無期懲役判決を下すことはできなかっただろう」(『前進』無署名文章)
 何という、ふざけた客観主義か。この文章は、10/31のあの悔しさを知らない人間、当時のたたかいを他人事としか見ていなかった人間が書いたものとしか言いようがない。寺尾を真っ正面からにらみつけて微動だにしなかった石川一雄さんの無念はいかばかりだったか。一緒に帰れるものと思って風呂までわかして待っていたご両親の無念はいかばかりだったか。福岡の部落青年は、本部派の制動、弾圧を受けながら、決死隊をつくって高裁に突入しようとまでしたのだ。この煮えたぎるような怒り、無念を共有している者には、このような客観主義的評論など一行たりとも書けないはずである。
 この70年代の狭山闘争は、いったい、どのようなプロセスを経て巨大な階級的共同闘争へと発展していったか。「労働者は反合理化、賃金闘争をたたかい、職場から狭山闘争に続々と決起していった」などという客観主義的評論ですませられるほど簡単なことではなかった。当時の総評に狭山署名(第一次百万人署名)を持ち込んだ西岡氏(当時の狭山闘争本部長)は、何度も断られながら、ねばり強く説得を繰り返している。総評が取り組みを決定し、それが傘下の全組織に浸透していくまで、じつに何十回も足を運んでいるのである。
 「主力をなした4大産別」の決起をきりひらいたのは、他でもない自治労現業をはじめとした部落出身の労働者の決起である。しかも、そのたたかいは、職場のなかでの部落民宣言、部落解放研究会の結成と労働組合に認めさせるたたかい、労働組合にたいする狭山闘争への取り組みの不屈の働きかけなど、まさに火をはくような糾弾闘争としてたたかいとられていったのだ。また、とりわけ教育労働者の決起にとって決定的な契機となったのは、部落の子どもたちの決起であった。
 まさに、このような必死の、汗みどろのたたかいを通して、差別徹底糾弾の主張が既存の指導部の制動を突き破って、労働者階級の心をとらえ、狭山闘争への爆発的な決起をつくりだしていったのである。ここには、したり顔の客観主義的評論などが通用するような余地はミジンもない。

 この文章には、いまひとつの歴史の偽造がある。それは、寺尾判決の責任の一端が解放同盟本部派の指導路線にあったことの隠蔽であり、免罪である。
 74年の寺尾判決の原因を、「『支援・連帯』の枠にとどまらないで労働者の団結を拡大するたたかいとしてたたかわれていたら」などと一般化することなど断じて許されない。解放同盟・本部派による<公正裁判要求路線>による糾弾闘争の否定、寺尾にたいする完全な武装解除と、屈服。これこそが、寺尾判決にいたった最大の主体的な原因なのだ。これは、同時に、本部派指導を乗り越えてたたかいの全体を指導できなかったわれわれじしんの問題でもある。
 そして、だからこそ、80年代の荒本支部を先頭にした部落大衆の三里塚闘争への総決起があり、本部派との壮絶な処分闘争をたたかい、全国連の歴史的創立にいたるたたかいがあったのだ。これこそが<生きた><真実の>狭山闘争の歴史である。

 ⑤「資本主義が終われば差別はなくなる」とする主張
 よっつめは、狭山闘争をまともにたたかうことは必要ないとする主張である。
  「資本主義をおわらせることと、石川一雄さんの無実をはらすことはイコールだ」(『前進』無署名文章)
 これが、彼らの結論である。まさに、驚くべき主張である。つまり、彼らにとって狭山第三次再審などどうでもいということであり、「資本主義がおわればすべて解決するんだ」ということである。これこそが、彼らの本音であり、主張のすべての核心である。
 ところで、「資本主義をおわらせる」とは、どういうことであろうか。この文章のどこにも、<プロレタリア革命>とか、<プロレタリア独裁>とかの労働者階級による資本主義の転覆と労働者階級による独裁権力の樹立といった主体的なたたかいの記述がまったくない。つまり、この「資本主義をおわらせる」とは、「はやく資本主義はおわってほしい」という待望論、願望でしかないということだ。
 だが、「資本主義」というのは、勝手に終わってくれるようなものではないのだ。資本主義とういうものは危機になればなるほど、全世界を戦争に巻き込んで延命しようとするものであり、部落差別や民族差別・排外主義などの社会的差別を極限までまきちらして生き延びようとするのである。だからこそ、本当に資本主義とたたかうものは、彼らのように「革命」を空叫びする者ではなく、この戦争や差別と真剣にたたかうものなのである。
 重要なことは、この彼らの主張は、裏返せば、「資本主義があるかぎり差別はあっても当然だ」「たたかってもしようがない」と言っているということである。数ヶ月前に、革共同党員であるK(市会議員)が自らが開設したブログで、「差別があっても、資本家が労働者を分断するために差別を利用しているのだから、差別した労働者は悪くない」などという主張を出して、それを見た労働者から糾弾され、あわててひっこめたという出来事があったが、まさに、これは、「部落差別も、民族排外主義も、みんな資本主義が悪い」「だから、労働者が差別しても、それは当たり前のことなのだ」という主張である。
 だが、こういう考え方は、「革命」や「労働者階級の解放」とは無縁な考え方である。われわれは、資本主義が終わろうが終わるまいが、部落差別と徹底的にたたかう。資本家のためであろうが誰のためであろうが、狭山差別裁判を一刻たりとも許すことなどできない。こういう真剣な立場に立ってこそ、部落差別を生み出す元凶としての資本主義の階級支配を真に打ち倒すことができるし、その陣形と力が創りだされていくのである。

3)部落解放運動を否定する革共同
 ①あまりに貧困な部落問題認識
 革共同の差別主義的腐敗を示す第2の核心は、超がつくほどでたらめな彼らの「部落問題」認識である。
 ここで出されている彼らの「部落問題」に関する認識は、以下の通りである。
  「部落民は、資本主義・帝国主義の下で、労働者階級の団結を破壊するために『人間外の人間』として差別され迫害されてきた。生まれによって人生が決められてしまう身分制度はないはずの世の中なのに、そうではない。部落民は身分的差別を受けて階級内部で分断され、最底辺の賃金奴隷にされて食うや食わずの極限的な搾取を受けてきた」
  「資本家階級は、明治維新から3年後に労働者権力の樹立(パリコミューン)に直面、労働者階級の団結した力と革命にたいして恐怖と憎悪をいだいた。資本の蓄積もないまま植民地を奪い合う戦争ができる帝国主義に一気に飛躍しなければならなかった。ここから部落民をはじめ被差別人民を、これ以上ない劣悪な条件の労働に突き落としてはいあがれないようにしておいて、労働者階級全体を分断して搾取するテコにしていったのだ」
  「部落民はつねに仕事にあぶれる最底辺の賃金奴隷として搾取されてきた。教育を受ける機会を奪われ、定職につけず、差別が再生産されてきた。存在が資本家の支配を脅かすとして治安の対象にされてきた。部落差別は賃労働と資本の関係の外にあるのではなく、『非資本主義的要素』でないことを石川さんじしんが証明している」(『前進』無署名文章)
 まったくおそまつきわまりない、没「理論」的内容、一知半解な「認識」の羅列というほかない。
 明治維新以降の日本の資本主義への推転の過程や、列強と対抗しつつ帝国主義として確立していく過程の認識そのものがでたらめなのだが、問題は、彼らの部落問題認識が、<部落民を低賃金で劣悪な労働条件においやり><労働者階級を分断して搾取するようにした>ということでしかないということにある。これが彼らの言うところの<部落問題>のすべてなのだ。
 これは、かの「朝田理論」(3つの命題)の言うところの「低賃金の沈め石」論以下の駄文でしかない。「朝田理論」には、まだ、不完全で誤謬にみちたものであれ、部落差別意識を問題にしたり、「低賃金の沈め石」が生み出される構造を「主要な生産関係からの排除」などという形で分析を試みたりといった、部落差別の身分的差別としての全体をみようとする意図があるが、ここにはそういうものさえまったくない。ただただ、「労働者階級を分断して搾取する」というお題目を繰り返しているにすぎないのである。
 なぜか。その理由は、<身分的差別>としての部落差別の中身をまったく理解できない、いや、見ようとしていないからだ。「身分的差別」という用語が一言出てくるが、その中身については一顧だにされない。彼らにとっては、ただただ「階級の分断」だけが問題とされ、身分的差別によって生み出される部落民においする全人格的な差別、抑圧、迫害などはどうでもいいものとされているのである。
 そして、<身分的差別>としての全人格的な差別、迫害という認識がないことによって、「部落民はつねに仕事にあぶれる最底辺の賃金奴隷として搾取され→教育を受ける機会を奪われ→定職につけず→差別が再生産されてきた」などという、ひからびた「悪循環論」に至らざるをえない。ここには、帝国主義国家権力による政治的、イデオロギー的、法的な差別、迫害という決定的要素がすっぽりと抜け落ちてしまっている。狭山差別裁判にたいして、<国家権力による部落差別犯罪>だとして問題を措定できない「理論的」根拠がここにあるのである。

 ②部落差別の「自然消滅論」
 以上のような、部落問題の認識におけるでたらめさは、まだ彼らの差別主義的本質の一側面でしかない。もう一方の側面は、このような没理論的認識にもとづいて、革共同は、いまや、部落差別の「自然消滅」論ともいうような暴論をはいていることにある。
  「被差別・被抑圧人民は、労働者が団結して階級としてたたかいぬいている時、その中で内在的に共同性を得ることができ階級的に団結できる。被差別・被抑圧人民とともに労働者が新自由主義と非和解でたたかい、階級的団結を拡大して、資本家階級を倒して資本主義を終わらせ賃金奴隷制を廃止する。そのとき抑圧ー被抑圧、差別ー被差別の関係は消滅する。賃労働と資本との関係の廃止こそが部落解放、民族解放になるのだ」(『前進』  無署名文章)
 短い文章だが、その内容は、部落差別(民族抑圧も)の「自然消滅論」としか言いようのない代物である。ここにあるのは、「労働者が階級的に団結して資本主義を終わらせたら部落差別も、民族抑圧もみんななくなるのだ」という無内容な空文句だけである。
 この主張のでたらめさの第一は、被差別・被抑圧人民による<差別糾弾>、あるいは<民族抑圧にたいする被抑圧民族の自己解放闘争>という契機を完全に抹殺していることにある。そして、だからこそ、<労働者階級がみずからの階級的団結を拡大していくために差別主義や排外主義と自覚的にたたかっていく>という契機も完全に抹殺されている。かの<7月テーゼ>でさえ、まだ<血債><つぐない><糾弾>というものをペテン的にではあれ形の上では論じていた。また、<糾弾>についても、<国家権力にたいしてのみ許される>というようなインチキな枠をつくってではあれ、一定認めるようなポーズをとってきた。だが、ここには、そのかけらさえない。
 それにしても、<労働者が団結して階級としてたたかいぬいているとき><そのなかで内在的に共同性を得ることができ階級的に団結できる>とは、何という傲慢きわまりない言い方であろうか。平たく言えば、「労働者が団結して階級的にたたかいぬいていれば、部落民もそれによせてもらえる」という訳である。だが、こんなものに「よせてほしい」などと思う部落民など一人としていない。また、このような傲慢な連中に「資本主義を終わらせる」期待をいだくような労働者も一人としていない。部落民は、みずからの手で差別を糾弾し、自らの手で奪われた階級的団結を取り戻すことのできる誇り高い存在なのである。

 この主張のでたらめさの第二は、いまや革共同の諸君たちはスターリン主義的な唯物史観の客観主義的歪曲に転落し、マルクス主義そのものを似て非なるものへと変質させているということにある。<資本家階級を倒して資本主義を終わらせ賃金奴隷制を廃止する。そのとき、抑圧ー被抑圧、差別ー被差別の関係は消滅する><賃労働と資本の関係の廃止こそが部落解放、民族解放になるのだ>このような主張はマルクス主義とは無縁である。
 こういうことを言うと、「資本主義の廃止に反対している」などと言った勝手なデッチあげ的非難をあびそうなので断っておくが、<賃労働と資本との関係の廃絶=プロレタリア革命による資本主義の打倒>こそ、部落解放の唯一の道筋である。そしてまた、労働者階級は、賃金奴隷としての自らの解放を通して、全人民の普遍的解放を実現できる唯一の階級である。このマルクス主義の核心は、革共同の諸君たちの薄っぺらな認識いじょうに、われわれの深い確信であり、たたかいの土台である。
 だが、それは、プロレタリア革命によって自動的に、あるいは「自然に」なくなる訳ではない。「革命」を叫ぶ革共同の諸君たちの差別主義的腐敗の現実が、そのことを唯物論的に物語っているではないか。また、こういう主張をしたのは「社会主義」の名をもって民族抑圧を行ったスターリンであって、マルクスでもレーニンでもない。ぎゃくに、マルクスやレーニンは、プロレタリア独裁はまだ共産主義ではないこと、プロレタリア独裁のもとでの世界革命の完遂と、旧社会の汚物を一掃し、共産主義の実現に向かって全人民の「融合」への自覚的なたたかいが必要であることを口を大にして訴えている。まさに、プロレタリア革命にいたる階級的団結の形成の過程における自覚的なたたかい、プロレタリア独裁の樹立とその統治のもとでの自覚的なたたかいによってこそ、部落差別の撤廃は真になしとげることができるのである。この<自覚的なたたかい>こそが部落解放運動なのである。
 
4)おわりに
 いまや、革共同は、現実の階級的攻防とはまったく関係のない自己満足、自己陶酔を目的にした集団へと転落した。彼らが鏡の前に立てば、そこには腐臭ぷんぷんたる差別主義、排外主義のおぞましい姿が映っているに違いない。このようなものは、たたかう部落大衆や、労働者の誰からも相手にされず、忌み嫌われ、歴史のくずかごに捨てられるであろう。
 だが、自分たちの内側だけで自己陶酔するのは勝手だが、現実の階級攻防のなかで、必死になってたたかうものの足を引っ張り、たたかいを妨害することは断じて許されない。いまや、狭山第三次再審闘争は、東京高裁・門野による第三次再審棄却攻撃との緊迫した決戦局面に突入しているのだ。
 これまで見てきたように、革共同が狭山闘争を「たたかう」理由などどこにもない。彼らは、ただただ、全国連のたたかいを妨害し、全国連の分裂をたくらみ、部落解放運動を消滅させようという目的のためだけに、「狭山闘争」を口にしているということだ。これが、彼らの言う「10・26集会」なるものの本質である。
 全国連は、このような卑劣な目的のために狭山闘争をもてあそぶような行為を絶対に許さない。広島差別事件糾弾闘争は、まだ、ほんのとば口についたばかりである。このたたかいは、必ずや、差別集団=革共同を解体し、差別主義、排外主義とたたかう巨大な階級的陣形の形成にいたる壮大なたたかいとなって爆発していくに違いない。
 革共同の敵対を粉砕し、10・26狭山中央闘争(星陵会館)ー10・27高裁・高検糾弾闘争、国土交通省糾弾行動に総決起しよう。

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