柿収穫ボランティア活動レポート

(2018年01月22日)

 

九州北部豪雨からちょうど5か月経った今月6日,豪雨で行方不明になっていた女性の遺体が、遠く離れた久留米市の筑後川河川敷で見つかりました。これで犠牲者は38名となり,依然と3名の方が行方不明のままです。また,11月末までにすべての避難所が閉鎖されましたが、朝倉市と福岡県東峰村では仮設住宅107戸で220人が生活。みなし仮設住宅や公営・公的住宅で生活する人も,福岡・大分の両県で1000人以上に上り、今も合わせて1300人以上の方が自宅外での暮らしを強いられています。

 今回の豪雨で,朝倉市内の部落も大きな災害に見舞われましたが,村内の住宅10棟と村の主要産業である柿園に大きな被害が出た杷木S地区も,生活再建の取り組みが懸命に続けられています。この地区はブランド富有柿「志波柿」の産地として有名ですが,今回の豪雨で,村の人たちが営む12町歩の柿園に通じる農道は至る所で崩落、路面がデコボコに剥がれ,園内は大石や砂利、土砂-流木が流れ込み約6割に甚大な被害が出て,一時は今年の柿の収穫が絶望視されていました。しかし,村の人たちは,全国から寄せられた義援金などの支援にも支えられながら,農道の自主整備など懸命の復旧活動に取り組み,例年の収穫量には到底及ばないものの,被災を免れた柿園には見事な富有柿が一面に実っているのです。

 ところが,ここで新たな問題が持ち上がりました。災害復旧活動に時間をとられ,ただでさえ今年の収穫作業の開始が出遅れていたのに,先月末からの厳しい寒波が農家に追い打ちをかけているのです。柿は何度も霜が付くと果肉が柔らかくなって商品価値が下がってしまいます。寒さや霜で実が凍ると味や食感が落ちてしまうためです。二重被害を恐れ、柿農家は家族や親戚総出で収穫のピッチを上げなければなりませんが,部落では高齢化が進み,若手の人出が圧倒的に足りません。また,村の柿農家はそれぞれ一斉に作業をしなければならないので,村の人たち同士の助けあいも限られます。農協に人出を頼むと,柿の収入以上の人件費がかさんでしまいます。  

こうした村の状況を憂いた村上副委員長が,今月初めからS地区の柿収穫作業支援に連日入っていましたが,柿の収穫は全くの手作業のため,圧倒的に人手が足りません。そして時間との勝負です。急遽,村上副委員長から連絡を受けた災害対策本部は,12月9日と10日の二日間,柿の収穫ボランティアに取組みことにしました。急な呼びかけにもかかわらず,県下の兄弟や支援の方が二日間で延べ15名参加してくれました。

作業に入ったのは,S地区の近くにあるOさんの約1町歩の柿園。無数の富有柿が,まだ全く手つかずに実っています。Oさんに何本の木があるのか尋ねてみましたが,数えたことがないので,わからないとの返答。村上副委員長によると300本以上はあるとのことでした。作業に入る前に,自らも柿農家である村上副委員長に,収穫作業の注意点などを教えてもらい,各々が収穫かごやハサミをもって,柿の収穫作業に取り掛かります。

初めは,どの柿を採っていいのか戸惑う参加者でしたが,とにかく全部の柿をハサミで切り取り,商品になりそうな物はコンテナの中に,迷うものはコンテナの横に置くよう指示があり,少しずつ作業に慣れていきます。厄介なのは,熟し過ぎた柿です。最初にこれを取り除かないと,木が揺れたはずみで熟し過ぎた柿が頭の上から落ちてきます。実際に帽子の上から熟した柿の洗礼を受けた人もいました。片手で柿を持ち,もう一方の手のハサミで柿を切り取り,切り取った柿のヘタで他の柿を傷つけないように,ヘタをもう一度短く切り取る,そして収穫かごに入れ,溜まったら選別しながらコンテナに入れる,この作業が延々と続きます。コンテナに溜まった柿は,Oさんが運搬車で回収して回り,園内の作業小屋に運ばれます。作業小屋に運ばれたコンテナの柿は,選別作業に移りますが,ここはOさんの奥様が,高く積まれたコンテナの横で一人で黙々と作業をしてありました。

一日目は,昼食休憩をはさんで16時半まで,二日目は,朝から雨が降り出すという悪天候だったため,15時頃に作業を切り上げましたが,二日間でコンテナ400個近い柿を収穫することができました。しかし,作業を終わって柿園を眺めてみると,無数の富有柿が柿園いっぱいに実っており,どこを収穫したんだろうと気持ちになります。それだけ,まだまだ多くの富有柿が収穫を待っています。しかし,時間がありません。今週は,また寒波の襲来が予想されており,村上副委員長によると,残された収穫期限はあと1週間位が限度ではないかとのことです。

このため,災害対策本部は,12月16日と17日にも柿の収穫ボランティア活動に取り組むことにしました。みなさんの引き続きのご支援を訴えます。そして、完熟した甘い柿をぜひ現地でご賞味ください。


2017年12月11日

      福岡災害対策本部

   

8・6ヒロシマのつどいの御案内

(2017年07月22日)

 私たち実行委員会は毎年原爆の日の「8・6ヒロシマのつどい」を通じて,過去の戦争を反省し,その結果としての沖縄の地上戦そして原爆投下である歴史と向き合い,戦争や差別,原発事故をくり返さないための企画として取り組んでまいりました。ことしで10回目の開催を迎えます。
今年は被爆から72年を迎えます。しかし,いま世界中で戦争情勢に突入しています。そのなか安倍政権は共謀罪の強行採決,自衛隊の憲法明記=改憲,辺野古新基地建設,核の使用も辞さないとささやかれ,戦争情勢に追い打ちをかけてきています。
だからこそ,あらためて被爆者の核を許さない切実な思いや,放射能被害の恐ろしさ,そして過去の戦争加害に対する責任をあらためて学び,継承し,発信することが,いま切実に求められているのではないでしょうか。
私たちは福島地区の一住民の立場として,新たなつながり,団結のもと,解放運動を再構築しなければなりません。これからもこのムラで子孫が人間らしく生きるために,差別とたたかう新たな潮流を築き,新たな発信を開始するとともに,地元の被爆者や,差別に苦しんできた住民の世代を超えた和をつくり,新たな一歩を踏み出したい。またそこに全国からの皆様とも交流し賑わいをつくりたい。

その目的から,広島原爆の日の8月6日,福島地区にて三回目の「きずなインふくしま」を開催します。
「福島地区のつどい」では,地元福島地区の被爆者の話や,実行委員会からのアピールを中心とした集会をおこないます。そして西区役所前でのステージ,露店をはじめ,被爆についての座談会も予定しています。
この度も,本会のご参加ならびにご協賛をよろしくお願い申し上げます。

(当日の主なスケジュール予定)
被爆72周年 8・6ヒロシマ 福島地区のつどい 【広島市西区いきいきプラザ4階講堂】
8/6(日) 11:00~12:30  被爆者の訴え,実行委員会からのアピールなど
きずな イン ふくしま ステージ,飲食,展示ブースなど【西区役所前緑地帯】
8/6(日) 11:00~17:00  (ステージは13:00~)




〇実行委員会からの8・6の呼びかけ
 さん(元毒ガス工場工員,毒ガス島歴史研究所顧問)
私は1926年広島県竹原市の被差別部落で生まれ,大日本帝国憲法,軍国主義のもと,教育勅語を教育させられた。その中で,中国人を「人間外の人間」「家畜以下」とみなし,殺して当たり前の加害意識をもって,大久野島で毒ガスを製造した。
だが,部落解放運動を通じて,加害の根性をたたき直すことを強烈に自覚し,30年から40年をかけて,自己変革,自己批判をしてきた。人間が生まれながらにして持っている基本的人権に抵触し,なぜそれが発したのか,現象の本質に迫ってきた。
そうして謝罪のため中国を訪ねた。当時芋穴から8mくらい掘り下げ, 8kmもある手掘りの避難所に,毒ガスを使った。住民1,072人のうち助かったのは34人。虐殺した。慰霊碑に参拝したが,言葉で謝罪は済まされない。賠償しなければならない。しかし財力はない。国家に賠償させることを約束して帰り,そのための法律制定をいまも要求し続けている。重慶大爆撃被害者補償の裁判傍聴や,東京高裁での街宣も行っている。
日本軍は1941年12月8日,真珠湾攻撃を仕掛けた。それをしてなければ,原爆はなかった。
年代が変わるほど,加害の事実が忘れ去られていく。
しかし,大久野島はこれからも命をとっていくのだ。
安倍政権は今,明治憲法に戻そうとしている。教育勅語や共謀罪がまかり通り,まさに合法的暴力団と化している。今こそ第三次世界大戦を阻止するため,根性をつけて対抗する勢力をつくりあげていく。私にはそういう責任がある。
8・6ヒロシマは,人の命にかかわるという本質にとことんこだわり,原爆も,毒ガスも,戦争も,差別も,そして原発も,すべてにおいて,加害と被害,二つを合わせて,そこから平和を追求していくこと。
そしてそれをアピールする人間を増やしていくことが肝心である。
   

九州北部水害の現況  7月12現在・投稿O

(2017年07月22日)

 福岡県、大分県で多大な被害を出した豪雨・山崩れの現場に行ってきた。  朝倉市に住む、村上久義副委員長が忙しい中、現地を案内してくれた。朝倉市杷木町の林田地区、赤谷川沿いの村上さんの田んぼある東林田地区、同川上流の松末小学校。そして久喜宮地区、志波地区、杉馬場地区の6か所を5時間かけてまわった。  亡くなった方が27名、行方不明者が現時点で21名の大災害だ。現場はどこも自衛隊による行方不明者の捜索活動が行われている。捜索と捜索のための道路補修は行われているが、復旧作業などはまだまだ先の話だ。杉馬場では、行方不明者の遺体が見つけられたのだろう。ブルーシートがかぶせられ、警察官が走り回る現場に出くわした。村のすぐ横だ。遺体と対面する家族のことを思うとやりきれない。 赤谷川流域の3人が流された現場では家は崩壊し泥に埋まっている。固まった泥と大量の流木をみると行方不明者の発見にどれだけの時間がかかるのかは素人の私にも想像がつく。一刻も早く救出を願うだけだ。  土台を濁流に流され、鉄骨柱一本で今にも川に崩れ落ちそうな味噌屋さん。潰れた家や1階の屋根付近まで完全に泥に埋もれた家が連なる。表からは何の被害を受けてないように見えても、裏山が崩れ、埋まっている家など。どの家も人の気配はない。あっという間もなく押し寄せる泥水に命からがら避難されたのだろう。静かだ。鶯が鳴いた。車は流され横転したり、泥に埋まっている。松末小学校の近くは大きな電柱が何本も上から数メートルのところで折れ、2階建ての屋根にのしかかっている。大きく立派な家や、高級車なども、この水害の前には、命を救うことも避難の手段にもならなかった。  赤谷川は山から出たところから肥沃な田畑を育ててきた。しかし今では、山崩れによる真砂土の固まった土が、田んぼや畑、果樹を埋め尽くし巨大な平地を作り出している。見渡す限り真砂土だ。マスコミなら福岡ドーム何十個分の広さというのだろう。赤谷川沿いの村上さんが精魂込めて育ててたんぼは無事だった。と安どする間もなく、用水路がつぶされたから枯れるしかないね、と村上さん。ほかの場所でも聞いた。泥をかぶらなかった田んぼも用水路が潰れ、今年は一粒も収穫はなかろうという。  林田の村のすぐ近くの浄水場が壊滅的打撃を受けた。真砂土と流木で埋まった。電気はかろうじてつながり、プロパンガスも細々と補給されたが生活での最大の問題は水だ。避難所になっている林田隣保館には給水タンクが備え付けられ、村上さんらが井戸水などを運んでいる。飲料水は何とか確保できるが生活用水は大変だ。大災害の避難所で繰り返される避難者の苦労はここでも繰り返される。  今回の被害の特徴は、大量の流木と泥だ。震災とはまた違った、信じられないような光景だ。普段は10mに足りない小川が、数時間の記録的豪雨で最大幅数百mにもなって氾濫した。とにかく流木は凄まじい。直径1メートル弱、長さ10メートルを超えるような大木が信じられないような場所にゴロゴロしている。みんな木の皮はきれいにはぎ取られ、美しい木肌をさらしている。その木肌の美しさが異様だ。根もついている。大きすぎてユンボでも簡単に移動できないのだろう。まず細かく粉砕して、トラックで積み出している。この流木が橋げたにひっかかり、泥水をせき止め、濁流となって平地に流れ込んだ。土は真砂土だ。乾くと固くなり、雨が降ると流れる。厄介な土だ。道路や家を埋め尽くした泥は人の力ではどうにもなるい。道路や田んぼの泥をユンボで取り除く、そして家の中の泥を取り除く・・・考えるだけでも気の遠くなる作業だ。 朝倉市でも、被害は村上副委員長の住む杷木町にとくに集中している。山肌は、この一帯だけ、あちこち爪でひっかいたように崩落している。ちょっと距離があるとはいえ、村上宅の裏山の崩落のスケールは一番大きい。一時は、道一つ挟んで隣近所まで避難指示がでて、自衛隊と警察が封鎖した。 そうしたなか、被差別部落の村の被害は大きい。差別の結果、かって川沿いの湿地帯に追いやられた部落は水害の悲惨をおしつけられてきた。今回も、林田地区はすぐ横の赤谷川が流木でせき止められ濁流が流れ込み、旧同和住宅2棟の1階部分は完全に泥で埋め尽くされ、周りは流木の山となった。昔、よく泊めてもらった住宅だ。幸い、けが人はでてないようだ。5年前の水害の教訓で、川が氾濫する前に住宅の人たちは隣保館に避難したそうだ。 隣保館がある本村は同和事業でかさ上げした。もしこの事業をやっていなかったたら林田地区は全滅したかもしれない。村上さんの話では、かさ上げ事業は同和事業の対象にならないと行政が首を縦にふらないなか、村の人たちのねばり強い闘いで実現したそうだ。杉馬場地区は川のすぐ横の6軒が、流木と泥に埋まった。住民が村上さんにお礼を言われていた。全国連からの支援のペットボトルの飲料水へのお礼だった。    

9条守れ!安保戦争法案を葬り去ろう!

(2015年09月10日)

 【福岡・天神町支部】私たち天神町支部は、7月15日「安保関連法案衆議院特別委員会強行採決に反対して、緊急の村内ビラ入れ行動を行いました。私たち解放 運動は戦後一貫して「戦争は最大の差別!」として反戦の取り組みを行ってきました。戦争やらなきゃ生き延びれない社会などつぶれてしまえ! 今こそ全国連の 真価が問われています。廃案に追い込むたたかいを起こしましょう。この夏のたたかいを報告します。
   
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10・25狭山中央闘争へ (山口・陶支部の取り組み)

(2015年09月10日)

     8.6ヒロシマ反戦・反核闘争で陶支部は、カモイの模型を急遽作り、会場で広島の青年と三人で狭山再審闘争を訴えました。
   
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被爆70周年8・6ヒロシマにつどう「きずなinふくしま」をメインに

(2015年08月10日)

 広島市福島地区
地域、全国から反戦・反核・反原発、反差別の思い集まる
    被爆者の思いを受け継ぎ、反戦・反核・反差別の闘いを未来につなぐ
「被爆70周年 8・6ヒロシマ」が、「きずなin ふくしま」をメインに、8月6日、広島市福島地区において、実行委員会(代表 森島吉美さん)主催でおこなわれました。今回、はじめて被爆地の福島地区内で、午前はいきいきプラザ(旧隣保館)での屋内集会、午後は区役所前緑地一帯を「解放区」にしてステージを中心に開かれました。今号は、その速報、いずれ地元からの総括をお伝えします。 何はともあれ、毎週のように集まって準備された地元の皆様に心から敬意を表します。遠方からの皆さんの参加も、暑い中ご苦労様でした。
   
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支部・県連大会が成功

(2015年08月10日)

 茨城県連第24回大会
【茨城県連】7月5日、守谷市で第24回県連定期大会を開催し 昨年より多くの支部員ら90名の参加で成功おさめる(茨城県連) 昨年より多くの支部員ら90名が参加しました。また地元の守谷市長、県行政、青い芝の会、狭山事件と人権を考える茨城の会をはじめ市民団体や議員から来賓の挨拶をいただきました。
    大会では2つの特別報告が行われました。第1は、全国連江戸川支部長の内本さんから「福島現地訪問の報告」。先月、福島県富岡町を訪問した時の状況を、写真を使いながら説明してもらいました。
    第2は、テレビで放映された、元アメリカ海兵隊委員の反戦活動をえがいた「9条を抱きしめて」を鑑賞しました。    
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くらしを守り住宅をとりもどす7・5集会が成功 7月5日、芦原地区内で

(2015年08月10日)

     昨年、西宮市勤労会館で行われた集会から一年となる7月5日(日)、私たちは堂々と地元のど真ん中に集まり、くらしを守り住宅をとり戻す7・5集会を開催しました。集会には関西各地の全国連のきょうだい、共闘の仲間が数々の予定の重なりを調整し、かけつけてくれました。
   
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被爆70周年 8・6ヒロシマへ!

(2015年07月10日)

  8・6ヒロシマ
福島地区のつどい

午前11時~広島市西区いきいきプラザ

(きずなinふくしま    正午から西区役所前緑地)
被爆者の闘いを受け継ぐとき
【広島支部】
今年は被爆から70年を迎えます。被爆者の平均年齢は80歳を超えました。いま、被爆者の思いを直接受け継ぐ最後のときです。いまこそ、被爆二世や三世、また残された世代の皆さんが、彼らの受けた痛み、悲しみ、怒り、それらを乗り越えてきたたたかいを引き継ぎ、核兵器や戦争をなくしていく。また差別を許さない声を広げていく担い手として、強い使命を抱いて世界へ登場していく。その決意を固める場として「被爆70周年 8・6ヒロシマ 福島地区のつどい」を開催致します。
   
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支部・県連大会が成功

(2015年07月10日)

 【野崎支部】野崎支部は6月28日、第15回定期大会を開催し、運動のさらなる発展と組織建設・拡大に向けた支部の方針を決定しました。
   
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