狭山差別裁判 無実の証拠をぜんぶだせ その2

(2008年08月10日)

  カバン、万年筆に関わるすべての書類を開示せよ
寺尾確定判決では、「自白に基づいて捜査した結果発見するに至った証拠」として、カバン、万年筆、腕時計の「3大物証」と吉沢栄証言の4つがあげられています。とくに「3大物証」は、真犯人しか知らない秘密の暴露によってみつかった証拠であるとして、寺尾確定判決を支える重要な役割をはたしてきました。しかし、真実は逆です。「3大物証」は、すべてが警察によるねつ造であり、石川さんの無実を証明しているのです。このうち腕時計については、本ニュース138号(07年7月発行)でとりあげましたので、今回はカバンと万年筆についてみていきます。
証拠なき不法逮捕と差別によるデッチあげ
カバンは、その発見に先立って、関連する「自転車荷台のゴムひも」が、5月3日(金)の午前8時から、地元消防団、機動隊など百数十人が付近一帯を捜索した、第1回山狩りのときに見つかっています。14時25分ごろ、関巡査部長が、薬研坂の雑木林のなかから見つけました。
5月8日(水)には、特捜本部が、カバン・万年筆・腕時計、筆箱、チャック付財布の所持品5点の品ぶれを発表しました。それによるとカバンは、皮製で上から底までチャックになっているダレスカバン。万年筆は、パイロット製オレンジ色で、白ビニール製の筆箱にいれていた、と思われるとのことでした。しかし、品ぶれ発表の効果はなく、その後も被害者と事件をむすびつける証拠は、何一つ見つかりませんでした。
そして5月23日、脅迫状関係と遺体いがいの物証も、事件にかかわる目撃証言も何一つえられていないにもかかわらず、石川一雄さんが不当逮捕されます。この証拠なき不法逮捕こそ、警察が石川さんを部落民であるという、ただひとつの理由で誘かい・殺人罪の犯人にデッチあげたことを示す何よりの証拠です。絶対に許せません。

現場とちがう教科書発見現場見取図
見取り図 石川さん不当逮捕から2日後の5月25日(金)午前10時ごろ、宮岡貞夫さんが、ゴムひも発見現場から西へ200メートルのところで、教科書、ノート類を発見。雑木林と桑畑のあいだの溝(根切り)に1メートル20センチにわたって13点が、厚い本は1冊、薄いノートは2〜3冊の3つの山に分けて並べて、足で畑側の土を上からかけたような状態でうめてありました。しかし、中学時代に使用していた教科書やノートが含まている一方、その日に学校で使ったはずのペン習字の本がありませんでした。
そのうえ、このときの実況見分調書に添付された「被害者中田善枝の教科書発見現場見取図(その1)」には、現場を知っている地元の人間では絶対にしない、まちがいがありました。すなわち教科書発見現場が、雑木林と畑の境界線に、木の根が畑にはいらないように掘ってある溝ではなく、それよりもずっと北側の畑の真中をつらぬいてはしっている堀として描かれていたのです。
その後も捜査はいっこうにすすみません。それは、なによりも石川さんが「やっていない」と真実をのべて頑張っていたからです。石川さんにウソの「自白」をさせ、それにあわせて証拠をねつ造する、という警察のえがいた筋書きは、石川さんの奮闘によって1ヶ月も阻止されつづけたのです。

発見されたカバンは警察によるねつ造
業を煮やした警察は、猿芝居をえんじて石川さんをワナにはめようとします。そのときのことを石川さんは、つぎのように証言しています。

『石川君、カバンはどこにあるのか教えてくれないかな』と言うので、私は、狭山署にいたとき、(ウソ)発見器の先生に本が出たところの地図を見せられていたので、だいたいの見当で『横山米店さんの山に穴が数個あるから、その穴の中のどれか』と、このように説明して、地図を書いて渡しました。そしたら関さんと知らない人と二人で探しにいきました。その後、長谷部さんがこのように言いました。(中略)
『吾は、おそらく見つからないと思うが、本当はこの本が出た所のような川ではないのか。それとも何処か違うところかな』と言うので、『長谷部さん、ここは川ではなく、木の根が畑に入らないように掘ってある溝ですよ』と教えてやりました。
そしたら長谷部さんが、『それでは、そこの溝かも知れないな。この溝を書いてみないか。吾は、ここらあたりから出そうな気がするな』と言うので二枚目の地図を書きあげ…(後略)。

このように長谷部は、石川さんを誘導し、あらかじめ警察がカバンをかくしておいた溝を地図に書かせたのです。そのため、石川さんが書いたとされる2枚目の地図には、現場を知らない警察が石川さんを誘導するために参考にした「被害者中田善枝の教科書発見現場見取図(その1)」とまったく同じように、溝が堀とまちがってかかれているのです。もちろんカバンもニセものです。6月21日(調書の日付)に発見されたとするカバンは本革製品で、善枝さんの「一見、革製に見えるダレス製カバン」ではありませんでした。
私たちは、このようなデッチあげをあばくために、石川さんが調書への添付用に書かされた図面のすべてを、その書き損じも含めて開示することを求めます。

万年筆の「発見」はどうだったか?
六月二五日の朝だと思います。長谷部さんが『石川君の家から、善枝さんの万年筆が見つかったとよ、よかったな。だが、こっちにまだもってきていないらしいのだよ。それで、石川君の家の者に怪しまれないようにあがれる友達はいるかい』と言われたので、『私の友達はいないが、清(弟)の友達なら、忠男さんが毎日あがって遊んでいくから大丈夫だと思いますが、どうでしょう』と言いました。いまになってわかたのですが、万年筆が見つかったといいながら持ってこずに、私の友達に持ってこさせようとするのはおかしいと思えてなりません。
そこで長谷部さんが、『石川君、善枝さんを殺した際に、風呂場の方からあがったと、この前話したっけな。その時、鴨居の上にのせたのではないのか、なんだか、そこいらあたりから出てきたと言っておったよ』と言うので、『それだと、シキイの上に五円のカミソリが二〇本くらいあったはずだが、わからなかったでしょうか』と尋ねますと、『そのことは後で聞いてみるから』と言うので、シキイの地図を書きました。

指紋もなければ、インクもちがう万年筆
6月26日、カモイのうえから発見された万年筆は、石川さんの指紋はおろか、被害者の中田善枝の指紋さえついていません。おまけに万年筆の中のインクは、善枝が事件当日の5月1日につかっていライト・ブルーではなく、ブルー・ブラックでした。発見された万年筆は善枝さんのものではないのです。万年筆をいれていたと思われる筆箱は、いまだに、どこにあるのか分かりません。チャック付財布も出てきていません。
そもそも5月23日(1度目の逮捕)と6月18日(2度目の逮捕)の2回にわたって徹底的に調べられたカモイの上から3回目の家宅捜査で万年筆が出てくるわけがないのです。実は、発見の2日前の24日に関が石川さん宅をおとづれ、カモイのある勝手口からあがりこんでいたのです。このときの様子を石川さんの父・富三さんは、次のように語っていました。「関は、一雄が逮捕されてから、一日おきくらいで来ていたのですけれども、こっちがあがってくてと言っても、1回もあがったことはないです。ところがその日は、朝早くから来て、お勝手口から勝手にあがっちゃったです。おばあさんが『なんですか』って言うと、『一雄君のシャツをとりにきた』というわけだ。で、おばあさんがこっちにとりにいったルスに、そこえ置いてかえっちゃったわけなんです」と。
私たちは、家宅捜索の状況、発見・押収の状況を十分に検証するために、石川一雄さん宅の63年5月23日、6月18日および6月26日の捜索差押の状況を撮影した写真ネガの開示を求めます。
(『狭山闘争ニュース』148号 2008年8月10日)
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