2022年8月の記事

「狭山全国連で勝利しよう」

      第31回大会が大成功


 第31回全国大会が、7月17日、大東市民会館において開催されました。
 コロナ第7波の只中で、昨年を大幅にこえ会場を満杯にした熱気にあふれ、万全の戦闘態勢を打ち立てました。
 7月末には、検察側の「総括意見書」が出され、全国連は先陣を切って、8・24から狭山要請行動に入ります。安倍「国葬」~憲法改悪と対決し、第3次狭山再審決戦の大高揚をかちとりましょう。

水平社創立100周年を総括

 松元運営委員の司会あいさつで、大会は始まりました。議長に奈良・西之阪支部の大橋ひかりさん、書記に寺垣運営委員を指名。大橋中執の音頭で「解放歌」を斉唱。水平社宣言を、婦人部・阪口由貴美さんが、高らかに朗読しました。
 村上久義委員長の主催者あいさつでは、水平社100年に触れつつ、参議院選挙で改憲勢力が3分の2をこえた今、「人民戦線」でたたかう必要を強調しました。
 連帯挨拶が、動労西日本・小川委員長、東大阪市・松平市議、三里塚関西実行委の安藤さんから行われました。狭山大運動共同代表・長谷川直彦、本田豊両氏のメッセージが紹介されました。
 2021年度活動報告を、北浦財務委員長が行い、とりわけ第2次狭山意見広告の大成功を確認しました。

「安倍を受け継ぐ」岸田はろくなもんじゃない

 つづいて2022年度の運動の基調を楠木書記長が提案しました。
 水平社100年、全国連30年を総括しつつ、ついに狭山でブレークスルーしたこと、「狭山全国連」で勝利しようと、強調されました。
 安倍銃撃事件について、今こそ、存在感のある発言を。問題は安倍の死がどうこうではなく、生きている時の安倍政治がどうであったのか。
 アベノミクスで、非正規が4割をこえ、部落は8割。一握りの金持ちだけが肥え太り、毎年2~3万人も自殺に追いやられる。そのくせ安倍が愛してやまなかった自衛隊。こんな安倍政治が、事件を生んだ。それを反省どころか、受け継ぐという岸田はろくなもんじゃない。

「狭山全国連」で勝利しよう

 課題別報告として、狭山を井橋中執、長野市議選を中村中央委員、医療・介護を岩崎中執が行いました。役員人事案は坂本選考委員長から、会計報告・予算案は北浦財務委員長から、風間監査から会計監査が報告されました。
 8・6ヒロシマ、狭山、改憲阻止の3本の決議案が提案されました。
 提案の全ては、一括採択されました。村上委員長のまとめ、山田幸助副委員長の団結ガンバローで、大会をしめくくりました。


◎主催者挨拶(村上久義委員長)

 参集されたみなさん。本当にご苦労様です。
 今から一〇〇年前、私たちの先輩は、差別・迫害、差別して当たり前という社会の闇を切り裂く稲妻のような激しい憤り、怒りをもって全国水平社を結成しました。それは本当に苦難の長い長い歴史の始まりでもあったろうと思います。融和運動を一切拒否して、人間は尊敬すべきものと宣言して起ち上がりました。これが水平社の自主解放の精神でありました。
 差別に対しては徹底的に糾弾する激しい闘いでありました。軍隊や警察、あるいは裁判所や役所や学校、これらは差別の巣窟でもあります。これらに向かって闘って闘って闘い抜くという、こういう精神が水平社のなかに息づいていたのです。
 これに対して当時の天皇制国家権力は何千人もの部落の活動家を、あるものは獄死させられて、その闘いの犠牲になったのであります。私達はそれから100年、その犠牲を受けて部落解放運動、人民解放運動の闘いの地平を受けついでいます。あらゆる差別をなくすための闘いに起ち上がっていかなければならないと思います。
 さて、不当逮捕から59年になります狭山事件も、水平社100年の歴史のうち、59年という半分以上を闘って来ました。いま第3次再審は大詰めを迎えました。鑑定人尋問・事実調べをおこなわせるかどうか瀬戸際にきています。
 私たちが大きく切りひらいてきた闘いでもあります。5月8日の毎日新聞に掲載された第2次意見広告運動で本当に全国に大反響を呼び起こしました。もっともっと、このような闘いを強めていくそのような礎を築いていきたいと思います。
 さて7月10日におこなわれました参議院選挙、改憲勢力が三分の二と言う異常な事態になりました。私たちはこの改憲勢力が今後どのような動きをし、どんな形で日本の政治を作っていくのかほんとにしっかり注視しなければなりません。そのために闘っている人たちが手を握って「人民戦線」のような戦い方を新たに創造していく、その闘いの一翼を全国連が担っていかなくてはならないのではないかと思います。
 最後になりますが、どうかみなさん、平和憲法を守り、九条改憲を許さないためにあらゆる人々と手を握り、改憲阻止の闘いを作っていきましょう。


◎2022年度運動方針案・基調報告要旨(楠木書記長)

はじめに
 参議院選挙に全国で取り組みました。ご苦労様でした。
 全国連が推薦した候補は善戦しました。大阪のやはた愛さんは、当選は果たせませんでしたが、衆議院の時より大幅に票を伸ばしました。れいわ新選組は3議席を獲得し、社民党は福島さんが当選し生き残りました。沖縄では、伊波さんが自民を破って当選しました。
 しかし、全体としては自民や維新が議席を増やし、立憲の後退が目立ちました。国会の3分の2を改憲派で占めることになってしまいました。憲法を変えるかどうか、いよいよ本番です。
 このなかで、安倍銃撃事件がありました。これについて、存在感のある発言を求められています。問題は、安倍の死をどう思うかではなく、生きてる時に安倍がどんな政治をしたのか、この点にあります。岸田は「安倍さんの遺志を継ぐ」と言います。冗談じゃない。
 アベノミクスで、非正規が4割超え、部落は8割ですよ。ほんの一握りの金持ちだけ肥え太り、庶民は生きていくだけで精一杯。毎年、2~3万人が自殺に追いやられる。そのくせ安倍が愛してやまなかった自衛隊。こんな安倍政治が、今回の事件を生み出した。それを反省どころか、「受け継ぐ」という岸田はろくなもんじゃない。所得倍増ではなく、自衛隊倍増。そのための憲法改悪。ろくなもんじゃない。安倍の国葬?とんでもない。
 選挙があった日、福岡では大きな成功をおさめました。5・8の意見広告から、狭山の潮目は、確実に変わっています。狭山をもっと前へ!これを念頭に、基調報告にはいっていきます。
 
1、 水平社創立100周年・全国連創立30周年
 略。7月の掲載を参照してください。
 
2、狭山闘争と三大闘争路線の意義
 全国連はなぜ生まれたのか
 私たち全国連は、1980年代の解同本部派による処分と権力弾圧との熾烈なたたかいを繰り広げた末に誕生しました。狭山・三里塚・反天皇を最もよくたたかうが故の処分、弾圧でした。狭山・三里塚・反天皇は、既成指導部の抑制を踏み越えて、階級的力関係全体の変革で狭山闘争に勝利する部落解放運動をつくり出す、三位一体のスローガンでした。だからこそ、「狭山闘争に勝利するために全国連は生まれた」と言うのは真実ですし、そう言い切っても決して過言ではありません。
 同時にそれは、水平社の教訓を徹底して自分たちの運動に汲み取り、その正しさを自分たちの血肉にするとともに、敗北への道を峻拒(しゅんきょ)する進路を打ち立てるという、新しい全国運動への果敢な挑戦でした。
 当時、折しも、「戦後政治の総決算」を掲げる中曽根内閣が登場しました。中曽根は、攻撃の中心に国鉄の分割・民営化をすえ、その暴力的強行によって、総評、ひいては社会党を解体に追い込みました。
 この中曽根が、新たな同和政策として打ち出したのが、「地対協路線」でした。1965年同対審答申、1969年特措法いらい18年間のやり方を、根本的に転換し、個人給付を始めとした同和事業の打ち切りに舵を切り、「行政の主体性」「部落側の自立向上」を強調しました。決定的には、「糾弾の行き過ぎが、かえって差別解消を妨げている決定的要因」として差別糾弾闘争を口を極めてののしり、「差別事件は法務省へ」と権力による介入、取り締まりを方針化したことです。
 これに対して、解放同盟本部派はどうだったでしょう。「個人給付はもうやめてもいいのではないか」「部落差別は許しがたい社会悪であることが、日本の国是になったらいい。権力と解放同盟とのたたかいに狭山がなっている。これを元に戻さなくてはならない」。これが、当時解放同盟委員長の上杉の発言でした。地対協の連中の言い分と、見事に調子をあわせ、中曽根の前に白旗を差し出したのです。
 30年前、私たちが全国連を創立した当時、部落解放運動をめぐる情勢は、おおよそこうしたものでした。戦後部落解放運動は完全に終焉をむかえ、総屈服・総転向か否かの、歴史的な曲がり角にあったのです。その中心問題は狭山闘争を差別裁判糾弾から転換し、権力とのたたかいではないもの、権力との和解路線に変質させる点にあり、それが解放同盟じしんの変質の身の証とされようとしたのです。「仮釈放」はては「天皇恩赦による釈放」で、狭山の幕引きをはかるという、とんでもない陰謀が進んでいました。
 私たちは、これに対して、三里塚1千人決起・千葉刑包囲闘争を空前の大衆決起でたたかい、その土台のうえに1985年三里塚実力闘争・同年浅草橋戦闘への福岡、長野を先頭とした決起、そして乾坤一擲、1990年三人の仲間による東京高裁突入に決起しました。こうした渾身のたたかいで、天皇恩赦・狭山幕引きを粉砕し、部落解放運動の恐るべき危機に仁王立ちしたのです。1992年3月3日、大阪中之島公会堂を満杯にした全国連の創立は、以上のような歴史的瞬間であったのです。
 全国連第2回大会は、全国連のたたかう部落解放運動の道筋をつけるものでした。
全国連はその大会で「2回大会テーゼ」と言われる、解放論をうちだしました。
 解放同盟本部派は、朝田理論以来「部落が差別されるのは、スラムのような悲惨な生活実態だからだ」「部落差別の本質は、部落民が市民的権利を保障されていないこと」としてきました。この考えでいけば、住環境をはじめ部落の生活改善が進めば、当然のように部落差別は薄められ、解消していくことになります。「日本が近代化していけば、おのずから封建的な遺物も無くなり、部落差別も無くなる」という、日本共産党に典型的な差別解消論のなかに、解放同盟本部派も属しています。
 全国連は、この朝田理論を徹底的に批判し、日共由来の解消論を根底からのりこえる見解を明らかにしました。
 では、この考えの上で全国連は何をするところなのか、既成解同の、「行政闘争主導路線」に対して、全国連のたたかいの路線を打ち立てる必要があります。
 部落解放運動とは、あらゆる身分的差別のあらわれと対決する、差別糾弾闘争でなければなりません。差別行政とのたたかいだけに留めるのではなく、政治、経済、社会、教育、文化など全社会場面での差別に対して、差別糾弾闘争でもってたたかうということです。部落差別に怒り、反対する人々は、その点で一致できるならば、全員一緒にたたかおうという運動です。ですから、全国連は、水平社の変遷のなかで否定されてきた、差別徹底糾弾を、改めて土俵の真ん中に据えなおし、水平社創立時の根本精神を現代によみがえらせたのです。
 同時に全国連は、部落大衆の困難と向き合い、生活要求闘争を果敢にたたかいます。住宅、労働、教育、医療・介護、税金など、本部派が見捨てた、部落大衆の困窮と向き合い、全方位で取り組んでいます。しかし、生活要求闘争は、差別糾弾闘争と別物として、並列的に並べられるものではありません。その点で、水平社の創意的なとりくみは、豊かな教訓に満ちており、大いに学ぶ必要があります。
 さらに、こうした取り組みを、たたかう労働者、農民、被差別民衆との共同闘争として展開します。
 以上のように、全国連は三大闘争路線でたたかってきました。そのいずれをとっても、身分的差別とのたたかい、即ち差別糾弾闘争が中心にあります。差別糾弾、生活要求、共同闘争がバラバラではなく、差別糾弾闘争を基軸にして、混然一体の課題としてあるというたたかい方です。差別糾弾闘争基軸に三大闘争路線でたたかうこと、このことに水平社の血涙で綴られた教訓があり、また水平社の果たせなかった「良き日」への未来が開かれています。
 この指導路線の生きた見本ともいうべきたたかいが、狭山闘争です。石川一雄さんが不当逮捕され、身に覚えのない「誘拐殺人犯」とされてから、今年で59年が過ぎました。水平社100年と言いますが、実にその半分を超える59年間、狭山闘争が続いています。この59年にもわたる狭山闘争の、部落解放運動史上に刻む歴史的意義について見ておきましょう。
 言うまでもなく狭山闘争は、石川さんの無実を晴らすたたかいです。私たちは、83歳になられた石川一雄さんが健在なうちに、何としても再審を実現し、無罪判決をかちとらねばなりません。それが狭山闘争のすべてです。 同時に、それは一人石川一雄さんばかりでなく、300万部落民と労働者人民にとって「石川命わが命」、自分の人生がかかっています。その本気さ、熱意こそが、巨万の人々の魂を揺さぶり、共鳴し合い、意見広告の空前の成功をかちとりました。この成功は、なぜあったのでしょう。
 ①  59年に及ぶ石川さんの無実の叫び、それへの驚きと圧倒的共感です。② 権力犯
罪を真正面から、下山鑑定1本にしぼって告発したからです。「まさか!この時代に!ショック」と言う感想が、初めて狭山を知ったという人からもたくさん寄せられました。それは、狭山の真相を薄めたから、優しく説いたからということでは全然なく、権力犯罪・差別裁判に対する、渾身の糾弾だからです。③ 部落民だけでなく、労働者人民の心も鷲掴みにしたことです。しかも、20代30代の若者も反応しました。 私たちは、この成功のなかに、狭山闘争の生きた意義を再発見しました。それは、何をかくそう、国家権力犯罪と不屈非妥協にたたかうこと、対権力糾弾闘争の大きさその圧倒的な正義性です。これは戦前の水平社の糾弾闘争、高松差別裁判糾弾闘争などを、はるかにしのぐ可能性を示しています。同時に、差別糾弾闘争のたたかい方のお手本としても、いわゆる「糾弾主義」や「自由な論議」をのりこえて、絶対的な社会的正義にたって、基軸堅持・戦術柔軟の方法を編み出しました。
 こうして狭山闘争は、差別糾弾闘争の天王山として、部落解放運動の歴史を塗り替えるべく、そびえたっています。それが、解放同盟本部派によってではなく、全国連と心ある人々によってなしえていることが重要です。私たちが今どこにいるのか、どこに向かうのか、このなかに照らし出されています。

3、組織建設について
 私たちの組織的な現状は、同盟員・役員の高齢化、亡くなる人の増加、他方で若者の減少が否応なく進んでいます。コロナ禍でも支部・県連大会を開催したところもありますが、もう何年も支部大会が開けないところも多々あります。大半のところは、月々の新聞配布と併せて会費を徴収し、本部にも納入していますが、数カ所の支部で、恒例のように半年、1年の滞納があります。
 確かに厳しいことは否めませんが、狭山・三大闘争では、どんなに少数でも奮闘していることも事実です。とりわけ狭山闘争のなかで、新しい人との繋がり、若者の注目が始まっていることを重視し、ここに未来を確信しましょう。
 全国連の組織建設は、第1に、闘いつつ学ぶ、闘いの中で学ぶ、ここと切断した純粋培養の組織づくりはありえないことを、しっかり押さえなければなりません。そのいい手本が、水平社の差別糾弾闘争と支部結成の関係にあったことは見てきました。「全国連は小なりとも解放運動をしょってたつ」その気概に燃えて、狭山・三大闘争を展開し、そのなかで部落民的自覚を形成する、これが一番大事なことです。
 ただし、やりっぱなしの運動では、やはり組織は疲弊します。たたかいつつ、同時にたたかう意味について、理論学習と結合してこそ、部落民的自覚が芽生え、深まっていきます。
 今、最も重要なことは次の点です。全国連は、狭山闘争のために生まれ、そしてついに30年かけて、ブレークスルーした、壁を突き抜けた、このチャンスを徹底して活かしてください。
 これは、故中田書記長の遺言です。4年前、第1次の意見広告が出たすぐあと、中田書記長は私に「もう一度やろう」と言いました。正直、私はためらいました。ほかの中執も皆そうだったと思います。間もなく、中田書記長に深刻な病が見つかりました。私は、そのあと決意しました。それから色々あって、全国連の正式決定まで半年かかりました。中田書記長をぬきには、第2次意見広告は無かった。5月8日朝、まっさきに瀬川さん、中田さんの墓前に毎日新聞を届けました。
 意見広告やその反応を大宣伝し、そしてハガキへの協力、新たな大運動への入会を、例外の無い全国一斉の大運動としてとりくみましょう。
 さらにこれを、要請行動の組織化、そのためのオルグ・学習活動と結合することが決定的です。無実への確信、そして権力犯罪への怒り、部落差別への気づきです。下山鑑定などの学習を入り口に、検事論告、死刑判決の暴露。また、石川さんの生い立ちと59年の無実の叫び、部落解放運動への目覚めを追体験する学習や現地調査。
 これは、狭山にたちあがるなかで、誰もが体験してきたことです。いわば、狭山闘争の原風景です。これを、狭山決戦の今、よみがえらせましょう。そのための財政も、私たちは準備しています。要請行動の新幹線代、宿泊費、これくらいは、本部で保障します。
 組織建設の第2は、独自の理論学習が必要なことです。この取組みは、全国連においては、たたかいに比して圧倒的に不足しています。
 解放講座の定期的開催を、今年は各地で実行しましょう。その場合、全国連の役員じしんが先頭に立ち、役員の自分史をあえて晒して始めていくことが肝要です。本部や役員と言っても、生まれた時から活動家ではありません。それぞれの過程を経て、いろんなきっかけで、今の姿になっていきました。いわば、全員が、もともとは一部落大衆です。いきなり難しい理論を振り回すのではなく、生身の人間像を語ることが、講座の成功の半分を握っています。
 第3に、こんにち部落の若者は非正規が3人に2人、世間一般の2倍と言われています。村の中に大量の公務員を軸に子供、青年、婦人がいつも溢れていた時代とは、まるで違う条件に置かれています。「新自由主義」の過酷な競争に投げ込まれ、毎日生きることに精一杯、そんな厳しさに置かれています。
 この困難の前に足がすくんで、役員・同盟員の子弟にも運動のことが言えない現実があります。しかし、全国連の子弟は狭山を知っています。世の中の不正にも、怒りを持っています。他方、「お父ちゃん、お母ちゃんのようにはできない」と言われます。そう言うことが、むしろ道理にかなっている世の中なのです。そこを認めることなしには、全国連青年部は大きくなれません。そう言わざるをえない困難に耳を傾け、共有しつつ、それでもこの若者が自己解放の主体であり、未来の主人公なのです。
 青年部は、レクレーションなどでの出会い自体を重視し、一定の意識的な若者を学習会=解放講座に組織しましょう。とくに、いま始まった狭山大運動を、青年部こそが最も重視し、大いに活用して狭山で組織しましょう。
 3月の拡中委に、故池本中央委員の意見書が提出されました。彼の、支部を思う危機感が、胸の中に痛い程響いてきます。池本君の遺志に、1ミリでも応えたい、そういう思いで組織建設に立ち向かいます。
 今年の運動方針は、憲法問題を避けて通ることはできません。やがては、国民投票となり、全国民が選択しなければなりません。反戦闘争の刺し身のつまにしてしまわないで、憲法自体を一度真剣に検討することが必要です。
 日本国憲法の主な条文を見ておきましょう。
第1条 天皇は、日本の象徴
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 2 陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
第14条 全て国民は、法の下に平等。社会的身分又は門地(家柄)により差別されない。
第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
 これに対し自民党は、4項目の変更を言っています。とりわけ注目する点は、「9条のなかに、自衛隊を明記すべき」「自衛権にも言及すべき」。緊急事態への対応を入れるべき。この2点です。実際のところ政府・自民党は何をしようとしているのかを見なければなりません。最近のウクライナや、朝鮮民主主義人民共和国を口実にした、政府の軍事費の大幅拡大・軍備増強、敵基地攻撃能力の保持などの動きと関連してみなければなりません。
 賛成か反対か
 自民党の改憲案と憲法9条とは、絶対に相容れません。日本は、今でも世界第5位の軍事力と言われています。フランスやイギリス、ドイツよりも上位です。すでに日本は、それほどの世界有数の軍事力を持っています。
 9条をもう一度見てください。9条は、今ある軍事力すら認めていません。まして、戦前の日本やドイツなどの歴史を見ても、軍事力というものは、一度堰をきったら歯止めが利きません。一体、何のためにそんな軍備増強が必要なのでしょうか。
 しかも、9条を変えたら、その先には何があるのかが問題です。今回はスルーされても、1条の天皇の位置、14条や25条、法の下の平等や生存権はどうなるのか。
 歴史の教訓は、普段は平和な日常にいても、変わるときは一気に変わります。自民党副総裁の麻生太郎は、「憲法のことはナチスに学んだらいい」「わーわー騒がないで、ある日気づいたら変わっていればいい」と発言しました。
 緊急事態への対応など、最初は大地震対策などと言います。しかしその先には、国民の基本的人権を踏み従える戒厳令が待っています。現行法でも間に合うのに、なぜわざわざ新たに憲法に盛り込むのか、その狙いが透けて見えます。
 では、部落と憲法との関係は、どう考えればよいでしょうか。
 日本国憲法は、部落民にとって、決して満足なものではありません。憲法ができても、部落差別そのものは頑強に残りました。劣悪な生活環境、義務教育すら満足に通えない、労働は不安定で借金なしには生きれない、医療もほとんどの人が保険証を持てず死ぬ間際しか受けられない、これが戦後部落の実状でした。何より狭山事件です。石川さんの生い立ち。「部落ならやりかねない」と言う差別扇動、部落への絨毯爆撃のような見込み捜査、そしてでっち上げ。差別しても罰せられない。差別し放題。それが戦後憲法のもとで部落の置かれた状態でした。
 しかし、憲法は部落解放運動の武器にもなってきました。憲法の平等権、生存権を使って、同対審答申をださせ、特措法を制定させました。それは憲法のもたらす恩恵ではなく、部落の側の自主解放があって、初めてたたかいの武器として役立ったのです。それでも、それすら無くなったらどうなるのか。私たちは無関心ではいられません。
 狭山闘争の勝利なしに人権無し。反戦平和なしに、狭山の勝利なし。狭山と反戦平和を両輪にして憲法改悪を阻止しましょう。


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 7月10日、大きな反響を生んだ狭山第2次意見広告の報告集会が福岡で開かれ、かつてない参加者を集め大成功した。
 狭山再審の決戦局面に、新たな狭山大運動が始まった。


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