被爆63周年 8・6ヒロシマ集会が成功

(2008年08月13日)

  改憲と戦争、差別とたたかう共同闘争の新しい土台築く
8・6ヒロシマ 8月6日、広島厚生年金会館において、「被爆63周年、8・6ヒロシマ集会」が、210人の参加をえて歴史的な成功をおさめました。
いま、福田政権のもとで改憲と侵略戦争への加担の攻撃が吹き荒れています。先日のサミットでは日本政府の提唱のもとで、核兵器の製造のための原発推進の 決議が行われました。このようなきな臭い時代のなかで、しかし、たたかう人民のなかに排外主義や差別主義が持ち込まれ、アジア人民への加害の事実が忘れ去 られようとしています。排外主義や差別主義に屈しては、真に戦争とたたかう運動はつくることはできません。
わたしたちのこの思いは、8・6集会の大成功によっておおきく結実しました。広島差別事件からおよそ一年、差別徹底糾弾をつらぬき、このなかから戦争と 改憲の大反動とたたかう階級的共同闘争を一から造り直そうとしてきた全国連のたたかいは、ここに新たな、画期的な一ページを開いたのです。210人の参加 はけっして大きな数ではありません。しかし、この参加者と陣形は大きな可能性を秘めています。ヒロシマ集会の感動と成功を、全国連全同盟員と労働者階級、 人民の共同の財産として、福田政権による戦争、改憲、生活破壊の攻撃を打ち破る巨大な階級的共同闘争を発展させていこうではありませんか。


210人の参加で大成功
集会の司会は、広島の教育労働者である西森さんと、全国連広島支部青年部長の金平玲さん。オープニングでは、岡山ピースアクトの福力さんによる歌、山田公子さんによる「原爆許すまじ」の独唱、山田さんの指揮による参加者全員での「原爆許すまじ」の合唱が行われました。
集会では、最初に、李金異さんの紹介によって、福島町の3人の方から被爆体験が語られました。つづいて、被爆3世の青年をはじめとした福島町の青年によって、福島町での被爆体験の聞き取りのなかでつくられた詩の朗読が行われました。
つづいて、沖縄の米軍普天間基地の撤去のためにたたかってこられた島田善次さんから、「日本と沖縄」と題する講演が行われました。原告団長として国を相手に普天間基地撤去の訴訟に勝利した島田さんの訴えは全参加者の胸に響きました。
第2部では、冒頭に沼田鈴子さんのメッセージの紹介、全国連山口陶支部による山口・長生炭坑の「水非常」を描いた紙芝居の上演、最後に主催者と実行委員会を構成する諸団体、個人、賛同する人々からの訴えのあと全国連の中田書記長によるまとめが行われました。
集会への参加は210人、参加者は口々に「感動した」「来年はもっと連れてきたい」と語るなど、はじめて取り組んだ手作りの8・6ヒロシマは歴史的な成功をおさめました。

福島町の青年が被爆者の思いを引き継ぐ詩を朗読
福島町の青年は、三年前から地元福島町で、被爆者からの聞き取りに取り組んできました。そして、この集会のために、聞き取りを通してつくった詩を朗読してくれました。被爆者の怒りと思いはいかばかりか。聞き取りを通して青年たちがつかみ、感じた原爆への怒り、みんなに伝えたい気持ちのこもった詩の一部を紹介します。

63年前の8月6日、一瞬ですべてを奪った原爆。たったひとつの爆弾で、人々の希望を絶望に変えた。63年経ったいまでも苦しむひとがいる。
私は戦争をしらない。しかし、いまも、悲しみ、苦しむ人がいる。もっと多くの人に伝えたい。伝えるだけでも変わるかもしれない。
希望をもって、いつまでもいついまでも前に向かって進んでいきたい。

体験を伝えることが生きる証
被爆体験者の証言

平野さん
警戒警報の解除と同時にドッカーンときた。私は頭のてっぺんから足の爪まで被爆しました。外は昼間なのに真っ暗、夜と同じでした。
家の人を探そうと太田川の放水路に出てみたら、市の中心部は火の海。そのときに、真っ黒い雨がふってきました。近所のおばさんがふとんをかけてくれましたが、そのおばさんは、自分は家族を捜しに行って雨に打たれ、その後、肝臓が腫れ上がって亡くなりました。
私は全身にケロイドができて動けず、蚊帳のなかで寝ていましたが、ハエがケロイドの中に卵を産み付けてウジがわいてきました。薬もなく、お母さんがキュウリをすってはってくれました。
私には兄がふたりいましたが、1人は私より火傷はずっと軽かったのに、一ヶ月くらいしたら急に熱がでて亡くなりました。もう1人は、12〜13年前に亡くなりましたが、原爆の影響でしょうか、若い頃からずっと体が悪かったのを覚えています。

中田さん
小学校1年のとき、学校で被爆しました。なぜ、夏休みに学校に行ったのか今でもわかりませんが、覚えているのは、上級生が下級生をかばって、壁の下に座らせて上から覆いかぶさってくれたことです。このときの上級生は、その後、白血病などで、みんな亡くなってしまいました。
こういう話ができるということは、私がまだ生きているということです。まだ生きているということは、余分に生きているのではない。8月6日に、何があったかを伝えるために生きているということだと思っています。
若い頃は、体が悪くなると、原爆症ではないかと不安になりました。でも、こうして生きていますが、私を大八車にのせて遠い病院まで毎日はこんでくれた母のおかげだと思っています。この恩をわすれずに、生きている限り、伝え続けていきたいと思います。

李さん
11歳のときに被爆しました。母のいいつけで外に出たときにピカーときました。とっさに顔をふさいだのは覚えていますが、たぶん爆風で飛ばされたのか、気がついたら何かの下敷きになっていました。
周りをみたら火の海、母を捜そうと思って太田川の土手にあがったら、真っ黒い雨がふってきました。
私は、顔の半分が焼け、水ぶくれになって垂れ下がり、泣きました。このときに、「泣いたらいけんよ」と近所の人に言われたのを今でも覚えています。近所の人は「もう、この子はだめだ」と言いましたが、母が一生懸命看病してくれて元気になりました。薬もないのに、キュウリやジャガイモをすってぬってくれたり、ヒバの葉の塩もみをはってくれたり、本当に一生懸命看病してくれたのです。 私もいまだに後遺症に苦しめられていますが、生きているかぎり私の体験を伝えていきたいと思います。


普天間基地爆音訴訟原告団 島田善次さんの訴え
島田善次さん 沖縄は日本ではない 
私は1940年生まれ、この目で地獄を見てきました。そして、この目で見て、いまの日本は再び同じ道を歩んでいる。絶対に許してはなりません。
沖縄は日本ではありません。米兵による犯罪にたいして、「司法権は放棄する」と政府は言っている。沖縄の人は米兵によって石ころのように扱われてきた。6歳の子どもが米兵に暴行されて殺されても、裁くこともできない。このくやしさがわかりますか。
戦後60年、日本は戦争をしていないと言う。しかし、冗談じゃない。ベトナム戦争には、いったいどこから出撃したのか。
自分の手で家族を守る
普天間基地の辺野古への移設と言うのは真っ赤なウソ。普天間にはない軍港、弾薬庫を備えた最新鋭の基地をつくるということです。
これに、沖縄の人がなぜ反対するのか。戦争の体験があるからです。自分の手で泣く泣く子どもを死なせた母親もいるのです。
私が普天間基地の撤去に立ち上がったのは、子どもが爆音で乳を飲まなくなったことがきっかけ。自分の手で家族を守ろうと思ったのです。市長のところに行ったら「基地は金になる」ととんでもないことを言われ、直接、米軍に談判にいきました。それから、基地の前に座り込み、400人の原告団を組織して国を相手にして訴訟を起こしました。
この裁判には勝ちましたが、飛行の差し止めはなし。裁判所は、「日本は土地は貸しても、米軍の行為には口出しできない」と言いました。いったい、どこに主権があるのか。私は日本政府は信用しません。そんなんなら、まだ、ネコの方が信用できます。
体験を経験に
戦争の体験は大事。しかし、体験を経験にしないとだめ。経験とは、二度と同じことを繰り返さないという思想、意志をもつということです。
日本政府は、寝たきりのお年寄りから税金や介護保険料をむしりとって、イージス艦を作っています。人殺しの兵器の方が大事だということです。たたかわなくてはなりません。力をあわせて、同じ過ちを繰り返さないようにしましょう。

ドイツで8・6ヒロシマ 森島先生からの電話報告
「日・独・中移動平和絵画展」のためにドイツ、カッセル市を訪問中の森島吉美先生(広島修道大学教授、8・6ヒロシマ集会呼びかけ人)から、電話で集会へのメッセージがとどきました。ドイツ、広島と距離は離れていても心はひとつ、熱いメッセージに、ドイツに届けとばかりの拍手がわきおこりました。
いま、7人の学生とともにドイツのカッセルにいます。今日の夕方には、ここカッセルのフルダ川というところで、8・6ヒロシマの記念式典が行われ、灯籠流しも行われます。遠く離れていますが、みなさんと心は一つです。
このフルダ川には、8・6に取り組むことを記念して「ヒロシマ河畔」という標識がつくられることにもなっています。ここドイツでも、8・6ヒロシマは、反戦、反核を願う人々の合い言葉です。これから、8・6ヒロシマは、ぜひ、全世界をかけめぐる取り組みにしていきたいと思います。来年は、みなさんといっしょに、もっと大きな集会にしましょう。

沼田鈴子さんの「女性の力で8・6集会を成功させよう」へのメッセージ
女性のパワーでヒロシマからいのちの叫びを世界に発信しようと集会をなさいますことに大変心強く勇気をもらいました。地球上では草も木も花も動物も人間と共に輝く生命を大切に生きていますが現実の今はどうでしょうか。平和の原点は相手の痛みの分かる心を持つ人間であること平和はじっと待っていても本当の平和はきません。人間の素晴らしい知恵と勇気と努力によってつくりだすのです。生きぬく未来のために人類が犯した過ちを再び繰り返さないために人類が幸せに生きのびるために反戦、反核、反差別、環境汚染、自然破壊反対などの運動にしっかり目をむけ真実を知る力のもとに憲法9条を大切に頑張ってゆきましよう。集会のご盛会を祈っています。
沼田鈴子さんプロフィール
●1945年 広島逓信局内で被爆
●1982年「にんげんをかえせ」の映画
製作 欧米に平和行脚
●1983年 21カ国で被爆証言
●広島アジア友好学院院長、広島市原爆被害  者の会顧問ほか

陶支部による紙芝居の上演 「アボジは海の底」 陶支部の紙芝居 全国連の山口・陶支部のみなさんによって、長生炭坑の水非常を歴史に刻む会がつくった「アボジは海の底」という紙芝居が上演されました。
「水非常」とは、1942年2月3日、山口県の長生炭坑で沖合一キロにのびた海底の坑道で落盤・水没事故が起こり、183人の労働者が犠牲になった事故のことです。このうち、130人が日本軍による強制連行によって無理矢理につれてこられた朝鮮人労働者でした。
長生炭坑の水非常を歴史に刻む会は、日本の侵略戦争と民族抑圧への反省とつぐないをこめて、毎年、韓国から遺族を招いて追悼式を行うとともに、証言の収集や、追悼碑の建立の活動を行っています。 陶支部のみなさんも、この会に参加して活動しています。熱のこもった紙芝居の上演は、歴史の真実を知らせるとともに、全参加者の胸をうちました。

諸団体、個人からの訴え

松井邦雄さん(元広島市議)
  いまから53年前に第一回目の原水禁の大会が開かれた。そこで被爆者の方から、「8・6をイデオロギーを越えた広範な大衆運動としてつくっていってほしい」と訴えられた。しかし、いま、この訴えに反することになっている。もう一度、原点に立ち戻ろう。本当の運動は数の多い少ないではない。

全国連広島支部青年部
8月の30日、この広島で、全国の青年の交流集会を行います。8・6の思いを引き継ぎ、青年が仲間や友人をつくれる場としたい。

全国連西郡支部青年部
6月13日、大阪の西郡で広島差別事件の真相報告集会をもつことができました。支部は、私が広島差別事件に取り組んでいることを理由に支部大会から排除しました。しかし、村の人は私の方を応援してくれています。 八尾市は、供託者にたいして2回目の預金差し押さえを行いました。八尾市を絶対に許さない! 徹底糾弾をたたきつけます!

同和住宅家賃値上げ反 対全国連絡協議会
サミットで原発の推進が打ち出された。許せない。来年はこの集まりを数倍にして、戦争をくいとめるたたかいを全国に発信しよう。西宮市は、供託者にたいして明け渡しの提訴に踏み切った。しかし、私たちは屈しない。真っ向から対決してたたかう。7月27日に、同住連を支える会が結成された。1万人の賛同をかちとって、住宅闘争に勝利する。

全国連長野県連
9月28日に長野で広島差別事件の真相報告集会を開催する。部落差別や民族排外主義が渦巻く階級支配の生々しい現実とたたかわない革共同の腐敗と敵対を絶対に許さない。これからもともにたたかおう。

平田仁士さん(広島県教職員組合)
私の母は8月6日になるといつも母の弟の話をする。がれきの下敷きになって死に、軍服のきれはししか回収されなかったと言う。戦争は帝国主義がいきずまって、他国を侵略することで起こる。労働者は、他国の人々を差別、抑圧することで戦争の加担者になる。だから、部落差別とのたたかいは戦争とたたかう上で決定的。私は、学校の現場でたたかいぬいていきたい。

この他にも、杉並8・6ヒロシマ行動団、島根の部落の婦人、滋賀の部落の婦人、「障害者」の高校入試の運動に取り組んでこられたお母さん、重慶大爆撃の被害者と連帯する会の方々からの訴えが行われました。

まとめ(全国連書記長・中田潔さん)
いま、改憲が叫ばれ、戦争の足音が聞こえるきな臭い時代のなかで、だからこそわたしたちは、この時代に立ち向かっていかなくてはなりません。 しかし、このときに、排外主義や差別主義に屈し、加害の事実に向き合えない傾向が生まれています。
この集会は、原点から8・6を造り直そうという私たちの思いがあふれ出た集会になりました。この新しい潮流をもっと大きくし、来年に向けて呼びかけ人や賛同人を拡大していきましょう。
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