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10・31寺尾判決31ヵ年糾弾! 全国統一行動へ!
差別犯罪糾弾する第3次再審闘争きりひらこう
 ('05/09)
9月要請行動で差別的証拠かくしを糾弾

 9月26日、全国連と解放共闘は東京高裁に対して証拠開示を求める要請行動にたちあがりました。
 今回の要請行動は、来春といわれる第3次再審請求で重要なたたかいとなる証拠開示をせまるものとしてたたかわれました。
多くの人が署名で証拠開示を訴えた
('05/09/26 霞ヶ関)
 3月の最高裁による第2次再審棄却決定いこう、最高検は、「もう狭山事件は自分たちの管轄ではない」とにげてきました。
 わたしたちは、証拠とそのリストの開示を拒否し、最高裁の棄却決定を援護した検察をゆるさず、5月には検察庁前に陣取って実力の要請行動をたたかいました。
 この地平から第3次再審闘争へむけて、今回、実際に狭山事件の証拠を管理し、東京高裁に第3次再審請求がされれば担当となる東京高検に対して、第3次再審闘争をわたしたちの側からきりひらくたたかいにうってでたのです。  各地から集まったきょうだいは、昼休みに霞ヶ関の交差点で「検察は無実の証拠をぜんぶだせ」と訴える署名宣伝行動にたちあがりました。
 用意した新リーフは昼休みの官庁職員たちにすいこまれるように受け取られました。
 署名をよびかける声に、多くの人が足をとめ、「ちゃんと事実調べすべきですよね」「証拠をださないのはおかしい」とペンを走らせました。
 弁護士会館での集会のあと、全員で検察庁へむかいました。
 東京高検からは公判事務課の山口係長と原口事務官が対応。
 1審差別論告を護持し、証拠開示を拒否しつづける検察の姿勢をただしました。
 担当検事については、この春に横浜地検の横須賀支部からきた菊川秀子検事であること、第3次再審が請求されても異動などないかぎり、菊川検事が狭山担当検事となるだろうと回答がありました。
 要請団は、「石川さんは、刑事たちから犯人が書いた脅迫状を見せられ、何枚も書き写す練習をさせられたこと、その紙が今も検察にあるはずだと最高裁にあてた上申書で訴えている。こんなことが許されるのか。検察はこの紙を開示すべきだ」と訴えました。
 これに対して山口係長は、「もしもそんなことがあれば不当ですよ。でも、警察が違法なもの(証拠)を検察に出すと思いますか? 検察のなかにそんなものは見当たらないですよ」と言い放ったのです。要請団は「違法捜査の証拠は隠蔽して当然というのか」「リストも開示せずに『そんなものはない』などと言うな」と弾劾しました。

全国統一行動で〈無実・差別〉の再武装を

無実の証拠を開示せよ! 9月26日 検察庁前
 また、証拠リストの開示によって「警察に協力した人が攻撃されるかもしれない」などという山口係長の見解に対し、「本末転倒だ。開示されれば、差別的偏見と偽証によって石川さんの人生を奪ったことが明らかになるかもしれないのに、いったいどう考えているのか」と追及しました。
 さらに山口係長は「わたしは狭山事件の証拠をみたが並べても『2、3b』もない。だいたい『2、3b』に1bも誤差がある。おかしいと思いませんか」と言い出す始末です。
 「違法なものを警察が出すわけがない」「リストを開示すれば警察への協力者が攻撃される」「証拠は2、3bもない」…。
 わたしたちの糾弾によって、検察は、真実の追究という建前もかなぐり捨て、警察の差別捜査やそれに加担した協力者を糾弾から守るためにのみ、証拠開示を拒否しているのだという不正義の姿をさらけ出しました。
 1審差別論告について問われると「いまきかせていただいたのが初めてです。(本部派の要請文も)読んだが、そのような記述はなかった」としか答えられません。
 今なお権力は、石川さんやわたしたち部落民を犯罪者あつかいし、権力の威信を守るためのイケニエになっていろと公言しているのです。
 差別にみちた開示拒否をつづける検察を糾弾し、事実調べ・証拠開示と再審を実現する第3次再審闘争をきりひらいていきましょう。10・31寺尾判決31カ年糾弾の全国統一行動から11・6労働者集会にたちあがりましょう。

「自白」の強制はどのようにおこなわれたか
 −第3次再審闘争構築にむけて−
部落から「生きた犯人」をつかまえるやり口

 狭山事件では、警察が犯人をとりにがし、事件を公表した翌日の5月3日には、事件発生現場の近くにあった石田養豚所(経営者、従業員とも部落の者でしめていた)に目をつけ、「現在いる者、前にいた者の名前、住所」の聞き込みをおこなっています。
 6日に重要容疑者とされていた被害者宅の元作男Oが自殺するという事態に直面した警察は、その日のうちに石田養豚所に「スコップ1丁がなくなった」という「被害届」を出させています。
 8日には「石田養豚所関係者」とされた28人をふくむ120人が、ふたつの部落からリストアップされました。
事件当初から部落青年が働く養豚所に目をつけた刑事たち
 「1週間にわたって、部落と外界との交通が遮断されて、警察がほとんど軒並みに立ち並んで、それに報道班が入って、まったく昔の首狩りのようなかたちでやっている」(衆議院議員・部落解放同盟書記長の田中織之進氏=当時)という状況が、「捜査」と称してつくられたのです。
 「ヨソ者(部落の者)の仕業にちがいない」と言って聞き込みにも口をとざしていた一般地区住民は、この差別捜査と呼応して一転して炊き出しまでして捜査協力に乗り出したほどでした。
 11日には、遺体発見現場から120bの麦畑で「スコップ」が農婦によって発見されました。遺体発見後、捜査員が草の根を分けて徹底捜査した場所から突如としてスコップが現れたのです。
 警察は「被害届」をだした養豚所の経営者への確認も鑑定も待たず、「石田養豚所のもの」と断定。この「スコップ発見」をもって〈犯人=養豚所の者=部落の者〉という図式が強引につくられたのです。
 こうして警察は、4人の青年を「生きた犯人」の「候補」として別件で逮捕したのです。警察は、そのうちもっともアリバイを証明しにくかった石川一雄さんを犯人にデッチあげるために、「取り調べ」という名のデッチあげ作業に全力をあげたのです。

暴行・拷問・脅迫・デマ、取り引きの強要

 石川さんは、昨年10月に最高裁にだした上申書で次のように訴えています。
 逮捕された当日から「中田善枝さん」殺しに就いて追及されました。特に取調官らは、既に「T・A」や「T・I」らは「お前と一緒に善枝を殺したと言ってる」などと、それは筆舌に尽くし難い「罵声」或いは机を叩いたり、髪の毛を引っ張ったりして「自白」を迫ったのです。けれども私は如何様にされても、こと善枝さん殺しに関しては殺していませんので、その様に言い張り続ける他にありませんでした。
 「石川が何時までも善枝を殺したと言わないなら、お前を殺して埋めてしまっても、逃げられてしまったと言えば、誰からもわからないんだ」などと脅され、…善枝さん殺しを認めなければ世間の人たちには「石川は逃げてしまった」という発表をされ、本当に殺され、どこかに埋められてしまうかもしれないと怖く、恐ろしくなってしまいました。
 権力は、石川さんを「煮て食おうが焼いて食おうが勝手」という状況におきながら、1ヶ月も無実を叫ぶ石川さんに驚嘆と憎悪をつのらせていきます。

部落の家族の絆にもつけこむ

狭山事件で暴虐の限りをつくし退職3年後に勲5等を受けた長谷部刑事
 警察は、貧しい家計を親兄弟の稼ぎでやりくりしていた部落の家族の絆まで利用しつくしました。「現場足跡は兄の地下足袋と同じだ」「お前でなければ兄を逮捕する」と迫ったのです。

 長谷部さんから、@実兄を逮捕すると言われたこと、A私は別件だけでも10年位刑務所に入ることになると言われたこと、B私が「善枝さん」殺しを認めれば、実兄を逮捕しない上に、別件を合わせて10年で出してやると言われたこと、C実兄は一家を支えており、実兄が逮捕されれば、一家が路頭に迷う、等々と考え、それならば取調官に従って、いっそのこと、私が犯人になってしまおうかと思い、自分が犯人として自白して終ったわけです。実兄が5月1日に遅く帰ってきたのが仕事の関係であり、アリバイがあったことを知ったのは、ずっとあとになって、接見禁止が解けて、面会してからでした。

権力の組織的差別捜査に糾弾を

 こうした差別捜査が国家の威信を守るためにずっと常套手段とされていることを許すことはできません。
 狭山事件当初、石川さんの取り調べ主任であった清水利一警部は、1960年に熊谷でおきた女子工員殺害事件でも、26才の青年Tさんとその友人2人を別件逮捕し、Tさんを犯人にデッチあげているのです。
 そのやり方も狭山事件とそっくりです。清水らは無実を訴えるTさんを「柔道を教えてやる」といって署内の道場に連行したのです。背負い投げ、腰車、大外刈りなどをしかけて床にたたきつけ、「やめてくれ」と訴えるTさんに「尋問」をし、デッチあげに都合のいい「自白」をひきだすまで、暴行をくりかえしたのです。
 Tさんはただ苦しみから逃れるためにのみ、自分がしてもいないことを思いつくまま「自白」させらました。被害者の自転車を「池に捨てた」といえば、刑事たちは「捜索」に行く。しかし出てくるはずもない。それでまた清水らは怒って「練習だ」と暴行をくりかえす。これが3日間。
 ついにTさんは「自白」をおしつけられました。清水らはそれをテープに録音しました。いい間違えると「そうじゃないだろう。もっとちゃんとしゃべれ」と怒鳴り、頭をこづきまわして、Tさんの「証言テープ」をつくりあげたのです。
 この事件でも被害者の死体を埋めるときに使った道具として「自宅から唐クワをもちだした」と「自白」させられています。Tさんも家族も覚えのないクワがTさんの自宅から押収され、驚くべきことにクワに付着していた土が死体埋没現場の土と一致したという警察鑑定まで出されたのです。
石川さんに手錠をかけたまま「自白」を強要する刑事たち
 狭山事件での「石田養豚所のスコップ」と同じやり方です。 
 事件は真犯人を知る人から匿名の情報がTさんの国選弁護人によせられ急展開します。弁護士の尽力で、情報どおりに真犯人の自宅や畑に埋められた被害者の自転車が発見され、真犯人が逮捕されたのです。
 その後、清水警部ら4警官が埼玉県弁護士会から特別公務員暴行容疑で告発されました。しかし、浦和地検は、捜査したがそのような事実はなかったとして不起訴処分、県警も4警官をなんの処分もしなかったのです。
 それどころか、清水は熊谷事件後も着々と昇進し、狭山事件で石川さんをデッチあげた直後の8月には岩槻署の署長にまで栄転しています。まさに国家権力による差別犯罪の奨励、報奨です。
 この差別捜査の奨励は、全国的なものです。差別による冤罪事件が、1951年から76年の間だけでも、埼玉のみならず千葉、栃木、東京、大阪、京都、奈良、兵庫、岡山、広島、山口、高知、福岡など、20件以上も明らかになっているのです。これらは無実が明らかになったもので氷山の一角です。
 いずれも「捜査」や日常的な巡回で収集した部落青年の家族・友人関係、プライバシーや「弱み」をたくみに利用するやり口です。 数百年におよぶ部落差別が生み出した現実を「貧困」「親の愛情に恵まれず」「遵法精神稀薄ならしめ」(浦和地検の1審論告)と言いなし、「服を借りて返さなかった」(狭山事件)、「パン代50円を払わなかった」(熊谷事件)などといって別件逮捕する。 あるいは一昨年の寝屋川弾圧のように、部落の青年が会社に労働災害の申請を要求したことを「恐喝罪」にデッチあげて逮捕する。こんな警察の差別犯罪こそが徹底的にあばかれ裁かれなければなりません。

差別犯罪糾弾する第3次再審闘争へ

 狭山裁判での事実調べと証拠開示、再審での無実をかちとるたたかいは、高松差別裁判糾弾闘争や寝屋川弾圧粉砕闘争の勝利が示したように、差別糾弾闘争の成否できまるのです。
 権力による差別犯罪をあばき、糾弾するというたたかいの柱を見失ったところに、狭山第3次再審闘争はきりひらかれません。
 「脅迫状」の筆跡や封筒の筆記用具、万年筆と鴨居、足跡と地下足袋、腕時計、カバン、殺害方法、死体運搬方法…狭山裁判でいくつも明らかにされてきた「自白」と客観的事実のくいちがいは、権力による差別犯罪をあばき糾弾するものとしてさらに磨きあげ、事実調べと証拠開示へとつないでいかねばなりません。
 10・31寺尾差別判決31ヵ年にむけ、あらためて権力の差別犯罪の姿を怒りをもってあばき、糾弾し、全国の地域、職場、学校で新署名を拡大しましょう。
11・6労働者集会へ決起しましょう。
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