部落民的自覚とはなにか -その歴史的形成と水平社-

(2005年12月10日)

 

部落解放理論センター 宗像啓介 ('05/12)  ※季刊「部落解放闘争」39号より

目次

はじめに
第1章 日露戦争を前後する部落改善運動とはなにか
   第1節 部落内の自主的改善運動のめばえ
   第2節 特殊部落の差別賤称と部落改善運動のねらい
第2章 融和主義をうちやぶる部落民的自覚の覚醒のはじまり
   第1節 博多毎日新聞社糾弾闘争と部落民的自覚
   第2節 米騒動と部落民的自覚の覚醒
   第3節 マルクス主義との結合と部落民的自覚のいっそうの発展
第3章 全国水平社の部落民的自覚の革命的意義
   第1節 全国水平社創立大会から学ぶ
   第2節 綱領と決議
   第3節 部落民の自己肯定の革命的意義
   第4節 政府国家権力の部落差別攻撃との対決をとおした部落民的自覚の形成
   第5節 水平社の部落民的自覚をうみだした三つの源泉
   第6節 部落民的自覚の四つの契機
第4章 五万人組織建設の核心問題としての部落民的自覚
   第1節 身分的自覚こそ五万人組織建設の原動力
   第2節 全国連の三大闘争を発展させ部落民的自覚の再形成を

はじめに

 本稿は、全国水平社の創立とそれにいたるたたかいの分析をとおした〈部落民的自覚とはなにか〉を明らかにすることを目的としています。いま、なぜ身分的自覚としての部落民的自覚をとりあげることが必要なのでしょうか。
 差別の大洪水がおしよせ、同和事業のうちきりのなかで住宅家賃の値上げをはじめとして生活破壊が激しくすすんでいます。この差別迫害と生活地獄をうちやぶり部落民の生活と権利をまもり発展させていくことがもとめられています。しかし、既成の解放運動は、融和主義に転向して糾弾闘争と生活防衛のたたかいもなげすてています。そのなかで部落民的自覚が後退して既成の解放運動の崩壊がすすんでいるのです。部落民的自覚が後景化されているのは、けっして部落差別への怒りがなくなったわけでも、たたかう力がなくなったからでもありません。むしろ差別の洪水と生活地獄のなかで怒りは、ますますふかまり蓄積されていっているのです。だが、解同本部派が融和主義に転向し、差別糾弾闘争をなげだし、反戦のたたかいや生活防衛のたたかいを放棄しているからこそ、「もう差別はなくなったのではないか」というような部落民的自覚が沈殿化しているにすぎないのです。部落差別にたいする憤激と憤りは、マグマのように渦まいているのであり、全国連の三大闘争の発展と結合したときには、堰をきったようにふきだし、あらたな巨大な解放運動の前進がかちとられることはあきらかなのです。
 こうした300万きょうだいの決起をおそれる政府国家権力とあらゆる融和主義者たちは、「部落差別はなくなった」「部落もなくなった」などという100%ウソの害毒をながし、部落大衆の部落民的自覚の最後的解体に全力をあげています。部落民的意識とその自覚の一掃がもたらすものは、解放運動の解体であり、部落民の戦争動員と生活破壊の生き地獄にほかなりません。同和事業のうちきりは、政府国家権力が先頭にたって戦前のように部落差別はあたりまえという差別を扇動するあらたな攻撃です。なぜならば、戦争と改憲、民営化(労組破壊)の攻撃のもとで差別が洪水のようにふきだしている現実を「差別がなくなった」と居直っているからです。このことは、こんにちの激しい差別を差別ではないと野放しにすることによって、部落民を差別をするのはあたりまえという時代を政府国家権力がめざしていることを意味しています。
 国鉄分割民営化の攻撃といったいの地対協路線による同和事業の打ちきり攻撃は、法務省見解による差別糾弾闘争の圧殺をじくとした部落解放運動の解体と一掃を目的にしたものでした。とどうじに、この目的の真のねらいは、差別の元凶である政府国家権力が、解放運動の灰燼のうえで、もう差別はなくなったという部落差別の肯定と大扇動によって差別分断支配をつよめ、部落差別の強化をテコにして部落民と労働者民衆を戦争に動員していくことにあるといえます。爆弾3勇士は、こんにち的問題となってきたのです。まさに戦前の水平社が直面したような状況をむかえつつあるといえます。
 このあらたな攻撃をうちやぶる攻防の核心点こそ、部落民的自覚の一掃をゆるすのか、その自覚を三大闘争の発展でいちから形成し五万人組織を建設するのか、にかかってきています。全国連(創立)の偉大な意義は、地対協路線による同和事業の打ちきり攻撃に解同本部派が屈服して融和主義化したなかで、差別糾弾闘争を基軸とする三大闘争路線を確立し、14年にわたって深紅の荊冠旗をかかげつづけていることです。全国連は、労働運動における動労千葉の国際主義的な偉大なたたかいとともに、地対協路線をうちやぶって生き残り、戦時下におけるあらたな部落差別攻撃と対決したたかいぬいているのです。
 全国水平社は、部落民的自覚をかちとることによってはじめて創立されました。〈エタの誇り〉という身分的自覚の大衆的集団的な形成がなかったならば、水平社は、この世に登場することはなかったといえます。
 そして、水平社創立への道のりは、政府国家権力の部落改善運動や融和主義、あるいは部落内の融和運動との厳しいたたかいのなかでかちとられたことをしめしています。この水平社創立の貴重な教訓は、政府国家権力と融和主義によって部落民的意識がふみにじられている現実をうちやぶって、三大闘争の展開をとおして部落民的自覚をいちから再形成していくなかにこそ、全国連の五万人組織建設の勝利の道があることを教えています。

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第1章 日露戦争を前後する部落改善運動とはなにか

 第1節 部落内の自主的改善運動のめばえ

 1902(明治35)年5月、和歌山で本願寺の布教師が、「虫けら同様のえた」でさえ、多額の寄附をしているのに、「ましてみなさんは、りっぱな人類である」のだから、えたほどの寄附ができないはずはない、といった差別暴言をはきました。この差別事件は、全国的に大きなショックをあたえ、部落内の自主的改善運動をうみだすひとつのきっかけとなりました。
 この差別事件の直後の8月7日、岡山市で三好伊平次を中心に自主的な備作平民会がつくられました。しかし、その中身は、被差別部落民(以下、部落民)が差別されるのは、ひどいトラホームがあり、貧乏で貯蓄もなく、そまつな身なりで一見して人のいやがる姿であるからだと考えて、まず部落を改善して差別の口実をなくそうというものでした。
  翌年の7月には、全国的な部落改善組織としての大日本同胞融和会が、大阪土佐掘の青年会館で結成されました。この結成大会には、近畿地方をはじめ中国、四国、九州、関東、中部の全国各地から400名の有志が参加してつくられましたが、創立大会だけで消滅です。この会も備作平民会とおなじようなものであり、水平社が「堕落団体」といっているように、部落民の自己解放という部落民的自覚とは無縁なものでした。しかし、このような運動でも、政府国家権力は、部落民の自主的運動は危険なものとして上からとりこんでいったのです。

 第2節 特殊部落の差別賤称と部落改善運動のねらい

 ちようどこの頃、政府国家権力は、部落差別を階級支配のカナメにすえなおしはじめていました。具体的には、被差別部落(以下、部落)は「特殊部落だ」という差別呼称をつくったことです。そして、特殊部落民は、「旧穢多・非人」であると、差別をあおりはじめたのです。さらに、「部落の欠陥」なるものをあげつらって特殊部落改善運動(部落改善運動と略)を警察署長や郡長や町村長、学校長、僧侶、部落の有力者を中心として全国的にはじめたのです。この特殊部落の差別呼称と部落改善運動は、部落民を天皇制とその国家の奴隷として身分的差別をつよめていく宣言でした。では、こうしたあらたな部落差別政策のねらいとその背景とは、なにか。
 ひとつは、特殊部落のあらたな造語のねらいです。解放令は、穢多・非人の賤称を廃止し、平民同様としました。なぜ、廃止した賤称を特殊部落(旧穢多、非人)として復活させたのか。それは、江戸時代の身分制度下の身分差別を身分的差別として天皇制の国家支配のために利用することに真の目的がありました。まさに、近代の部落差別の起源といえるものです。
 ふたつは、部落改善運動を、1907(明治40)年から全国的に警察が中心となっておしすすめたことです。とうじ、政府国家権力は、部落民のたたかいへの決起を心からおそれていました。とくにそのたたかいが、高揚しはじめた労働運動や農民運動、とくに社会主義と結びついたとき、日本の階級闘争の爆発的発展をつくりだすことにふるえあがっていたといえます。
 「平素社会をのろう百数十万の人民が機をうかがっている危険はじつにおびただしい」というのは、かれらのいつわらざる心境であったのです。このように部落民を一大内乱勢力としてみていたからこそ、たとえ部落内の融和運動ですら、自主的なうごきを危険視していたのです。ここから警察権力が先頭にたって差別されるのは、すべて部落民の責任であり、抵抗するものはブタ箱いりだと部落改善運動をもっておそいかかってきたのです。それは、部落にたいする治安政策であり、いっさいのたたかいと部落民的自覚の芽さえ圧殺することをねらった攻撃でした。
 警察や行政、同情融和の改善屋どもはいう。部落民は不衛生でトラホームがおおい、言葉がわるい、犯罪者がおおい、盗みをするな、脅迫をするな、倹約をしろ、貯金をしろ、天皇をうやまえ。部落が差別されるのは部落民がわるいからだ。だから村の規約をつくって「特殊部落をよりましな特殊部落として改善」してやる、と警察が中心となり勝手に規約までつくったのです。しかも江戸時代にもなかったようなひどい差別的な規約に違反した者は、やれブタ箱いりだ、やれ村八分だ、やれ夜警の罰だ、罰金だ、と生きる権利さえもうばう、村の警察支配にのりだしてきたのです。ふざけるのもいい加減にしろ! 実際に、テロ・リンチもやられています。
 だが、「部落の欠陥」があるとすれば、すべてが部落差別の結果なのです。この部落改善運動は、部落民の人間としての誇りをうばい暴力的に支配するための治安政策でした。しかもトラホームなどは、貧困病であり貧民もおなじでした。部落だけを問題にするのは差別の推進運動であり、部落民にとっては金銭と労力と時間の浪費でしかなかったのです。
 みっつは、天皇制とその国家権力が、朝鮮、中国、アジア侵略戦争をおしすすめ、国内の労働者人民の決起を圧殺するために、部落差別を階級分断支配として再編したことです。そうすることで部落差別を「日本帝国主義の階級支配の一環としての身分的差別」(全国連第2回大会テーゼ)として本格的に確立したことです。
 よっつは、ここに、部落大衆と天皇制の国家権力との非和解的な身分的階級的対立が永続化されたことです。部落差別の廃絶としての部落解放運動は、この治安政策としての部落改善運動との血みどろの対決なしには、一歩も前進させることはできなかったのです。
 言葉をかえていえば、部落民の人間としての誇りをトコトンまで破壊し奪いさり、「人間外の人間」「虫ケラ」あつかいする部落改善運動をうちくだくこと。そして、非難と中傷をされている〈部落民の存在と現実〉を、〈それが、どうしたのだ〉と無条件に自己を肯定し、人間としての誇りを奪いかえす部落民的自覚の形成のなかにこそ、部落解放のいっさいの未来がかかってきた、ということでした。この苦難の道を通過することなしには、部落解放運動は誕生することはできなかったのです。水平社をつくりだすまでの道のりは、まさにこの身分的自覚としての部落民的自覚の産みの苦しみであったのです。
 それは、平坦な道のりではありませんでした。大正時代にはいると部落改善運動は破産状態にはいり、奈良の大和同志会をはじめ各地に部落内の自主的な融和団体がつくられます。しかし、それらの団体は、天皇制にからめとられたり、まず部落の改善をし、その後に一般との融和をとなえるなどの融和主義そのものでした。部落民じしんの手で解放をかちとるという部落民的自覚は、博多毎日新聞社差別糾弾闘争や米騒動などをとおしてはじめて発展していくことになります。

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第2章 融和主義をうちやぶる部落民的自覚の覚醒のはじまり

 第1節 博多毎日新聞社糾弾闘争と部落民的自覚

 その火花は、第一次世界大戦の戦時下の1916年6月17日の博多毎日新聞社差別糾弾闘争の歴史的爆発としてうちあげられたのでした。すでにみたように、江戸時代とかわらぬ身分的差別の虐げと融和主義の害毒によって泣き寝入りを強いられてきたなかで、泣き寝入りをかなぐりすてて公然と博多毎日の差別にたいして徹底糾弾闘争に決起していくためには、なにが必要だったのでしょうか。それは、支配階級がもっともおそれた、部落民の人間としての誇りと権利の自覚であり、部落民的自覚のめざめにあったのです。
 博毎差別糾弾闘争は、直接には、『博多毎日新聞』の差別記事にたいする糾弾闘争でした。当時の新聞は、1899年にだされた政府内務省の「特殊部落」というあらたな差別呼称をひろめて社会的に定着させていく決定的役割を「社会の公器」としてはたしていました。そして、部落を「悪の巣」のようにとりあげて、ことあるごとにあくどく扇情的にとりあげて差別を拡大していました。それは、ほんとうに目に余るものです。
 したがって、博毎差別糾弾闘争は、ジャーナリズムの部落差別を糾弾することをとおして政府内務省のあらたな部落改善運動を軸とする差別推進攻撃への痛打としてもたたかわれたのでした。
 さらにいえば、江戸時代いらいの数百年におよぶ差別への憤りの爆発であり、巨大な身分的紐帯を土台とする団結した組織的抵抗のたたかいでした。実際、豊富地区では、江戸時代には、かの有名な寛政5人衆(現地では、松原5人衆とよぶ)の差別事件で無実の部落青年5人が、奉行所の拷問でデッチ上げられて処刑されています。明治時代にはいってからは、1873(明治6)年の解放令反対一揆の筑前竹槍一揆では、全村に火がつけられ焼きうちされているのです。
 そのうえに20世紀にはいってからの部落改善運動による警察と行政を中心とするあらたな部落差別の大扇動のはじまりです。博毎差別糾弾闘争は、このような数百年におよぶ部落差別への憤懣と憤り、そこから生みだされた身分的紐帯にもとづくきょうだい的団結による公然たる部落民衆の組織的な決起そのものでした。
 では、このような博毎差別糾弾闘争を爆発させた豊富地区の人々の主体的決起をうみだしたものは、なんであったのでしょうか。それは、たまたま怒りが暴発したというような単純なものではなく、豊富部落の人々の人間としての権利意識にささえられたものであったのです。
 実際、豊富の村では、はやくも1881(明治14)年12月には、自由民権運動と手をむすんで復権同盟という九州の部落民の自由民権運動の結社をつくっていました。この復権同盟は、部落民の立場からの「自由」「平等」の実現をめざし、部落民の人間としての復権をめざした結社であり、運動でした。つまり復権同盟は、解放令で賤称が廃止され、だれも人間として平等であるのに、「新平民」という差別呼称によって江戸時代とかわることのない差別をうけている現実を弾劾し、部落民の人間的復権をかちとることを目的にした団体でした。この組織の総代の1人は、豊富村の松田太平次(他は松園の島津覚念と久留米の小川順蔵)でした。この復権同盟は、部落民の全国的結集をめざすとともに、すべての決定を出席者の過半数をもってきめるという民主的方法をとっていました。
 このたたかいは、残念なことに政府のきびしい弾圧によってつぶされましたが、その伝統は、博毎差別糾弾闘争にもひきつがれています。それは、差別記事がでると数時間のうちに全村につたえられた驚くべき伝達の早さ、午前と午後の二回にわたる区民集会がおこなわれ、そこで差別記事の内容を黒板にかいて集団的に討論し、部落民の人間的尊厳を傷つけ「虫ケラ」あつかいをする差別を人間の誇りにかけて糾弾する集団的意志をかためたことにみられます。そして、上層部の妥協的態度にもかかわらず、全体の意志は徹底糾弾であり、この村民の総意をもって人間の復権をかけて博多毎日新聞社を組織的に糾弾したことに見事にあらわれています。
 このように、水平社の創立の出発点をなした博多毎日新聞社差別糾弾闘争は、数百年にわたる被差別体験と自由民権運動の伝統がむすびつくことではじめて〈泣き寝入り〉ではなく〈糾弾のたたかい〉として実現したといえます。言葉をかえれば、自由民権の思想をうけつぐことによって人間としての誇りを復権することで部落差別にたちむかうことができたのです。実際、その後の生活とたたかいは、部落民の誇りに燃えていっきょに盛りあがっていったのです。市長の差別事件では糾弾委員会をつくって自己批判をさせています。この人間的誇りの復権と部落民的自覚は表裏の関係にあるといえます。
 博毎差別糾弾闘争を号砲として全国的に差別糾弾闘争が発展していきますが、それは、部落改善運動がどこの部落でもすすめられたので、全国的な身分的紐帯がつよめられたことを土台としているといえます。5ヶ月後の岡山の千條部落の軍隊宿舎差別糾弾闘争では、兵庫10万のきょうだいに団結と決起を呼びかけています。また兵庫の武庫村小学校の差別糾弾闘争は、児童たちのたたかいからはじまっているように、身分的紐帯を土台とした部落民的自覚の覚醒が全国的にはじまっていったといえます。この部落民的自覚こそが、それまでの部落内外の改善運動、融和主義をうちやぶって水平社の創立へとたたかいを前進させた核心問題であったのです。

 第2節 米騒動と部落民的自覚の覚醒

 米騒動は、部落民をはじめ労働者人民を飢餓状態にたたきこんだ政府資本家どもの搾取と収奪にたいして生きるための生死をかけた蜂起でした。まさに「餓死か生か」のぎりぎりの状態のなかでの根底的な怒りの爆発です。とりわけ部落差別によって搾取と貧困、差別と迫害の二重の抑圧のもとにあった部落民が、蜂起の発火点となり、その全国的なたたかいの突破口をきりひらいたのは、歴史的必然ともいえるものでした。
 米騒動において部落民は、たしかに組織的連絡と団結をあらかじめもっていたわけではありませんでした。しかし、米騒動は、部落大衆の部落民的自覚と階級的覚醒をおおきくうみだしていったことはあきらかでした。米騒動後の軍隊(陸軍大臣)や警察、行政権力にたいする差別糾弾闘争の発展がそのことをしめしています。ここでは、米騒動がいまださめやらぬ9月の『紀伊毎日』への投稿を見ておきたいと思います。
 9月14日の「俺等は穢多だ」(なみ生)の投稿は、いう。 まず「俺等の仲間が、今度米騒動に急先鋒となって暴動」したとうたいあげています。そして、政治家、社会改良家などが、「やれトラホームを治療しろ、やれ貯金が肝腎だ、やれ下水の掃除をやれ、それ仏さまの話を聞け……といろいろ親切にいってくれる」が、そんなことは、どうでもいいことだ。「俺等が何百年の前から穢多よ、四つよと社会から擯斥され迫害されてきた怨み骨髄に徹している憤怒は、トラホームがなおったって、貯金ができたって、仏教講話をきいたって、そう易々とは消失するもんではないよ」。差別のなかで、「あきらめろ、あきらめろといわれて俺等は何百年間あきらめてきた。いつまでも、あきらめて、牛馬扱いにされて満足していられようか。子どもをだますような改善策をありがたく甘受していられるか」と部落改善運動を弾劾しています。
 そうではなく「俺等は、まず平等な人格的存在権、平等な生存権を社会にむかって要求するのだ。今日まで奪はれていたものを奪ひ返さねばならないのだ。暴動がいけないのなら他の正当な方法をきかしてくれ、正当な方法による要求を容れてくれ。」 9月17日の「俺も穢多だ」(一平民生)では、「なみ生」君の不平は、俺の不平だと同調し、社会改良家や官憲などの部落の改善とは、部落民を人間としてではなく、「まるで牛馬を飼育したり、猛犬を馴重する」あつかいであるが、俺たちの求めるのは、「牛馬でも犬猫でもない、『人間』だ、平等な『人格』だ」とのべています。さらに「旧陋な階級観念の束縛から解放され自由になることだ」「サーベルの光による救済策、そんなことはむしろありがた迷惑だ」「まず改善者の頭から改善してもらはなくちやならないのだ。社会政策も何もいらない、たゞ俺等に向って『おい兄弟よ』と一言よんでくれれば、それですべてが解決だ。」  引用が長くなりましたが、これらの投稿は、じっさいに米騒動に参加したおおくの部落大衆の気分を反映していると思われます。
 ひとつは、部落民が米騒動の急先鋒として暴動をおこしたことの全面的な正当性の主張です。「俺等の仲間のある者は、強盗、放火、掠奪などの蛮的行為」をしたのは「遺憾」としながらも、「だがしかし俺等は、こうした蛮的行為の外のどんな方法で、俺等の不平や怨恨を晴らすことが許されているのか、どんな方法で抑圧や迫害からまぬがれることが出来るのか」と断言し、米騒動のすべてをまるごと正義としてみとめています。もちろん、米騒動のなかでいわゆる「強盗、放火、掠奪」をしたのは部落民だけではなく、こうしたことは暴動にはつきものです。軍隊は、銃撃で労働者を射殺までしています。
 ふたつは、部落民を「餓死か生か」までおいつめた支配階級の搾取と差別迫害にたいする、つまり部落改善運動にたいする根底的な弾劾、糾弾です。トラホームがなおろうと、貯金ができようと、俺等が何百年の前から「社会から擯斥され迫害されてきた怨み骨髄に徹している憤怒」は、けっしてなくならないのだ。部落民を牛馬あつかいする子どもだましの改善策をありがたく甘受していられないのだ、改善者の頭から改善しなければならない、と公然と治安政策としての部落改善運動との対決にたちあがったことです。
 みっつには、そこから差別への〈あきらめ〉から、奪われていたものを奪い返えすこと、人間の復権を宣言していることです。〈あきらめろ〉といはれて、何百年間もあきらめてきたが、いつまでもあきらめて、牛馬あつかいされて満足していられるか、子どもをだますような改善策をありがたく甘受していられるか。俺等は、人間だ、まず平等な人格的存在権、平等な生存権を社会にむかって要求するのだ。今日まで奪われてきたものを奪いかえすために米騒動のような実力行動が必要なのだ。「暴動がいけないのなら、他の正当な方法をきかしてくれ、正当な方法による要求をいれてくれ」といっています。ここには、部落民じしんのちからで差別を廃絶するという自己解放の思想にまでいきつく目覚めがあります。
 最後に、一番たいせつとおもわれるものは、米騒動に打撃をうけた政府支配階級の部落差別がふきあれているなかで、「俺等は穢多だ」「俺も穢多だ」といっているように、〈穢多の誇り〉として部落民的意識がにじみでていることです。〈穢多の誇り〉とは、部落民の人間としての誇りそのものです。この人間としての誇りが、差別へのあきらめや泣き寝入りをやめ、平等の人格権や生存権をもとめて奪われてきたものを奪いかえすたたかいの原動力です。〈奪いかえす〉ためには、暴動(米騒動)も正義であり、部落民を搾取と迫害から解放するためには、みずからの力による自己解放の思想がうみだされてくることは必然といえます。
 米騒動は、このような部落民的意識、部落民的自覚を大衆的にうみだしていく決定的なたたかいであったといえます。それが水平社の創立へとたどりつくまでには、やはりマルクス主義とのむすびつきを待たねばならなかったといえます。

 第3節 マルクス主義との結合と部落民的自覚のいっそうの発展

 ここでは、『特殊民の解放』という『無産社発行リーフレット』(1922年2月)をみたいと思います。
 このリーフレットは、(一)特殊民の解放(一無産者)、(二)同族の兄弟姉妹よ!(一特殊民)、(三)穢多の誇り(一穢多)、(四)特殊民諸君!(一労働者)の4編からなる注目すべきものです。たいへん重要なものですので、長くなりますが、まずその概略を紹介したいと思います。
 (一)の「特殊民の解放」では、まず部落改善運動ではダメと断言しています。そして、部落民は、特殊な軽蔑をされている人間だが、金持からみれば、一般の労働者も、小作人も、特殊民も、皆な同じような奴隷であり、この多数の奴隷が解放されるとき、「特殊民」も解放される。それは、いまの資本家、地主の社会から、かれらを追っ払って階級をなくしたときにできる。そのために、労働組合や小作組合をつくり、また貧乏人の政党をつくって団結し、この団結の力で労働者、小農民、貧乏人の天下をつくろうとのべています。だから部落民が、この一般的な奴隷解放のために率先して努力することこそが、部落民じしんの唯一の解放策である、と労農民衆との階級的団結をうったえています。
 (二)(三)は、部落民の意見の提起となっています。(二)の「同族の兄弟姉妹よ!」は、遠い先祖から今日にいたるまで屈従と圧迫の鎖につきまとわれ、同じ人間と生れ、同じ赤い血潮は漲ぎっているが、人間あつかいされない。あまりにも残酷な社会ではないかと、安政6年の部落民は一般の「七分の一の生命」(奉行池田播磨守)の仕打ちを弾劾しています。さらに20年12月に群馬県で入営のときに在郷軍人会の某が、「穢多も兵隊に取られたのか。それなら汚らわしいけれども貸してやらう。しかし奴らにはこれで沢山ダ!」と、一着の古いボロボロの軍服をやっとかしたときの差別をとりあげ、もう俺たちは我慢ができない。起て、全国に散在する同族の兄弟姉妹よ! と差別とのたたかいへの檄をとばしています。
 この決起の檄にこたえる形で部落解放の道すじをだした(三)の「穢多の誇り」があります。
 そこでは、労働者というよび名も、久しいあいだ人を軽蔑する言葉としてつかわれていた。今日では、労働者といえば、人が恐れるくらいで、「俺は労働者だ」と誇りをもっている。社会のもっとも重要な生産事業は、労働者たちがやっており、富豪や資本家たちは、それを金もうけの道具にしている。だから労働者は、団結して、資本家にかわって社会のための生産をやろうとしている。そこに労働者の値打がある。新社会を建設する最大の力は、労働者にあるのだ。農民や小作人も小作人組合をつくって運動をはじめている。労働者と小農民とが結合してはじめて新社会建設の希望が生じる。ここに労働者と農民の誇りと名誉がある。
 そうだとすれば、われわれもまた、穢多と呼ばれることを名誉とし、穢多と称することを誇りとすべきではないか。同族の多数は、やはり百姓と労働者ではないか。百姓と労働者が名誉と誇りをもちえるのは、彼らが社会の改革のために働くからである。もし我々の同族が、社会の改革に働かねば、永久に「穢多」として賤しまれるであらう。
 だが、われわれが、他の労働者と百姓とに率先して、この大事業のために全力を尽したとき、新社会建設の功労者になる。その時、その功労者を誰が賤しみ、軽蔑できるか。だからわが同族の諸君、今後大いにはたらき、新社会建設の功労者になろうではないか。それよりほかに、わが同族の恥辱を雪ぎ、名誉をあげる方法はないのだ。
 俺は穢多だ。穢多で沢山だ。穢多が自慢だ。穢多が誇りだ。今に見ろ! 穢多といふ名称が全社会から尊敬される時が来るのだ。俺は是非ともソウいふ時を来させねばならぬと考えている。わが穢多族が、社会改革運動の第一の先鋒になることが必要だ。俺は確かにその覚悟をきめている。諸君も、ぜひ、どうかその覚悟でやってくれ。
 最後に、(四)の特殊民諸君!では、一労働者が、部落民に呼びかけています。
 僕は、諸君を兄弟と思っているので、諸君も、どうか僕を兄弟と思ってくれ。少し目の覚めた労働者は、兄弟とおもっていることだけは信じてくれ。 僕たちは、資本家に油を搾られている奴隷だが、諸君の多数もそうだらう。手を取り合っていこう。労働者も、ひどく侮辱されているが、諸君が僕たち以上に、特別に侮辱されるのは階級制度があるからだ。だから諸君、諸君が侮辱をまぬがれる道は、その貧富の事実を、この社会から一掃するしかない。われわれもその貧富の一掃運動をやっているのだ。諸君も僕たちも貧乏同志だ、奴隷仲間だ。お互ひに兄弟の積りで一緒にやろうぢゃないか。まずお互ひ目の覚めた者だけはシッカリこの手を握りあっていこうぢゃないか。心ある人は、この印刷物を沢山かって配布してください。
 いくつかの重要なてんについて
 ひとつは、部落の解放は、資本家と地主の社会(資本主義)をひっくりかえし、貧富の差をうみだす階級をなくし、階級のない社会をつくるなかにあるという共通の認識をうちだしたことです。金持ちからみれば、労働者も農民も部落民もおなじ奴隷であり、奴隷主から団結の力でみんなが一緒に解放されたときに、はじめて部落民も解放される、とその目標をあきらかにしたことは決定的に重要です。
 ふたつは、この新社会をつくるものは、労働者、農民、部落民、貧民の団結の力にあることをあきらかにしたことです。(三)の「穢多の誇り」では、労働者は「職工なるものはエタより劣る」と侮蔑されてきたのですが、今日では、人におそれられ、胸をはっている。なぜならば、労働者は、社会の生産の主人公であり、新社会の建設の最大の力だからといっています。そして、団結してたたかうことに労働者の値打があること。労働者を中心として労働者、農民、部落民の団結とたたかいのなかに勝利とただひとつの部落の解放があることを明らかにしていることです。
 みっつは、部落民もおなじ奴隷ですが、特別に侮蔑された身分的に差別された階級の一員であり、差別の根っこは、階級制度のなかにあるとしたてんです。部落民の多数は、労働者と農民であることを、(三)でも(四)の一労働者も確認しています。さらに(四)では、部落差別は、資本家たちによる階級分断支配であるとしています。つまり、資本家は、労働者をふくむ貧乏人を侮辱する。貧民階級のなかでも、中位の貧乏人は、その下の貧乏人を侮辱して、自分が上からうける侮辱をいくらか帳消しにする。しかし、もっとも下級の貧乏人は、自分より下に侮辱する者がない。
 そこで人種や血統がちがうと、ある一群の人々を社会外に追いだして「特殊民」として侮辱しているのだ。部落民にあらゆる侮辱を集中しておけば、一般の貧乏人どもをいくらか胡魔化せると資本家は、よくのみこんでいるから、わざと部落民を一般社会の侮辱の的にさせるのだ。諸君こそ実にいい迷惑だ。差別をする貧乏人のあさはかさ加減にわれわれは呆れるのだが、貧富の階級が存在する以上、この現象はどうしてもまぬがれない、としています。資本家たちは、階級支配のために、身分的に差別された労働者階級の一員である部落民を社会外においだし、差別していることをみぬいています。
 よっつには、部落民の誇りの強調です。(三)をみていただければ、はっきりしています。ここでは、労働者と農民の誇りもそうですが、誇りは、解放運動のなかで、とりわけ新社会の建設という目的のためにたたかうときに、はじめて獲得されることです。部落民の名誉と誇りは、他の労働者と百姓とに率先して、この大事業のために全力を尽したときにうまれるといっていることです。
 「穢多が誇りだ。今に見ろ! 穢多といふ名称が全社会から尊敬される時が来るのだ。俺は是非ともソウいふ時を来させねばならぬと考えている」――これこそが、部落民の誇りなのです。
 いつつには、部落民と労働者のきょうだい的団結をめざしていることです。(四)の労働者はいう。部落民は、労働者のきょうだいだ。部落民も労働者をきょうだいとおもってくれ。差別する労働者もおおいが、目覚めた労働者を信じてくれ。貧富(階級のこと)の一掃運動をいっしょにやろうと階級的共同闘争がめばえようとしているのです。こうして全国水平社の創立の日がちかづいていったのです。

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第3章 全国水平社の部落民的自覚の革命的意義

 第1節 全国水平社創立大会から学ぶ

 【全国水平社創立宣言からなにを学ぶか】
 わたしたちは、いまこそ、全国水平社の創立宣言から歴史上はじめての部落解放の組織と運動が、どのようにつくられていったのか、それを可能とした部落民的自覚とはなにかを真剣に学ばなければならないと思います。
 全国水平社創立宣言から学ぶことのひとつは、全国水平社は、政府国家権力とその手先による部落改善運動との対決をとおして形成されたことです。
 全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ、とはじまる宣言は、マルクスの『共産党宣言』の「万国の労働者団結せよ」を念頭においてはじまっています。そして、「長い間虐められてきた兄弟よ、過去半世紀間に種々なる方法と多くの人々によってなされた吾等の為の運動が、何等の有難い効果を齋らさなかった事実」ばかりか、これらの「人間を勦るかの如き運動は、かへつて多くの兄弟を堕落させた」ことをみれば、「人間を尊敬する事によって、自ら解放せんとする者の集団運動を起せるは、寧ろ必然である」とつづいています。
 これまでの「特殊部落の改善」や同情融和の運動は、政府資本家どもの利益と階級支配のために部落差別を利用したものであり、部落民に「何等の有り難い効果」もたらさなかったばかりか、部落民の人間的誇りと権利を暴力的にふみにじる「精神的虐殺」そのものでした。それは、部落民をあたかも牛馬のごとく「人間外の人間」として迫害する差別の推進運動でありました。それだけではなく、この人間(部落民)をあわれむような運動は、部落の上層部をとりこんだ部落内の改善運動のように、かえって「多くの兄弟を堕落」させていったのです。
 差別と迫害の社会的重包囲のなかで、政府国家権力と改善屋どもとの対決のなかで、他のだれでもなく「おれたちは人間だ」と、自分たちの力で部落差別をうちやぶって部落民じしんの手による部落民自己解放をかちとろうとする水平社がうみだされたのは必然であったのです。
 だが、この過程は、政府資本家どもの部落差別攻撃にたいする差別糾弾闘争をはじめとする血のにじむようなたたかいのなかで人間としての誇りの奪還と部落民的自覚の形成によってはじめてかちとられたものです。部落民の人間としての誇りである部落民的自覚こそが、部落民自己解放の思想と運動を生みだしていった主体的根拠なのです。 ふたつには、部落民の歴史的な存在の自覚をとおした部落民的自覚です。
 宣言はいう。「吾々の祖先は自由平等の渇仰者であり実行者であった。陋劣なる階級政策の犠牲者」であり、「男らしき産業的殉教者」であった。「ケモノの皮剥ぐ報酬として生々しき人間の皮を剥取られ、ケモノの心臓を裂く代価として、暖い人間の心臓を引裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの夜の悪夢のうちにも、なお誇り得る人間の血は、涸れずにあった。そうだ、吾々は、この血を享けて……」「犠牲者がその烙印を投げ返す時が来たのだ。殉教者が、その荊冠を祝福される時が来た。」
 これは、江戸時代の身分制度のもとでの部落民の仕事(役)のいったんをとりあげたものです。重要なことは、祖先は「陋劣なる階級政策の犠牲者」として激しい差別迫害をしいられてきましたが、しかも「なお誇り得る人間の血は涸れずにあった」という確認です。
 実際、江戸時代では「社会外の社会」として過酷な差別のなかで部落民は、「自由平等の渇仰者、実行者」でもあったのです。摂津13ヵ村の部落民は、役としての下級警察の仕事を10年の長期にわたって拒否する感嘆すべきたたかいをやり、また武州鼻緒騒動では一帯の23ヵ村が団結して差別にたいする実力の抵抗闘争をやっています。江戸幕府をふるいあがらせ、老中までがのりだし、江戸送りとなった100余名のうち60人あまりが牢屋で毒殺されています。
 「そうだ、吾々は、この血を享けて」、祖先の人間としての誇りをうけつぎ、それを水平社に復権し、祖先への差別迫害の恨みをはらすときがきたのだ、ついにわれわれの時代がきたのだ、と高らかにうったえています。この部落民的自覚は、部落民を歴史的に被搾取階級として自覚した階級的自覚とかたく結びついたものと思います。
 みっつには、エタであることを誇りうるときがきた、と宣言したことです。
 吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ。吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行為によって、祖先を辱かしめ人間を冒涜してはならぬ。そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦る事がなんであるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求礼讃するものである。水平社はかくして生れた。人の世に熱あれ、人間に光あれ、と宣言しています。
 この〈エタであることの誇り〉こそは、政府国家権力を中心とする部落差別攻撃とのたたかいのなかで、ついにかちとった部落民的自覚の精華なのです。この部落民の誇りは、創立大会に参加したすべての人々に共通する人間としての誇りでもあったのです。
 つまり、エタであることの誇りが、いかに六千部落三百万の兄弟にとって、力強いものであるか、いかに正しき光ある誇りであるか。この宣言の読まれたとき、会衆は声を呑み歔欷の声四方に起こり、悲痛なる涙と歓喜との間に創立大会は終わった。各地代表の演説は火を吐くごとく、少年も婦人も起って、散会した会衆は、高くエタ万歳、水平社万歳を叫んだといわれているように、「高くエタ万歳、水平社万歳」の叫びは、京都岡崎会館にとどろきわたったのでした。
 部落民自身による自主的な自己解放の運動は、「この尊き強き誇り」「正しき光ある誇り」をもつことによって、はじめてかちとられたのであり、水平社創立の決定的な思想的根拠であったのです。それは、それまでの泣き寝入りの現実をふきとばして、部落民の人間的権利、民主的権利を宣言しています。全国水平社創立の直前の2月の融和主義者の総結集をめざした日本平等会の集会にのりこみ、全水創立の宣伝の場にかえたように、部落改善運動や融和主義のギマン性をうちやぶり、部落差別にたいして敢然と徹底糾弾闘争に決起していく実践的立場を確立させて、部落解放運動の革命的主体として歴史的に登場したのです。
 この部落民の誇りは、あるがままの部落民の存在と生活を無条件に肯定することによってうみだされたものであり、それらについては次節でみていきたいと思います。

 第2節 綱領と決議

 【熱と光をはなつ〈エタの誇り〉こそ、解放運動の原則と徹底糾弾の方針を確立した】
 水平社の部落民的自覚(と階級的自覚の結合)の具体化として綱領と決議はつくられました。綱領の第1項は、「特殊部落民は部落民自身の行動によって絶対の解放を期す」と、部落民じしんによる自己解放の原点が確認されています。
 そして、「部落民自身の行動」のなかみは決議でしめされました。その第1項は「吾々ニ対シ穢多及ヒ特殊部落民等ノ言行ニヨツテ侮辱ノ意思ヲ表示シタル時ハ徹底的糺弾ヲ為ス」と宣言されたのです。ここに部落民の自己解放としての部落解放運動のたたかいの基本路線は、差別徹底糾弾闘争であることが明らかにされたのです。差別糾弾闘争こそ、部落解放運動のたにおきかえることのできない唯一の普遍的な闘争形態として確立されたのです。このような水平運動の原点と解放の道すじとしての差別糾弾闘争の確立をうみだしたものこそ、〈エタの誇り〉としての部落民的自覚にほかならないのです。
 さらに綱領は、「絶対に経済の自由と職業の自由を社会に要求し以て獲得を期す」ことと「人間性の原理に覚醒し人類最高の完成に向って突進す」ることをあげ、経済闘争と部落民だけではないすべての人民の解放にむかって「人類最高の完成」をめざしています。 この綱領のすべての原則は、今日、全国連にひきつがれているのです。それは、全国連の差別糾弾闘争を基軸とする差別糾弾闘争、要求闘争(労働運動もふくむ)、階級的共同闘争の不滅の三大闘争路線として復権されているのです。 決議は、第1項につづき、水平社の「団結ノ統一ヲ図ル」ため月刊『水平』の発行をきめていますが、2号発行の後、『水平新聞』として継続されています。第3項は、東西本願寺にたいする決議です。本願寺の僧侶の度重なる差別、江戸時代に部落寺院制度をつくった体質が依然としてつづき、堂班制度の差別をはじめ部落改善運動や融和運動に加担している本願寺の堕落にたいする不信と糾弾にかかわるものです。
 この綱領と決議は、明治になっても江戸時代とかわらぬ部落差別、とりわけ日本帝国主義が20世紀にはいるとともに、部落差別を日本帝国主義の階級支配の一環としての身分的差別として再確立し、それを社会的に定着させるための部落改善運動との血がにじむようなたたかいをとおして部落民的自覚がかちとられ、それを主体的武器としてつくられたことを確認しなければなりません。
 かくも水平社宣言の〈エタの誇り〉のもつ意義は偉大であり、部落解放運動を部落解放運動たらしめたものは、部落民的自覚の集団的形成にあったのです。だからこそ初期の水平運動は、部落民の誇りにかけて警察権力のはげしい弾圧や天皇制右翼国粋会の襲撃もおそれず、まさに命がけの勇敢な直接行動として燎原の火のように差別糾弾闘争を発展させ、身分的紐帯の自覚と団結をつよめつつ急速に府県水平社をはじめ、めざましい組織拡大を実現していくことができたのです。

 第3節 部落民の自己肯定の革命的意義

 水平社は、特殊民とかエタという差別が社会的に横行していたなかで、呼び名をかえても現実をつくりかえねば意味がないという実践的立場にたって、あえて特殊部落民やエタの呼び名をつかい、部落差別を根っこから撤廃することにしています。だから部落民の解放をめざす人間としての誇りを〈エタの誇り〉と表現したのであり、そこには部落差別にたいする深い洞察がありました。
 ここで大切なことは、水平社が部落民のあるがままの姿のすべてを一点の曇りもなく肯定することによってはじめて部落民の誇りをもつことができ、部落解放の革命的主体としてたちあがったことです。部落解放の担い手として人間としての誇りをもつまえには、過酷な差別に「自分に甲斐性がないからしかたがない」と泣き寝入りをよぎなくされ、煮えたぎる怒りはあっても、あきらめはあっても、糾弾闘争などは思いもよらなかったのです。永年の虐げは、部落民をあきらめさせていたのですが、部落民の無条件の自己肯定をテコとした部落民的自覚の形成が、部落解放運動の出発点をつくりだしたのです。

 【水平社の部落差別の認識をつくりだしたもの】
 部落差別にたいする自覚は、部落民的自覚をもつことではじめてうまれます。いくら過酷な被差別体験があっても、それだけでは差別の現実を理解できるわけではありません。差別されるのは、部落民の生活と態度に責任があると改善運動をはじめたり、華士族の籍をもらう(買う)のも部落改善の一策などという部落内の自主的改善運動からは、いくら自主的であっても、けっして正しい部落差別の認識と自己解放闘争がうまれるはずもありません。それらは、すべて政府資本家どもの治安対策である部落改善運動や融和運動にとりこまれていった事実が、それを雄弁にしめしています。
 部落民的自覚とは、部落民の身分的自覚です。部落民は、身分によって差別されているということを自覚したときに、はげしい部落差別の全体像がみえてくるといえます。水平社が〈エタとしての誇り〉を宣言したときに、部落民を部落解放運動の革命的主体として自覚し、部落差別の撤廃をめざす実践的立場をうちたてることをとおしてはじめて部落差別の諸実態もあばきだされた、といえると思います。
 〈部落差別とはなにか〉ということは、古くして新しい問題です。水平社の時代の部落差別は、昔の話などではなく、今日もいっかんしてつづいています。わたしたちは、水平社の部落差別についての認識を学ぶことをとおして身分的自覚をよりいっそう磨いていくことができるのではないでしょうか。では、水平社は、撤廃すべき部落差別をどのように考えていたのでしょうか。

 【部落差別は いまも江戸時代の身分制度とかわらない】
 水平社は、部落差別を、当時においても、江戸時代の身分差別とかわらない身分的な差別としてとらえていました。明治4年の解放令は、実質的な効果がなかったばかりか、あらたに新平民という差別呼称がうみだされ、その後、特殊部落、細民部落などと次々と名称はかわりましたが、「穢多の称が、他の称でよばれたにすぎない」と鋭くいっています。したがって、徳川時代の峻厳な階級制度のそのままの状態から一歩もでていず、「特殊部落の制度」は、今も存在し、今も軽侮と差別がたえまなく、同じ人間でありながら、けっして人間としてのあつかいはされていない。人の世はあまりにも冷たい(創立宣言)と、部落差別を身分的差別として弾劾しています。

 【身分的差別のあらゆるあらわれについて】
 ここから水平社は、身分的差別のあらわれについて徹底的に糾弾しています。部落民にたいして、社会は、ほとんど虐殺的であり、通婚、同居、同火の拒否からはじまって社会のあらゆる場所で、あらゆる差別がおそいかかっています。それらは、ただ精神的虐殺の宣言だけではなく、貧困と飢えによる劣悪なる経済的生活を余儀なくされ 眼病のような疾病がほとんど部落の特徴となるほどに横行し、貧窮のため、部落の生活が不衛生であることは、いなみえないとしています。
 とくに通婚拒否による差別は、部落差別のもっとも露骨なあらわれとしています。「あなたはえたみんにつき、りえんする。これで一切かんけいなくなった」――これは、大阪西浜生まれの部落の女性にあたえられた離縁状です。10年の歳月が流れて、西浜生まれの女がいるから、夫の兄の子に嫁にくるものがないと強制的に離婚させられています。またある女が夫が部落出身とわかると離婚請求をし、広島控訴院は、「今の社会状態では、妻の要求は正しい」(判決文)と、女が勝訴しています。部落差別は、当り前のことだと国家権力が差別を扇動しているのです。部落民であるために、結婚を拒絶され、あるいは離縁となったものが、どれだけあるか分からない。このために発病し自殺したものが、どれだけあるか。 社会的差別では、まず小学校や軍隊など大集団生活の差別が激しいことです。学校の差別では、入学試験のときの採否の手加減ばかりか、ときには、入学を拒絶されています。また部落出身の教員が、生徒父母のボイコットで排撃され、あるいは教員間の猛烈な反対により部落学校に転職させられています。こうした親や教師の差別のなかで小学校での差別事件がおおいのは想像するにあまりあります。実際、1923年の1月12日に、呉駅発の列車に13才の少年が、差別にたえられず飛び込み自殺をしています。
 兵役の義務は、働き手をうばい生活を破壊する悲しみの源泉ですが、にもかかわらず部落出身者は、入営のときには、部落出身であることを記入させられ、劣等あつかいされます。服役中にあらゆる侮辱を忍び、どんなに成績がよくても進級は非常に困難です。軍隊内の凌辱に耐えきれず、みずから銃台をもって頭を打ち割った兵士があり、また差別により脱営して沼に身を投じた兵士もいます。全国的に軍隊宿舎差別なども、どんなに糾弾してもあとをたちません。 神社をめぐる差別、僧侶の偏見と差別。滋賀県大津の郡役所の村長会議で、特殊部落改善が話題になったとき、1村長は「明治4年に解放令などださずに、穢多を皆殺しにしておけば禍はなかったものを」と暴言をはいています。このような官公署や青年団、処女会などからの排斥があります。
 三重県松阪駅前の兄弟の車夫(博毎糾弾闘争で義捐金を送った人々)は、働きながら毎日の新聞記事をみて、怪しい記事、不思議な自殺をしたものがあれば、ただちに書面で問い合せていましたが、その結果、明治45年から大正10年までの約10ヵ年の間に、死因不詳の自殺者のなかで、部落民であったために社会の迫害でころされたものが、毎年平均200名をこえていたのです。公然、陰湿なる差別迫害のなかで部落民の多くの尊い命がうばわれていったのです。部落民であるがゆえに負わされた死! われらは何も言うべき言葉を知らぬ、と。
 日常生活のなかでも、下宿や家屋の購入で差別され、小説『破戒』の主人公のごとく身をかくし、模範部落といわれても銭湯や床屋などで拒否されています。水平運動がおこるまでは、西浜に住みながら、けっして西浜の停留場で電車を降りず、ひとつ手前に降りるか、乗りこしをしていました。名古屋の平野町では、電車の停留場名を平野町とせずに別名をつかっていたのです。差別事件は、大正年間の著名なものだけでも博多毎日、神戸の武庫小学校などいたる所におこっています。

 【差別への糾弾と組織建設】
 これらの水平社の差別認識は、氷山の一角にすぎません。重要なことは、水平社は、このような身分的差別としての部落差別のあらゆるあらわれにたいして泣き寝入りも沈黙もせずに徹底的に糾弾していったことです。水平社の初期の数年間は、全国において1日平均で3件もの糾弾闘争をたたかっていたのです。糾弾闘争は、身分的紐帯をつよめ、かたい団結をつくりだし、数年で5万人から7万人の組織を立派につくりあげることを可能にしたことです。それを保証した原動力こそは、部落民的自覚としての身分的自覚であり、それにうらづけられた水平社の部落差別の認識です。そして、部落差別を絶対にゆるさず糾弾する人間としての誇りであったといえます。

 第4節 政府国家権力の部落差別攻撃との対決をとおした部落民的自覚の形成

 【水平社の部落改善運動批判】
 改善運動のたぐいのいいぶんは、部落が差別されるのは汚いからだ。部落を改善すれば、差別は撤廃されるという。だから部落の品位を向上させ実力をつけて一般民との融和をはかって救ってやろうという差別のうえにたつインチキ運動でした。具体的には、部落は、生活程度が低い、不衛生だ、倹約、貯蓄心がない、敬神崇敬心がない、教育がとぼしいことなど、これらは部落改善の要綱です。
 だが、部落民の大多数は、無産者であり、このような部落民の生活は、むしろ当然のことであり、その日その日の生活にきゅうし、あすの朝の米を心配する身にとって、生活改善のごときは考えるヒマもないのだ。死ぬより不衛生のほうが、まだましだ。これらは、すべて差別の結果なのだ。
 たしかに、トラホームは少なくなり、少しは清潔になったかも知れぬ。教育程度も向上したであろうが、しかも特殊部落は解放されてはいない。けっしてだまされてはならない。部落改善とその他の恩恵的施設とは、永久にわれらを現在の奴隷的地位におき、搾取と支配とを存続せしめようとする支配階級の奸策にほかならぬ。それでは、部落は解放できないばかりか、部落民を眠りこませ、自主的決起を圧殺し、あきらめさせ、自力での解放運動を思わせもしなかった。
 現に部落は残っているのだ。改善の模範部落といわれ表彰された和歌山や遠州の部落でもちかくの銭湯や床屋から拒否され、静岡の浜松市近郊の吉野村では、差別され一人の縁組もない。洞部落などは、トラホームが多く、村もまえのように汚なくなった。全村200戸、貧窮のどん底で、差別はそのままだ。模範部落も、いぜんとして部落だ。形式的な衣食住の改善や教育奨励などの改善は、完全に失敗におわったとして、部落改善運動にたいする批判を、つぎの3点にまとめています。
 ひとつは、「特殊部落の改善」の考え方は、根本的に誤っています。改善すべきは、部落民ではなくて、部落を差別迫害している社会そのものだということです。
 ふたつは、特殊部落を特殊部落として改善しようとした点です。模範部落もいぜんとして差別されており、特殊部落改善という言葉と目的が差別そのものであり、部落を特殊なものとして待遇するかぎりは、差別の撤廃ではなく、部落差別を社会的に定着させることです。
 みっつには、その重大な誤りは、部落民自身の行動でなかったことです。部落の解放は、その運動が普通民本位ないし支配階級本位であるかぎり、徹底的効果はのぞめないという点でした。

 【たたかいのなかで部落民の自己肯定の自覚はかちとられた】
 このように部落改善運動は、差別を撤廃させるのではなく、部落民を「人間外の人間」として部落差別を階級支配のカナメにおき社会的に差別を強化するものでした。すでにみた『紀伊毎日』への投稿は、社会改良家や官憲などの部落の改善とは、部落民を人間として、平等な人格をもった人間としてではなく、「まるで牛馬を飼育したり、猛犬を馴重するようなやり方」だ。部落民がのぞむのは、人間として差別から解放され自由になることであり、警官のサーベルの光による救済策などは「むしろありがた迷惑だ」という革命的立場でした。 さまざまな部落の改善の運動は、部落民をおなじ人間としてみていないことを経験をとおしてつかみとることによって、部落の解放は、部落民じしんの手でかちとるしかないという部落民の自己解放の立場が形成されていったのです。いままで差別と搾取の二重の抑圧のなかで「自ら恥じ、自ら卑しうして、社会の冷笑侮蔑の視線をまともに見返すことすらもせず」に、「世間の眼を逃れて、迫害を脱しようとしたことは誤り」であったことを自覚したのです。つまり部落民のあるがままの現実の自己肯定にほかなりません。
 そこからあたえられるものを待つのではなく、自分の欲するものを進んで力ある集団行動でかちとる立場に移行したのです。自己卑下や泣き寝入り、涙は、しいたげられた同胞に救いをあたえない。「進んでエタの権利を主張する時」が、「俺はエタだと勇敢に宣言すべき時がきた」のです。
 「部落の欠陥」なるものは、すべて差別の結果であり、部落民の責任ではないことを痛感することで、部落民の実際の姿を無条件に肯定していったのです。この無条件の自己肯定により差別撤廃にたちあがっていったことこそ、水平社の誇りであり、部落民自己解放の原動力にほかなりません。かくして、水平社は生まれたのです。部落民的自覚こそが、水平社を創立させた主体的根拠であったのです。

   第5節 水平社の部落民的自覚をうみだした三つの源泉

【水平社の部落民的自覚は、どのようにうみだされたのか】
 ひとつは、すでにみてきたように、政府資本家どもの本格的な部落差別攻撃との対決のなかでの痛苦な体験をとおしてでした。
 具体的には、部落改善運動や融和主義にたいする根底的な批判をとおして差別迫害をうけている部落民の現実の姿を肯定し、そこから部落民の人間としての誇りをうばいかえし、部落差別の撤廃にむけた自己解放のたたかいに決起したことが、部落民的自覚をつくりだしていった第1の源泉であり、原動力でした。
 これまでおおくの部落民は、差別されるのは、じぶんに甲斐性がないから、貧しく教育もひくいから仕方がないのではと思っていました。だが、じつはそうではなく、政府資本家や改善屋どもが差別の張本人であり、かれらの利益のために差別され、利用されているとみぬいたとき、まさに目からウロコがおちたような驚きと自信をもったにちがいありません。ここから改善屋の頭、考え方こそ改善しなければならないというコペルニクス的転換がおこり、いっさいの支配階級の虚偽のイデオロギーをうちやぶって身分的自覚がかちとられていったといえます。
 ふたつには、部落民的自覚に、いっそうの確信と自覚をつよめさせたものが、ロシア革命とその後の全世界の民族自決などのたたかいの影響でした。 高橋貞樹は、第一次大戦後の世界の革命的潮流は、部落民につよいつよい刺激をあたえ、われわれの血潮はおどった。一千年来の奴隷生活から脱する秋はきた。この底深き潮流は、同胞の間に高鳴りし、自らの権利に目覚めた。部落民じしんの行動により解放運動の生まれているのは理の当然である、と当時の状況をのべています。当時の水平社のおもなロシア革命観は、差別と迫害、民族抑圧のなかで苦しんできたユダヤ民族が、ロシア革命の主役であったというものでした。もっとも民族抑圧をされたユダヤ民族こそが、もっとも労働者解放の先鋒的役割を果たしたという認識です。
 ここから日本でもっとも差別迫害をされている「エタ民族」(部落民ということ)こそが、部落民はいうまでもなく、日本の民衆の解放のみならず、「全人類の完成」を実現していく至高の選民であると自覚したとき、いかに部落民の人間的存在の価値にうちふるえたことであろうか。想像を絶するものがあります。ここからたたかう部落民は、数百年来にわたり虐げられてきた〈賤民〉から、「全人類の完成(解放)」のための選ばれた民として〈選民〉となった、という解放の革命的主体としての自覚となっているのです。まさに心から「いまやエタとして誇りうる時がきた」のであり、「エタの権利」をかちとるのだという部落民的自覚の形成に、ロシア革命は、決定的影響をあたえたのです。
 実際、水平社の第2回大会で、はやくもロシア政府の承認の件がだされています。保留になりましたが、第3回大会で山田孝野次郎少年の賛成演説のなかで可決されています。第2回大会後の演説会で泉野利喜蔵は「エタの独裁国家をつくれ」と叫んでいますが、ロシア革命が、いかに部落民的自覚の形成に影響をあたえたかを知ることができます。
 みっつには、マルクス主義との結合です。 水平社の創立において佐野学の「特殊部落解放論」があたえたマルクス主義の影響は有名です。それは、融和主義とのたたかいのなかでかちとりつつあった部落民の自己解放論と交差しながら部落民じしんによる自己解放論と労働者階級との階級的結合、この両者のたたかいによる「よき日」(共産主義社会)の実現という点において、水平社をうみだす主体的な条件におおきく影響をあたえたのでした。
 また「特殊部落解放論」は、部落起源論からはじまっており、部落民の歴史的地位とその使命の自覚にはたした起源論の役割をみおとすことはできないと思います。当時の起源論は、職業起源説などの歴史的制約はありますが、支配的であった異民族起源説の誤りをのりこえて、部落民は、歴史的に被搾取階級の一員であるとともに、被搾取階級の最底辺として搾取と差別迫害の厳しい二重の圧迫をうけてきたという自覚をもったことは、創立宣言にみられるように、水平社の結成に大きな影響をあたえたといえます。ここには、身分的自覚と階級的自覚をひとつのものとして統一し、身分闘争と階級闘争をひとつのものとしてたたかっていくことの重要性がしめされています。
 さらに堺利彦などの「無産社発行リーフレット」では、労働者のがわから、部落民を身分的に差別された階級の一員である兄弟として一緒にたたかうことをうったえていることは決定的に重要です。部落民のがわからは、労働者こそ、社会の主人公であり、部落差別の根っこである階級を廃絶する中心勢力とみとめています。そして、ともに手をあわせて労働者の解放と部落民の解放をかちとるために「おなじ奴隷」として貧富をうみだす資本家、地主を打倒するための階級的共同闘争を誓いあうところまで到達しています。このたたかいは、やがて労働運動や農民運動のなかで現実のものとなっていくのですが、じつに偉大な前進です。

 第6節 部落民的自覚の四つの契機

 部落民的自覚の三つの源泉をみてきたのですが、ひとことでいえば、部落民的自覚とは、部落民の自己解放をとおして部落差別を撤廃するための身分的自覚です。そして、この部落民的自覚は、四つの側面、契機からなりたっているといえます。
 ひとつは、それは、身分的自覚であることです。部落民が数百年にわたってかわらぬ部落差別をうけてきたことの自覚です。つまり明治の時代になっても、エタよ、新平民よ、特殊部落と差別され、江戸時代の身分制度の身分差別とかわらない身分的差別をうけていることの自覚です。祖先の涸れずにあった人間の血と自由と平等のたたかいの伝統をうけつぎ、今こそ身分的差別をうちくだこうとする決意と自覚こそが身分的自覚といえます。
 ふたつには、それは、歴史的に蓄積されてきた被差別体験の追体験を媒介とした身分的紐帯の自覚とそこからうみだされる部落民の団結です。しかし、この歴史的に蓄積された身分的紐帯が、ただちに部落民的自覚となって団結が強化されるとはいえません。それは、長いあいだ身分的紐帯を実感しながらも、あきらめと絶望が支配してきたことをみればあきらかです。身分的紐帯がありながらも差別はないという逆転されたあらわれかたもあります。身分的自覚の覚醒とむすびついたときに、身分的紐帯と団結がつよめられ、水平社の燎原の火のように組織がつくられていったのです。
 みっつには、それは、部落民の存在と現実にたいする自己肯定を出発点としてうみだされていることです。部落民は、政府資本家どもの搾取と差別迫害、人の世の冷たさのなかで迫害と貧困をしいられています。それは部落民の責任ではなく、差別の結果であるにすぎません。したがって、あるがままの部落民の生活や現状をあきらめたり卑下するのではなく、それをまるごと肯定することからはじまるのです。そこから人間としての誇りをうばいかえし、部落民的自覚がかちとられたのです。
 よっつには、部落民的自覚は、部落民の自己解放の自覚です。身分的自覚がうみだされると差別とたたかう団結がうみだされ、部落差別の撤廃をめざす部落民じしんによる自己解放運動へと発展することになります。全国水平社の結成は、部落民の自己解放の第一声としてとどろきわたりました。それは、幾重ものあつい差別の鉄鎖をうちやぶり、部落差別を撤廃するためには、なによりも部落民じしんの手ではじめなければ、まったく現実性がないことから必然となるといえます。水平社がうみだされたことは、まさに歴史的な必然だったのです。
 このような部落民としての誇りと身分的自覚によってはじめて水平社は誕生したのです。身分的差別にたいする部落民的自覚がなかったとしたら水平社の創立はなかった、といっても過言ではありません。

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第4章 五万人組織建設の核心問題としての部落民的自覚

 第1節 身分的自覚こそ五万人組織建設の原動力

 【いまこそ、水平社の部落民的自覚を復権させるとき】
 水平社をうみだした核心的なものは、〈エタの誇り〉という部落民的自覚でした。この部落民的意識は、差別にたいする徹底糾弾として爆発し、身分的紐帯の自覚と団結をいっきょにときはなっていったのでした。それは、部落大衆の部落民的自覚を集団的につくりだし、この集団的な自覚をかちとることによって数万から7万人の組織をつくり、その後も5万人前後の組織を恒常的にもちつづけたのでした。
 わたしたちは、この教訓を全国連の五万人組織建設にいかしきっていかねばなりません。五万人組織建設をつくりだしていく核心問題は、水平社のように部落民の人間としての誇りを復権し、身分的差別を撤廃していく部落大衆の部落民的自覚を集団的に形成していくことのなかにあります。この部落民的自覚を大衆的につくりだす度合いにおうじて組織建設はすすむのであり、部落民的自覚をつくりだすことができなければ、五万人組織建設はありえない、といっても過言ではありません。水平社は、部落民を天皇制とその国家の奴隷とすることをめざした攻撃である部落改善運動や融和主義との対決をとおして部落民的自覚をかちとったのです。この身分的自覚としての部落民的自覚の集団的形成をかちとることなしには、そもそも水平社は結成されなかったといえます。
 この水平社の教訓は、わたしたちの当面する課題である全国連五万人組織建設をかちとるためには、こんにちてきに、水平社のような部落民的自覚を復権することが最大の核心問題であることを教えています。そして、水平社の部落民的意識とその自覚は、部落内外の融和主義との血のにじむような長期のたたかいのなかでつくられたのでした。その出発点をなしたものが、博毎差別糾弾闘争であり、米騒動への決起が大衆的にこの自覚を覚醒していくおおきな条件をひろげたのでした。このようなたたかいの鉄火のなかでのみ部落民的自覚は形成されていったといえます。
 こんにち、解同本部派が融和団体化しているなかで、この部落民的自覚は、急速に解体されつつあり、「部落差別はなくなったのではないか」という意識が、部落解放運動をおおいつくそうとしています。しかし、事実は、部落差別の大洪水と生活地獄がふかまり、戦争と改憲、民営化による労働組合破壊攻撃のなかで部落差別は堰をきったようにつよめられているのです。水平社の部落認識のいったんをみてきましたが、こんにちにおいても、水平社の時代の部落差別の実態と現実は、ほとんどかわっていないといえます。にもかかわらず、なぜ、部落差別が解消したかのような考えが支配的なのでしょうか。 部落差別解消的な考え方をもたらしているのは、ひとつには、部落差別はなくなったというペテンをろうして同和事業をうちきり、地区指定がなくなったのだから部落そのものが解消されたなどという政府国家権力の虚偽のイデオロギーです。かれらこそが、部落差別の元凶なのです。
 ふたつには、戦後解放運動が解同本部派の幹部たちの融和主義への転向によってもたらされていることです。融和主義は、部落民的自覚をねむりこませて部落民を戦争と天皇制の奴隷として地獄への道をひくものです。
 みっつには、日本共産党=全解連は、すでに部落差別はなくなったと団体解散していますが、政府国家権力に率先して部落差別解消的認識の害毒をふりまいているからです。
 このように、こんにちの部落解放運動をとりまく状況は、政府国家権力とその手先となってしまった融和主義が、部落大衆をがんじがらめに縛りあげているといえるのです。このなかで、たとえ一時的であれ、部落民的自覚が沈殿化されていくことは必然的なのです。 だが、戦前も戦後も身分的差別としての部落差別の実態は、いっかんしてつづいているのです。水平社の差別糾弾や戦後解同の運動の発展がロコツな差別を後景化させていったことはあります。しかし、戦争と民営化(労組破壊)の時代のなかで既成の解放運動が融和団体化するなかで差別への堤防が決壊し、搾取と収奪の強化、差別と迫害の二重の抑圧が300万のきょうだいにおそいかかっているのです。この二重の抑圧にガマンのおがきれたとき、膨大な部落大衆が決起してくることは不可避ですが、それはまた、部落民的自覚の形成なしには不可能でもあるのです。そのことは、戦前、水平社の幹部たちが融和主義に転向し、部落大衆を戦争動員していったことをみてもあきらかです。
 ここで問題となることが、運動の発展と五万人組織をつくりだすためには、差別洪水と融和主義の重包囲のなかで、いかに部落民的自覚を集団的につくりだすかということです。この身分的自覚を大衆的に形成することができなければ、運動の前進も五万人組織建設もできない、といっても過言ではありません。水平社の教訓がしめしているとおりです。 問題は、つぎのように提起されています。部落民的自覚を大衆的に形成し五万人組織を建設するのか、それとも戦前の水平社の戦争協力の地獄に300万のきょうだいをつきおとすのか、と。こたえは、あまりにもあきらかです。五万人組織建設の核心中の核心点は、部落民的自覚の再形成にあるのです。
 この部落民的自覚をつくりだすためには、それにふさわしい組織変革と血の汗の努力がもとめられています。それは、水平社が部落改善運動や融和主義との対決をとおして部落民的自覚をつくりだしていった苦難の道のりを、これから全国連が共有していくことであるように思われます。だが、すでに全国連は、創立から14年の歴史を誇っているのであり、単純に水平社の苦闘の再現ではありません。全国連第15回大会をもって身分的自覚の形成に意識的にとりくみ五万人組織建設の勝利にむかって前進しましょう。

 第2節 全国連の三大闘争を発展させ部落民的自覚の再形成を

 水平社創立の教訓は、部落民の自己解放をとおして部落差別を撤廃するための身分的自覚としての部落民的自覚は、真空のなかでは絶対にできないこと、たたかいの鉄火のなかでこそ形成することができることをしめしています。わたしたちは、この部落民的自覚を三大闘争路線をつらぬくなかで着実につくりだしていかねばなりません。全国連の三大闘争は、差別糾弾闘争を基軸とする差別糾弾闘争、要求闘争、階級的共同闘争ですが、あくまで狭山闘争を天王山とする差別糾弾闘争を基軸としています。すべての課題のなかに差別糾弾をつらぬくものです。
 ここでたいせつなことは、差別糾弾闘争を本格的にたたかうためには、部落民的自覚に支えられなければならないことです。差別糾弾の復権とは、部落民的自覚の復権とおなじことなのです。水平社創立大会の決議は、自己解放をめざす部落民自身の行動として、「穢多及び特殊部落民等の言行によって侮辱の意思を表示したる時は徹底的糺弾を為す」(第1項)とかかげ、差別糾弾闘争を解放運動の不動の基軸としています。しかし、この第1項も、〈エタの誇り〉という身分的自覚にもとづいて、たたかいの基軸として差別糾弾闘争を確立したのでした。つまり水平社においては、部落民的自覚と差別糾弾方針はひとつのものであり、むしろ部落民的意識と自覚があってはじめて糾弾闘争がなりたつこと、またたたかえるという構造になっているのです。したがって、部落民の人間性を抹殺する「エタ」などという激しい差別襲撃を糾弾する力には、つよい部落民的自覚が必要なのです。部落民的自覚こそが、三大闘争を三大闘争としてかちとっていく原動力そのものといえます。
 さらに、全国連の三大闘争は、水平社の綱領のこんにち的な復権という意義をもっています。したがって、三大闘争とは、みっつの領域のたたかいをとおして部落民的自覚をつくりあげること、その集団的な自覚をつくることによって部落差別を撤廃し、部落民の人間的解放をかちとっていく部落解放運動の不滅の路線です。だから三大闘争路線は、ひとつひとつの要求の実現のために差別糾弾闘争として全力をあげることに限定されるものではありません。むしろひとつひとつの闘争をとおして部落民的自覚を意識的につくりだしていくことに核心的課題があるのです。そうすることによって大衆闘争を発展させたが、全国連には結集しないというような状況を克服することもできるといえます。
 三大闘争の爆発は、かならず大量の部落民的自覚を集団的につくりだします。この部落民意識と自覚を大衆的につくりだすことによって、闘争じたいも正しく差別糾弾闘争として発展させることもできるし、また部落民的意識(自覚)の結集体としての全国連組織もつくられていくことはあきらかです。つまり五万人組織をつくりだすことは、まったく可能なのです。五万人組織をつくりあげれば、全国に全国連の大拠点をいくつもつくり、三大闘争を爆発的に組織することが可能となり、部落差別の撤廃にむかっての勝利の展望を確実にたぐりよせることができます。まさに三大闘争のなかで部落民的自覚を集団的大衆的につくりあげることが、部落解放の勝利にむかっての試練なのです。
 これこそ、水平社の結成にいたる部落民的自覚の覚醒とその獲得にいたる産みの苦しみであったのです。そして、水平社は、〈エタの誇り〉としての身分的自覚を集団的につくりあげることによってのみ生まれえたのでした。わたしたちは、こんにちの部落差別解消的意識がおおっているなかで、差別迫害への怒りの蓄積による身分的紐帯をどだいとして、部落民的自覚をねばり強く形成していかねばなりません。それは、たしかに全国連五万人建設のうみの苦しみではありますが、水平社創立の教訓は、かならずそれは可能であることをしめしています。
 いまこそ、三大闘争のなかで大胆に身分的自覚の形成をかちとり、全国連の五万人組織建設にむかって火の玉となってたたかおうではありませんか。(了)

(部落解放理論センター事務局長 むねかた けいすけ)

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